誘惑の蝶々②
「さて、なにやら随分と有名人になったようだが」
「それは俺のせいじゃねえ」
ひと月とちょっとぶりに顔を合わせた承乾宮の住人達は、一様に呆れたような、憐れむような、なにやら微妙な表情で白狼を迎え入れた。
中秋節のあれ以来、口の悪い小さな宦官は皇宮の内外でちょっとした話題の人物となった。帝都における大事な行事の最中に、正面切って皇后や貴妃とやりあって生還するなど、確かにある意味前代未聞である。娯楽に乏しい皇宮では噂に様々な尾ひれが付き、一部界隈では白狼が怪しげな術を使っただの、並みいる兵をばったばったとなぎ倒しただのなんだのと大いに盛り上がっているらしい。おかげですっかり表を歩きにくくなった。
早く後宮に戻してくれと懇願して二日。やっとのことで帰って来れたと思ったらこれだ。
皇帝の近くで仕事をしていてもほかの宦官たちに腫れ物に触るような扱いをされ、承乾宮に戻る辞令が発令されてすぐに逃げるように後宮へ戻ってきたというのに、白狼はあんまりな扱いに唇を尖らせてふてくされた。
「随分派手な大立ち回りを演じたそうではないか。皇后に幻惑の術を使ったとか」
「いえいえ姫様、それどころか徳妃様付きの側近の方を抱き込んでいたそうですわ」
「そういえば皇帝陛下の主席宦官様の弱みを握って脅したという話も聞きました」
「なんと、それは大層な……」
「待て。確かにちょっと暴れたけど大騒ぎにしたのは貴妃付きの宦官のほうだぞ。あとは護衛の兵隊! 術とかなんだとか、こんなとこまで噂が回ってんのかよ」
勘弁してくれよ、と白狼が頭を掻く。
「しかし潤円殿といえば貴妃様付きの宦官ですが、武官だった時代も相当に名を上げていた豪傑。そんな方を相手に立ち回りを演じるなど、狂気の沙汰でしたわね」
よく命が無事だったこと、と翠明と周が顔を見合わせて頷きあった。
「そんなこと言ったって無我夢中ってやつでさ。でもあいつ、蹴り入れたら鼻血出してぶっ倒れたぜ?」
「は、鼻血?」
「おう。でもあの蹴りで骨曲がっちまったかもな。まあしょうがねえよ。あいつ、俺の体をまさぐりやがったしさ、脇腹に膝くれてやって鼻折ってもまだ足りねえくらい」
身振り手振りで説明する白狼に、銀月をはじめとした承乾宮の皆はくすくすと肩を震わせて笑ったのだった。
★ ★ ★ ★ ★
その夜、およそひと月半ぶりに白狼は銀月と碁盤を挟んで向かい合った。帰還直後に笑いあっていた和やかな雰囲気とは打って変わり、二人きりになったとたんにどちらともなく口を閉ざした。
はっきりした理由があったわけではない。白狼としては何事もなかったように日常に帰るつもりだったが、神妙な面持ちの銀月を見れば辞令が出た日のいきさつを思い出してしまう。何か一言くらいあってもいいだろうにと思うと、自分から声をかけるのは業腹だった。
部屋にこもり一刻。その間二人は無言のままで、碁石を打ち付ける音だけが部屋に響いていた。
ぱちり、と白狼が黒石を置く。白の陣地に切り込む一手だった。ふむ、と銀月が腕を組む。
それから数呼吸。
「負けだ」
「……え?」
思いもよらぬ投了に白狼は素っ頓狂な声を上げた。自分ではそこそこ良い手とは思ったが、一気に形勢が決まるほどのものではない。いつもの銀月であればあっという間に切り返してくるはずと思っていたからだ。
「なんだよ、手ぇ抜いてんのかよ」
対面の美少女のような面を睨めば、相手はゆっくりと首を振る。そして白狼の目を見つめると、そのまま静かに頭を下げたのだ。
「ば、馬鹿、何やってんだよ!」
驚いたのは白狼だ。雇い主が、しかもこの国の皇帝の子という身分の者が、まさか部下に頭を下げるとは思わない。何かの冗談か、まさか翠明や小葉が自分をかつごうとしているのではないかと思わず背後を確認する。
しかしもちろんそこには誰もいるはずがなく、正面を向けば狼狽えまくりの白狼にいまだ頭を下げ続ける銀月一人がいるだけだった。
「お、おい、ちょっとやめろよ。何してんだよ! 翠明さんにみつかったらどうすんだ」
「良い。今夜は誰も部屋に近寄るなと申しつけてある」
「はあ?」
雇い主は気でも触れたか。意図が掴めないまま、白狼はとりあえず手近の杯に注がれた酒を一気に飲み干した。寝酒用のごく軽いものだが喉を湿らし、気を落ち着けるには十分だ。どかっと音を立てて椅子に腰を下ろした白狼は、碁盤を退けて銀月と膝をつき合わせた。
「どういうこった」
「どういうも、こういうも、見ての通りだ」
「意味が分からねえ。さっきの一手でてめえが負け認めるなんざあり得ねえだろ」
「囲碁の件じゃない」
「だったらなんだよ」
はっきり言え、と白狼の声が低くなる。二人になった途端に黙りこくったかと思えばこれだ。核心に触れないままでいる銀月に、まだるっこしいやり取りが性に合わない白狼が苛立つのは当然だったろう。言いたいことがあればはっきり言えばいい、そうすればこっちだってと拳を握りなおす。
そう思っていた時に、銀月が顔を上げた。
「この前は、私が悪かっ」
みなまで言わせることはなった。言い終わる前に、白狼は自身の拳を銀月の左頬に食らわせていたのだ。
がしゃんと碁盤が倒れ、銀月が床に手をついた。日ごろの宮内では起こらないほどの激しい物音だろうに、翠明以下侍女たちは誰も主の寝室に駆けつけてこない。白狼は倒れた銀月の前に仁王立ちになった。
「……これでチャラだ」
「何?」
「貸し借りなしにしてやるっつってんだよ」
ほらよ、と白狼は銀月に手を伸ばす。ちょっと戸惑ったように銀月は視線を彷徨わせた。白狼が再度、ほらっと手を突き出すと、躊躇いながら銀月はその手を握ったのだった。




