誘惑の蝶々④
「女に、継承権だと……? 歴史書に書かれてはいるが、現行の慣例では……」
「まあそうなんだけどさ。今んとこうちの皇帝陛下の子ってのは公には姫君しかいない。皇后も貴妃も陛下がよその女の所に通うのを妨害したり、孕んだ女を始末したりしてるからな。かといって皇后も貴妃も、必ず皇子を産むって保証もねえだろ」
「なるほど。徳妃が懐妊したという噂は本当なのだな」
さすが銀月。白狼の簡単な説明で状況が飲み込めたらしい。徳妃の件は皇帝本人から真実だと聞いている白狼は小さく頷いた。
懐妊中の徳妃が皇子を産むかどうかは分からないが、男であれば彼女の実家が総出で皇太子に後押しするだろう。そうなれば貴妃の地位も、実家の権勢もひっくり返される。さすがに皇帝の外戚筋にあたる皇后を廃するまでには及ばないかもしれないが、内外で徳妃とその実家の権力が増すだろうことは想像に難くない。
徳妃の子が生まれるまでが勝負と踏んだのだ。
「……ということは先日の件、真に狙われていたのはやはり私か」
「そういうことだ。女が継承することになれば、お前が一番年長だからな」
「では潤円のお前への執着も貴妃は知っていたに違いない。それを利用された形というわけか。首尾よく嵌めて下手人として捕らえ、難癖つけて私を廃したあと適当な頃合いでお前を潤円に預けるような手筈だったんだろう」
「やめろ、気色悪いから」
先手を打ったはずが鮮やかに返された貴妃の苦々し気な顔が浮かんだ。まさか一介の宦官に、徳妃の宮の者が手を貸すとは考えなかったに違いない。当の白狼すら思惑が全く読めなかったのだから、貴妃たちは計画外の事にさぞ驚いたことだろう。
「下衆なことを考えるものだ……そしてついでに皇后の権威失墜も目論んでいたと」
「皇后のとこの姫って貴妃のとこと何歳違うんだ?」
「一歳違いのはずだ。年齢で言えば貴妃の姫が上だが、皇后腹の姫のほうが継承順は有利になる可能性が高いな」
銀月は手酌で自分の杯に酒を注ぎ、それをくいっと煽った。細い喉にわずかに浮かぶ喉仏が小さく上下する。それを見た白狼は、あれ、と記憶を掘り返した。
――こいつ、離宮で初めて会ったときより体つきがしっかりしてきたような。
ちょっと前には喉も滑らかで肩も細かったのに、いつの間にか骨や筋が目立って来てはいないか。杯を持つ細い指も、心なしか関節が大きくなってきているようにも見える。
顔つきはすっぴんでもさすがの美しさといえど、これ以上女だと言い張るのは難しくなっていくのかもしれない。これからは今以上に替え玉の必要性が増すだろう。
そう白狼でさえ思うほど、銀月の身体は少年から青年へすこしずつ変化していた。十五も過ぎていれば遅いともいえるが、成長期がめぐってきているらしい。
羨ましいなと思う気持ちは確かにあった。目に見えるような成長期がなかった白狼は、十九を過ぎてもいまだにそこらの子どもと大差ないような体格にしかならなかった。成長していく銀月に対し、いいな、悔しいなと素直に思う。
しかし本来の性別で考えれば、そこらの女程度に普通の成長をしていれば女としての生き方を強いられていたはずである。それはごめんだった。であればこの小さい体は天から与えられた白狼の強みと考えるしかない。
銀月を守ってほしいと皇帝は言った。籠の鳥であるこの才気煥発な四つ年下の少年がいつまでこのままなのか白狼には分からない。でも出来ることならば銀月が己の生き方を自分で決められるようになればいいと思う。柄にもなくそんなことを考えて、白狼はなんだか背中がむず痒くなってくる気持ちがしてそれをごまかすように大きく胸を逸らした。
「ま、結果的に俺の機転で今回の陰謀? 計画? は阻止されたわけだが。そこんとこどうよ」
大きく鼻の穴を膨らました白狼に、銀月は苦笑いを浮かべて白石をツケた。
「そうとも言える、かもしれんな」
「ほら、礼を言ってもいいんだぞ?」
「臣下が主のために仕事をするのは当たり前だ」
「クソガキ。なにかしてもらったらありがとうってのは当たり前の礼儀だろうがよ」
「よしよし、ようやった、褒めて遣わすぞー」
ふざけて頭を撫でようとしてくる銀月の手を振り払った。欲しいのはそういう言葉じゃない、と憤慨しながら黒石を銀月の陣地深くに押し入れる。しかし銀月は難なくその黒石を躱すと、急に真面目くさった顔に戻り上目遣いに白狼を見つめた。
「あんだよ」
「……しかしだな、徳妃の懐妊が確かとか貴妃の実家の件とか、どうしてお前がそんな情報を? 中秋節の前から知っていたのか?」
「え? 皇帝が言ってたぜ? 主席宦官のおっさんをわざとらしくお遣いにやったりして人払いってのをしてよ」
「……父上が?」
白狼としてはありのまま正直に話したつもりが、その一言で銀月の顔色が変わった。
「父上と二人になったのか? あんなに嫌がっていたのにどういうことだ? この話に対価は? まさかお前」
碁盤に手を叩きつけ尋常ではない様子で食って掛かる銀月に、白狼は思わず後ずさる。こんなに余裕のないのは珍しい。いや、もしかしたら初めてかもしれない。しかし白狼はははん、と思い当たることがあった。身を乗り出す銀月の目の前に、ぴしりと人差し指を突き付ける。
言っとくがな、と睨みつけ一呼吸。ぴりっと二人の間に緊張が走った。
「俺は本当に朝から晩まで、いや晩が過ぎても、ひと月の間ずーっと中秋節の準備しかしてねえぞ」
「……え? あ、ああ」
「閨に呼ばれたとか勝手な想像してたんじゃねえだろうな。絶対そういうことはしねえって言っただろうが」
「あ、いや……それは」
「てめえ、もう一回ぶち込んでやろうか?」
目に見えて狼狽える銀月に、白狼は拳をチラつかせた。もちろん本気ではないが、あらぬ想像をされたと思うと気分が悪い。銀月はばつが悪そうに視線を泳がせた。およそひと月前のやり取りを思い出したのだろう。もごもごと口を動かしながら、それでもなお何か納得しきれない様子だ。
「なんだよ、信じてねえのか?」
「いや、そうではなく……」
所在なさげに呟いた銀月は、やがて顔を上げて白狼の目をじっと見た。探るような目つきを、何ら後ろ暗いところのない白狼は堂々と睨み返す。
どのくらいの間があったことだろう。ふうっと銀月の口からため息が漏れた。細いそれをきっかけに、二人の間の緊張が緩む。
すまぬ、と銀月が口を開いたのはそのすぐあとだった。
「私はな、白狼。幼い頃から見ていたあの父上の所業を、心の奥でどうも信じ切ることができない……」
そりゃそうだ、という言葉を白狼は飲み込んだ。アレが自分の親父であれば、白狼なら情けなさ過ぎて涙が出そうだ。恐ろしい情婦の所へ行けと家を叩き出して縁を切っているに違いない。銀月にとっては自身への仕打ちも含めて、とても信頼に足る父ではないだろう。
「しかしお前は信じようと思う。……信じてよいのだな?」
まるで懇願のような銀月の問いに、白狼の胸はなぜかぎゅうっと締め付けられた。痛い、と認識できたそれはかすかな甘さと苦さを含んでいる。痛い、けど甘い。それが切なさなのだということは、既に大人といっていい白狼は知っている。
知ってはいるがそれには気が付いてはいけない。気が付いたっていいことは一つもないのだから。これは一種の憐憫なのだと意識を無理やり捻じ曲げる。
白狼はにやりと口角を持ち上げた。
「あったりめえだろうよ」
「そうか……」
「じゃなきゃ、そもそもここに帰ってくるわけねえだろ?」
力の入った肩がゆっくりと下がり、銀月はようやくほっとしたような表情を浮かべた。その泣きそうに微笑む顔に、白狼の胸はますます痛みを増していくのだった。




