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月華麗君とりかへばや物語~偽りの宦官が記す後宮事件帳~  作者: 葵一樹
妃嬪の徴証

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月事と茶会②

 厨房でぶっ倒れてから二日も経たぬうちに出血が始まり、勝手の分からない白狼は狼狽えながらも翠明や小葉の助けを借りながらその期間をやり過ごした。痛いわ、気持ち悪いわ、血の臭いは鼻につくわで散々な目にあった、もう二度とごめんだと桶で下履きを洗いながら愚痴ると、小葉にはそういうものだと諭された。

 世の中の女の大部分が経験していることだから、仕方ない。大丈夫。お前も耐えられる。という事なのだろう。面倒くせえとは思うが、そういうものであると言われてしまえば引き下がらずを得ない。改めて女として生まれた自分の身を呪った。

 そしてあれから十日。欝々としながらも出血が収まった頃合いを見計らって仕事に戻った白狼が今もっとも納得できないことは、銀月がやけによそよそしくなったという事である。

 今までなら朝餉の後にちょいちょいと呼ばれて茶をともにするとか、食事に入っていた自分があまり好きでない食材をひょいっと口に放り込まれるとか、そんな他愛ないやり取りがあったものだ。しかし自室や後罩房こうとうぼうでの軟禁が解かれ、表に出て仕事に復帰し始めてからこっちそんなやりとりがぴたりと止まっていた。

 礼儀作法にうるさい翠明に注意でもされたのかと思えばそうでもないらしい。侍女頭が二人の様子を見比べて、訝し気に首を傾げているのが何よりの証拠だ。でも何も言ってこないのは、思うところがあるのかもしれない。

 夕餉の後に恒例となっていた囲碁に呼ばれることもなくなった。負け続ける囲碁など楽しいものではなかったが、二人で過ごす密やかな語らいの時間を割と気に入っていたと思い知らされ、白狼の心中は面白くない。

 おまけに今朝の事だ。膳を下げる際にふと銀月と目が合った――と思ったらあからさまに顔を背けられたのだ。


「ったく、何だってんだよ」


 外に聞こえると叱られるので口の中で小さく舌打ちをした白狼は、屑籠を持って宮の門をくぐった。例によって、小葉による掃除で集まった塵を捨てに行くという仕事だ。ちょっと打ち解けたかもと思ったのに、やはり白狼の手癖に関しては信用がないらしい。

 さっさと行ってこいと屑籠を押し付けられたが、まあ宮の中で銀月に無視されているよりはマシかもしれない。足元に小石でもあったら蹴っ飛ばしたいところだったが、手ごろなものがなくて舌打ちに留めた次第である。

 どうせ戻っても大した仕事はないし、銀月の相手をすることもないだろう。ならば散歩がてら後宮の中をぶらついてやろうか、と屑籠を持ったまま焼却場と反対を向く。ぷらぷらと気ままに歩いていると、表通りではないが少し大きな通りの向こう側から複数の人間が歩いてくるのが見えた。

 装いや人数を見て考えるにどうやらどこぞの妃嬪の一団らしい。ツイてない、と思いながらも白狼は通路の端へより、屑籠を背後に隠しながら平伏した。宮の外でよその妃嬪に遭遇した際はその一団が通り過ぎるまで、地べたにひれ伏したまま待たなければいけないからだ。いつから行われているかは分からないが、翠明曰く古くから後宮の決まり事なのだという。

 皇后や貴妃ならば庭園への散策でも表通りを堂々と練り歩くから、裏通りで仕事に走り回る宦官や女官の邪魔にはならない。目上の妃嬪に表通りで出会うことを遠慮した九嬪あたりのお妃さまの仕業か。完全な裏通りとは言えないが、こんな宦官や女官が使う道を通らないで欲しいものである。

 どうせ誰かなんてわからないのだから、早く通り過ぎてくれないものかとじっと膝と両手を地面に付いたまま頭を下げる白狼は、横目で彼女たちと自分との距離を測った。


 ――早いな。


 うっかり顔を上げなくてよかったと白狼は慌てて目線を下げた。妃嬪の歩みは牛のごとく遅いと思っていたのに、その一団はもうかなり近くまで来ていたのだ。宮の中を歩き回る女官たちの歩みと大差ないような速さだ。これなら思ったより早くこの場を立ち去れかもしれない。膝に石畳の境目が食い込み過ぎる前に身体を起こしたいところである。

 気配を殺すように頭を下げていると、足音が近づき頭上でかすかな衣擦れの音が通り過ぎていく。女性たちの動きに合わせるように、鼻先を甘い香りがくすぐった。柔らかく、どこか懐かしいそのにおいは、銀月のところでも皇帝のところでも嗅いだことのない不思議な香りだった。

 しかしすんすんと鼻を動かしていると、不意に目の前で黒い沓が止まった。鼻をすすったような音が気に障ったのか。白狼はぴたりと息を止めて身を固くした。

 本当にツイてない。こんなことなら散歩がてらなんて思わず、まっすぐに焼却場に行けばよかった。そんな後悔とともに次に吐かれる言葉を待っていると、黒い沓は静かに近づいてきた。しかしだ。


「おや、白狼君じゃないか」


 叱責の代わりに降ってきた声には聞き覚えがある。顔を上げても良いものか、一瞬の逡巡の後にそうっと目線だけを沓から上に持ち上げると、そこにはやけにつるりとした宦官の顔があった。人の好さそうな笑みを浮かべ、ほらほらと白狼の肩へ馴れ馴れしく手を添えてくる。この距離感の無さにああと思い当たった。


「……徳妃様の」

「久しぶりだねぇ、白狼君」


 ひょろりと細長く、眉まで薄い姿が逆に印象深い。乾清宮で芋団子をくれ、中秋節の宴の際に貴妃の詰問に待ったをかけてくれたあの宦官だったのだ。



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