雌豹の巣窟②
慈寧宮を辞した白狼と翠明は、お互いに無言のまま帰路についた。
月のうち半分も枕から頭が上がらないと称される帝姫に扮した白狼は、後宮勤めの宦官が担ぐ輿に揺られながら一人、皇后との会話を反芻していた。
面倒くさいことになった。というより、進退窮まっていると言ったほうがいいかもしれない。その原因が自分にある。何とかできないか。
本来の性別を考えれば輿入れなど銀月ができるはずもない。たった一人の皇子である銀月を外に出さないように皇帝がある程度抵抗するかもしれないが、結局は無残に敗れて皇后の言いなりになることは想像に難くない。それほど白狼にとって皇帝の期待度は低かった。
つまり、何を言われても輿入れなど拒否して後宮に居座る、というのは難しいだろうということだ。
では実際に輿入れなどしたらどうなるか。
極端に身体が弱い姫君として大切にされるかもしれないが、いくら高貴な帝姫といっても夫となる男との同衾をすべて拒否できるかといえばどうだろう。性別を隠すのであればそれしかないが、非現実的と言わざるを得ない。
いや、絶対無理だろう。大体、既に銀月の身体は少年から青年へと徐々に変化しており、もうすぐどんな高等な化粧の技術でも誤魔化しきれなくなる。この半年ほどで背も伸び、小柄な白狼を軽々と抱き上げてしまうほど体格差が顕著になってきているのだ。
鈍感な婿だったとしても、並んだり会話したりすれば銀月が女ではないと気が付いてしまうだろう。
では事情を話して協力してもらうか。
これもおそらく無理だろうということは、白狼の頭でも分かる。皇帝と皇后が各方面へ輿入れの打診をしているというが、実際には皇后が実家を通してどこか都合のいい貴族へ根回しをしているのだろう。性別を偽っている事実が露見した時点で、銀月と側近は皆殺しにされるに違いない。皇帝すら罪に問われる可能性もある。
うーん、と白狼は輿のなかで腕組みをした。
どう考えても行き止まりである。
「途中で脱走するしかねぇかぁ? でもなぁ、行先がなぁ……」
ぶつぶつと呟いていると外からコホンと咳払いが聞こえた。輿の隣を歩く翠明だ。思いのほか独り言が大きかったのかもしれない。誤魔化すように白狼はわざとらしく数回咳き込んでみせた。
そうこうするうちに輿は承乾宮に到着し、ゆっくりと降りた白狼は周や黒花に抱えられるように宮の中へと運び込まれたのだった。
★ ★ ★ ★ ★
「ではやはり輿入れの件が話題になったのだな」
白狼が着替えを済ませて銀月の部屋に行くと、翠明が茶会の次第を報告し終えていたところだった。話題については予想がついていたのだろう。毒見兼身代わりがぴんぴんしていてほっとした空気になったのもつかの間のこと。宮の面々の表情は一様に重い。
「はい、皇后陛下自らお選びになるとのことで、おそらくはご実家の息のかかった貴族か、遠縁の王家を利用されるのではないかと」
「となると、斎氏か呂氏か……あるいは……先々代王弟の霍家か」
銀月が形の良い唇に人差し指を当てた。さすがに長年後宮で貴族の力関係を観察していた帝姫である。白狼が描いていたうすぼんやりとした「どこか都合のいい貴族」が、はっきりとした氏族名に姿を変えた。
斎と呂ね、と白狼は記憶に刻む。とはいえ、生来のど平民にとってはそれらの家がどんな家なのかは全く分からないが。
「いずれの御家であったとしても、姫様はご無事では済みますまい。瑛家の皆様も……」
眉をひそめながら翠明が言葉を濁す。瑛氏といえば銀月の母の家である。これは聞いたことがある、と白狼は頷いた。
「父上がどれだけ皇后を止められるかが問題だが、期待はできまいな」
「恐れながら……」
そう言って翠明が首肯すると、一同には沈黙が訪れた。
周は腕を組んで天井を仰いでいるし、黒花も小葉も卓の上の一点をじっと見つめている。翠明は翠明で、銀月の顔を見つめて何か言いたげではあるが黙ったままだ。
おそらく誰もが白狼が輿の中で考えたようなことを思案しているのだろう。しらばっくれて隠し通せるか、事情を説明して協力を仰ぐか、頑として後宮から出ないと言い張るか。
そのどれもが現実的ではない。それが分かっているから誰も何も提案できない状況なのだ。
「女帝擁立の動きがあるというのも、ここにきて我々にとって更なる逆風になるな」
銀月がぽつりとつぶやいた。
「時間がない。どうにかならぬか考えてみるが、念のため父上にも一度ご相談しよう。周、近々おいでいただけるように取り計らってくれ」
「はっ」
「翠明、白狼。ご苦労だった」
ねぎらいの言葉が一旦この場の解散となる合図になった。護衛宦官がきびきびとした動きで出て行くと女官たちもそれぞれの仕事に戻っていき、部屋には銀月と決まった仕事のない白狼だけが残される。
いや、解散間際に黒花が、小葉と一緒に出て行こうとした白狼の足を踏んで押しとどめたのだ。あ、と思ったときには既に目の前の扉が閉められてしまっていた。
結果的にではあるが銀月と二人になるのは十日ぶりほどか。避けられていた間のことを思うと気まずい。しかも自分が原因でこの窮地を招いていると思うと猶更だ。きっと銀月は自分の事を疎んじているに違いない。
こういうときはどうすればいいか。とりあえ謝って、可及的速やかにこの場から姿を消すに限る。
えーっと、と白狼は頭を掻きながら雇い主を振り返った。
「あの……悪かったな。なんか、俺がぶっ倒れたせいでこんなことになっちまって。何とかならないか、俺もちょっと考えてみるからよ。あんま、役に立たねえかもしれねえけど」
ぼそぼそと幾分早口で謝罪にならない謝罪をした白狼は、即座に踵を返す。しかし扉へと伸ばした手は空を切った。
肩にかかる抵抗に振り返れば、そこには銀月の手がある。引き留められたのだと白狼が気が付くと同時に、目の前にある華のように美しい顔が苦し気にくしゃりと歪んだ。
「え? なに? どうした?」
「……すまない。よく無事で……」
え、という白狼の呟きに、銀月はすまないと小さな声で何度も繰り返していた。




