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月華麗君とりかへばや物語~偽りの宦官が記す後宮事件帳~  作者: 葵一樹
宦官の立ち位置

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名月の狂宴①

 中秋節ちゅうしゅうせつまでの間だけ、と自分に言い聞かせある程度の我慢はする覚悟でやってきた白狼だったが、意外にも、というべきか皇帝の側で行う仕事はいたってまともな雑事だった。

 早朝は主席の宦官に叩き起こされ皇帝の身支度を手伝い、日中は事務仕事を行う上司や皇帝の間をうろうろと使い走りをし、夕方になればあてがわれた部屋へ退がって休み、また朝になれば皇帝の身支度を手伝う。

 これは確かに人手が足りない。初日以外は一人で皇帝の前に行くこともなく、同僚(?)の宦官たちと忙しく走り回りゆっくり飯を食う時間は夜だけという生活だった。

 しかしそれだけでは味気ない。後宮では外の世界に全く触れる機会がなく宮の者とばかり顔を合わせていたが、ここでは来客や上官、高位の役人だけでなく様々な人間を見ることができた。あいつはケチそうだ、あの腹っぷりは金を持ってるに違いない、と忙しい仕事の合間を縫って予想を付けるのが白狼のここ最近の楽しみになっていた。

 そしてここにいる役人達は、揃いも揃って後宮の女官達よりはるかに金を持っている匂いがするのがまた良い。装飾品も実用的で金になりそうなものばかりで、それを眺めていくらになるか思いを馳せるのも楽しかった。

 指は疼いたが実際に腕試しをしなかったのは、銀月に念押しされた件が効いていたからだ。


 そんな生活を繰り返し、乾清宮の中の構造にぼちぼち慣れた頃のことだ。


「君は、承乾宮の姫様のところの白狼君じゃなかったか」

「……ん?」


 礼部にお使いに行った帰りに声をかけられた。全く思いもかけないことだったので、一瞬どこから呼ばれたのかとあたりをきょろきょろと見渡してみると、今すれ違ったばかりなのか数歩後ろに一人の宦官が立っていた。眉も薄く、つるんとした肌が日の光をまろやかに反射している。ひょろりとした手足でやけに背が高いやつだ。

 誰だっけ、記憶を探るが急には思い出せずあいまいにお辞儀をする。

 白狼が承乾宮にいたことを知っているということは後宮の奴だろうか。もっと宦官の制度に詳しければ、着ているもので判断がつくかもしれなかったがいかんせん偽物宦官である白狼にはその知識がない。宦官は首をかしげる白狼に対しにこにこと人の好さそうな笑みを浮かべて歩み寄った。


「近頃とんと顔を見ないと思っていたら、こちらに異動だったのだね。承乾宮と違って表の仕事はさぞ忙しいだろう」

「は、はあ……」

「少し瘦せたのではないのかな。食事はちゃんと摂れているかい?」

「まあ、それは、普通に」

「ちょうどいい、芋餡の入った餅をもらったんだよ。あとで食べるといい」

「いや、結構で……」

「そう言わずほら、持って行きなさい」


 餅の包みはあれよという間に押し付けられた。話しかけられている間中、白狼の頭の中は今まで後宮で顔を合わせたことがある宦官を思い返していたが、どうにもこいつだという記憶を拾えない。庭師たちの中にはいない顔だし、厨房や医局の奴にも当てはまるやつがいない。誰だっけ、と白狼はまた首を捻った。


「元気そうでよかったよ。もうずっとこっちに配属なのかい?」

「いえ、中秋節までの期限で……」


 多分、という言葉は飲み込んだ。自分でそう言っておかないと、本当にずっとここにいなくてはいけない気になってきてしまう。すると相手の宦官は甲高い声でほほほと笑った。悪ふざけをしているときに女声で笑う銀月の声に似ている。ふと、あの少年がどうしているかと白狼の意識が後宮に飛んだ。

 宮を出てくるときはまだお互いに頭に血が上った状態だったが、ここへきて幾日か経ち随分とそれも落ち着いた。自分がいなくなって、銀月の囲碁と暇つぶしの相手は誰が務めているのだろう。負け続けてはいたが碁盤に石を打ち付ける乾いた音がほんの少し懐かしい。


「なるほどなるほど。どこも人手が足りぬからなぁ。体に気を付けてほどほどにな」


 ぽんっと肩に手を置かれ白狼は我に返った。随分と馴れ馴れしい距離感である。反射的に腕を上げてそれを振り払うと、白狼は背の高い宦官を睨み上げた。

 しかし相手はそんな白狼の目線に気が付かなかったのか、ではなと片手を挙げると踵を返して兵部のある建物の中へと入っていってしまった。

 なんだてめえ、とついて行って詰問することはできない。白狼が持っている今日のお遣いに兵部局が目的のものはない。官位もないような一宦官は上官のお供か喫緊の用事でもなければ兵部や礼部など政治的に重要な六部がある建物へ入ることが禁じられているからだ。

 相手がだれなのか結局はっきりさせられないままになった白狼は、眉根を寄せながらひょろひょろした後姿を見送ると皇帝の居室へと戻ったのだった。


 そしてまた数日後。


 いよいよ中秋節が近づき、帝都はもとより皇宮全体があわただしさを増していた。

 中秋節とは、秋の夜長に美しい満月を愛で豊穣を祝う節句である。日中は主に皇宮で皇帝と役人たちが太陽の神へ祈りをささげる式典を行い、夕方から夜にかけて後宮で月を愛でる宴を行う一大行事だ。

 祈りをささげる聖堂に納める経文は毎年皇帝が直筆でしたためることとなっており、今夜の皇帝はまさにその仕上げに取り掛からんとしていた。側に控える白狼は墨係だ。硯に足す墨を擦る仕事を言いつけられ、手を真っ黒にしながらもひたすらに墨を擦り続けていた。


昌健しょうけんよ、書き損じが多く出てしまった。すまぬが礼部へ行って紙を補充してもらってきてくれぬか。儂も白狼も、ほれ、墨で手が汚れておってな」


 皇帝は筆を置いて、机のそばで経文を並べていた主席宦官に声をかけた。ほれ、といって見せる指先には確かにあちこち墨汚れがついている。もちろん側で墨を擦り続けている白狼の手はどこもかしこも黒くなっていて、白い紙などを取りに行くには身支度だけで余分に時間がかかってしまうだろう。


「御意」

「この後の書き損じも考え、多めに持ってくるのだ。頼んだぞ」


 主席宦官の昌健は軽く頭を下げると、すぐさま退室していった。それを見送った皇帝はううんと大きく伸びをして、肩をぐるぐると回し始めた。

 長時間の書き物ですっかり上半身が固まってしまったのだろう。ときおりぽきぽきと骨が鳴る音とそれに合わせた小さなうめき声が聞こえた。

 おっさんというよりもはや爺くせえなと白狼が笑いそうになった時、ふわりと視界が暗くなった。甘ったるい香に顔全体が覆われる。


「さて白狼や」


 ――油断した。


 一心不乱に墨を擦っていた白狼はぎくりと身を固くした。主席宦官が退室した今、この部屋には皇帝と白狼の二人きりであることをすっかり忘れていたのだ。


 皇帝の衣の袖が白狼の小柄な体をすっぽり覆い隠した。徐々に近づいてくる男の顔に埋まる両の眼はまるで鷹のように獰猛な光を宿し、日頃の気弱そうな面影はなりを潜めている。

 まずい。耳のすぐそばで鐘楼の鐘がけたたましく鳴っているような錯覚がした。


「近う寄れ、白狼」


 低い声で名を呼ばれた白狼は、ごくりと生唾を飲み込んだのだった。


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