帝姫の父君③
燭台を灯した銀月の寝室で、ぱちり、ぱちりと碁石の音が響く。
白石は銀月。黒石は白狼。交互に置かれる石は数を増やしながら互いの陣地を徐々に形成していく。普段であれば軽口の応酬をしながら行うこの作業だが、今夜はお互いに無言のままだった。
無表情で碁盤を見つめる白狼は、何も考えていないように次々と黒石を置いていた。あちらに置いたかと思えば手前に打ち、そうかと思えば白石に囲まれかけている所にも打ち込んでいく。手あたり次第、心ここにあらずというよりむしろただ投げやりな打ち方だ。
ぱちりと銀月が白石を置いた。黒石の進路を阻む一手である。いつもであればちょっと待ったという白狼の声が上がりそうな場面であったが、白狼はそれを無視する形で別の場所に黒石を置いた。
「……怒ってる、よな」
すまん、と銀月がついに音を上げた。寝間着姿の姫君は碁盤越しに白狼へと頭を下げる。長く豊かな髪が細い肩からはらりと滑り落ちた。
「別に、お前のせいじゃねえし」
対する白狼は頬杖をつきながら、碁笥から黒石を掴み取って盤上に放った。じゃらっと音を立てて白黒の石が混ざり、お互いの陣地の境目がうやむやになる。銀月はそれを窘めることもなく、手ずから杯に酒を注いで白狼に渡した。
今夜は飲みたい気分だろうといって、銀月が翠明に無理を言って用意してもらっていたのを白狼も知っている。無下にできずそれを受け取ると、白狼は仏頂面のまま中身を一気に飲み干した。
「私のせいではない、とも言えん。あの場にお前を留めてしまったのは私だ」
「まあ、俺も油断してたかもしれねぇ……」
宦官服を着て跪いていただけだったというのに、まさか一見して女とバレるなどとは白狼も銀月も想像もしていなかった。その衝撃とねちっこく絡まれた不快感を思い出し、白狼は思い切り顔を歪めた。
「わが父ながら、あそこまで女に対して執着が強いとは知らなかった……」
「自分の親の性癖なんぞ知りたいもんじゃねえや。今まで黒花さんとか小葉さんはなんともなかったのかよ?」
「まず翠明に叱られるだろうし、外聞を気にする御方だからな。今回は人払いしたのが裏目に出たのかもしれない。今後、父の訪問時にはお前は出てこなくてよいことにしよう」
「そうしてくれるとありがてえ……」
白狼が手に持った杯を突き出すと、銀月は何も言わずに酒を注ぎ足した。今夜は詫びのつもりなのだろう。白狼はそれに甘えてまたぐびりと杯を空けた。
「そうそう。周が言っていたが、宮を出た後にもなにやらひと悶着あったらしい」
「ひと悶着?」
「門の外に出た途端にあの簪を周に渡そうとしたそうだ。お前に届けよとな」
「ああ?」
思いもよらぬことに白狼の語気が荒くなる。
「周も驚いただろうな。しかもかなりしつこく粘られたそうでな……」
「まさか持って帰ってきてねえよな? おっさん、夕餉の時にも何も言ってなかったぞ?」
怖気がぶり返し、白狼は両手で自分の肩を抱きこんだ。冗談ではない。どんな高価なものだろうとあんな目をした男から物をもらったら、なにをされるか分かったものではない。
あからさまに拒否反応を示した白狼に、銀月は大丈夫と頷いた。
「ああ、ここからが悶着だ。偶然というか、皇帝の予定を掴んで狙っていたのかは知らんが、宮の前を貴妃とその侍女たちが通りかかったらしい。永和宮に行くつもりだった父上は大慌てしたそうでな、その簪をその場で貴妃に下賜したんだそうだ」
「貴妃に?」
「あれだけ上等な装飾品だ。貴妃も大層喜んでいたそうで、連れだって貴妃の長春宮にいってしまったとのことだ。いや、むしろ連行されたというのが正しいの、か……?」
白狼の脳裏に、皇帝がおどおどしながら狼狽えて、その場をしのぐための場当たり的な嘘をつきながら取ってつけたように手に持っていた簪を女に下賜する様子がありありと浮かぶ。皇后や貴妃をそれほどまでに怖がるくせに、他の妃嬪や女官にちょっかいをかける根性は見上げたものと思うか、それともくだらないと思うか。いずれにせよ懲りない御仁だということだけは言えるだろう。
「なっさけねえな、おい」
銀月には言わないでおこうと思った感想が、あっさり口から洩れた。言われたほうの銀月も、肩を落として首を振る。そんなことは白狼に言われずとも百も承知、と言わんばかりだ。
「情けなく無ければ私がこうやって偽りの姿で生きることも無かったろうな」
「確かに」
初めから皇帝自身に力があり、外戚とやらの口出しを排除できていたのなら今目の前にいる銀月は普通に第一皇子として立太子していたかもしれない。とすれば、白狼とも出会わずこのように囲碁を打つなどあり得なかっただろう。
縁とは不思議なものだと、そのうち思えるようになるのだろうかと白狼は黒石をつまみ上げた。
「しかし永和宮もとんだすっぽかしにあったものよ」
ふと思い出したように銀月が呟いた。結局貴妃につかまった皇帝はそのまま貴妃の住まいに行ってしまったというし、待ちぼうけをくらった永和宮ではさぞがっかりしたことだろう。
「そういや、永和宮って誰が住んでんだ?」
何気なく白狼が尋ねると、銀月の表情が何かを思い出したようにやや曇った。薄く形の良い唇に、人差し指を当てて一瞬の間をおく。
「……徳妃だ……」
「あ、それって……」
「わざわざ日中に訪問するなど、あの父上にしては細やかな気遣いに見える。貴妃が来たのも、偶然ではなく父上の行動を狙ってのことか……。例の懐妊したという話、どうやら真実味を帯びてきたな」
皇后と貴妃の動きに注意しておいたほうがよさそうだ。こちらまで火の粉が飛ばないとも限らないから――。そういった銀月の声は冷たく、燕という徳妃の宮の下女を思い出した白狼はまた胸がざわついていくのを感じたのだった。




