月事と茶会③
にこにこと人が好さそうな笑みを浮かべた宦官を前に、白狼は押し黙った。元来、距離感が近すぎる人間がやや苦手なのに加え、後宮の力関係にはまだ精通しているとはいえずむしろ疎い方だという自覚がある。迂闊な受け答えはしないほうが賢明だという程度の頭はあった。
中秋節の宴の様子から見ればこの宦官は徳妃の宮の者だということは分かっている。しかし白狼自身は徳妃の宮の者との接点などないはずなのに、なぜ自分を知っていたのかが全く見えない。徳妃その人もなぜあの宴で白狼を助けるような行動をとったのか、それも分からない。警戒するなと言う方が無理だ。
しかし宦官の方は警戒心むき出しで後ずさろうとしている白狼のことなどお構いなしに、近頃はすっかり朝晩が冷えるようになっただの、庭園は金木犀の盛りだだの、世間話を止めようとしない。徳妃の列はその間も高位の妃嬪にしては驚異的な速さで通り過ぎていく。さすがの白狼も宦官についていかなくてよいのかと問いかけようと口を開きかけた。
「ああ、そうそう。燕や」
おもむろに宦官が列を振り返り手招きをした。それに応じたのは列の最後方を歩いていた少女で、白狼はその娘の顔をみてはっと息を飲んだ。
いつだったか、後宮内で道に迷っていた徳妃の宮の下女といっていた少女だったのだ。彼女の方も記憶の中で思い当たったのだろう、白狼と目が合うと相好を崩して駆け寄ってくる。妃嬪に仕える下女だろうに、列から外れて大丈夫なのかと白狼の方が狼狽えた。
「お久しぶりです、白狼さん」
「え、燕……さん」
生きてたのか、という言葉は飲み込む。てっきり懐妊した徳妃の毒見としてあっさり死ぬんだものと思っていたからだ。しかし近くで見る燕の顔色はすこぶる良く、健康を害している様子は一切ない。それどころか以前に会ったときより幾分ふっくらしたような、そんな気さえする。
「いつぞやは燕が白狼君にお世話になったね」
「いや、そんな大したことは……」
「大したことです! 私、あのままだったらお遣いも満足にできないまま後宮内で道に迷ってましたから」
その節はありがとうございますと深くお辞儀をされ、白狼は言葉に詰まった。徳妃の宮の面白い話を聞けるかも、などという下心があったわけで別に親切心でやったことではない。毒見ですぐ死ぬだろうなどと思っていたことも後ろめたさに拍車をかけた。
しかし細身の宦官と燕は身を固くしている白狼にはお構いなしにぐいぐいと距離を詰めてくる。
「宮に戻ってくるのが遅くて探しに行ったら、小柄な宦官に親切に案内してもらったというからすぐにピンときたよ」
「そうなんですよ。柏様にお伝えしたらすぐにそんなに小柄な宦官だったなら白狼さんは承乾宮の方だろうって教えてくれて。その後すぐにお礼に行こうと思ってたんですけど、遅くなってしまってごめんなさい」
「いやいや、燕が会えなかったのは仕方ないさ。なんたって白狼君はあのあとすぐに乾清宮の陛下の元へ行っていたわけだからね。いつの間にこっちに戻っていたんだい? 最近は姿を見かけなかったので心配していたんだよ」
「少し、その体調を崩してて寝込んでたんで……」
「それは大変だ。もうすっかり良いのかい?」
「はい、もうなんとも」
「しっかり食べるんだよ。何か足りないものがあれば言ってくれれば都合しよう。今は手持ちがこれしかないが、食べるかい?」
そう言うと、宦官が懐から鮮やかな刺繍の布包みを出した。結ばれた紐が解かれると、中から薬包にも似た白い紙の小包がいくつも現れる。横からのぞき込んでいた燕が華やいだ声をあげた。
「うわあ、柏様、それってさっき徳妃様に届いた飴菓子じゃないですかぁ」
「燕も徳妃様にいただいたろう?」
「はい! 美味しかったです!」
「ということだ、白狼君もほら、どうだい? 滋養にいいと聞くよ」
「い、いえ、姫君や宮の女官の方々も、良くしてくれますから……! 結構です!」
それは良かった、と安堵の表情を浮かべる燕と、食べないのかいと首を傾げる(燕曰く柏様とかいうらしい)宦官に、白狼はおかげさまでと頭を下げた。その実、頭の中は今の会話の中身でいっぱいだった。何か耳に引っかかった言葉があった、話の中に含みがある気がした。なんだ、と記憶を辿る。しかしその「何か」が分からないまま、胸の中でちりちりと焦燥感が湧き上がった。
そうっと柏を見上げると、白狼と目が合った彼はまた微笑んだ。
正直なところ、誠に胡散臭い。白狼も愛想笑いを浮かべて背後に隠した屑籠を拾った。妙な胸騒ぎがするのも気になる。変に腹を探られる前にここは退散するのが手っ取り早いだろう。徳妃の列はとうに先を行っていることだし。
「すみません、お遣いの途中なので。私はこれで」
ぺこりと頭を下げて二人を伺えば、おやおやと柏が頭を掻いていた。
「これは足止めをしてすまなかったね」
「いいえ、こちらこそ、その、柏様にも、徳妃様にも御助け頂いたお礼にも伺ってなくてすいませんでした」
「ああ、あれはほら。どうやっても君が犯人だというには無理筋だと思ったからね。疑いが晴れて良かったと、徳妃様も胸をなでおろしておられたよ。それに承乾宮の帝姫様からはお礼の御文を頂いているし、何の問題もないさ」
なぜ助けた、というのは聞けなかった。銀月から文を出していたというのも初耳だ。問い質したい気持ちはあるものの、今はこの胡散臭い宦官から少し距離を取って考える時間が欲しかった。
名残惜しがる燕を宥めながら、柏は励みなさいとだけ言って白狼の肩を一つ叩く。そしてすっかり遠くなった徳妃の列の後姿を追うように、その場から立ち去って行ったのだった。




