承乾宮の失せもの④
いたた、と女が呻いた。しまったと息を飲んだ白狼だったが、よくよく見れば服装は地味な色味の質素なものだ。尚食局(後宮の食材管理担当部署)や尚服局(後宮の衣類管理担当部署)で働く女官の服に似ているものを着ている。どこかの下女の一人かもしれない。
――つまりそこまで身分は高くなく、ぶつかって転んだ程度で白狼が罰せられる可能性が低い相手である。
ほっと安堵のため息を吐き、白狼は女に手を伸ばした。
「申し訳ありません。お怪我はないですか?」
そう問えば、女はいいえと言いながら顔を上げた。女、というにはまだ十分に幼い少女だった。見た目で言えば白狼よりもあどけない顔つきである。あれ、と拍子抜けした白狼は、少女の手を取り助け起こした。
「ほら、大丈夫?」
「ありがとうございます……こちらこそ申し訳ございません。徳妃様のお遣いで急いでおりましたので」
「徳妃様の?」
一瞬まずい、と思ったものの少女は別に白狼に対して怒るでもなく、逆に深々と頭を下げた。発する声もまだ幼さが残るものだ。まだ十三、四の年齢か。少女の裳についた汚れを払ってやった白狼は、自分がひっくり返した塵箱を拾い上げた。
拾い上げつつ背後を伺うが、さっきまでひしひしと迫っていた違和感は消えている。気のせいだったのか、撒いたのかは分からないがまずは良しとしたところか。
「徳妃様の宮の下女さん?」
「はい。泰燕と申します。燕とお呼びくださいませ」
周囲に気を配りながら世間話を装うと、びっくりするほど素直に名乗られ白狼は言葉に詰まる。そっかーと愛想笑いを浮かべれば、燕は白狼の名前を尋ねるでもなく申し訳なさそうにあのうと口を開いた。
「すみません、私、後宮で働き始めて日が浅くて……尚食局っていうところの建物がどこかご存知ないでしょうか」
迷ってしまって、としょんぼりする燕は今にも泣きそうに眉を下げる。白狼はああ、と空を仰いだ。
後宮は皇帝の住まいの一部ではあるが、その敷地は広大で妃嬪たちの宮が立ち並ぶ以外に様々な部署の建物が連なっている。しかも宮はそれぞれ塀で囲われているため、各宮の門を出て通りを歩けば風景はどこも代わり映えなく、自分がどこを歩いているかも分からなくなりそうな迷宮のようでもあった。
白狼も連れてこられた当初は塵捨て一つ実行するのに迷いに迷って数刻かかってしまい、小葉に嫌味を言われた記憶がまだ新しい。
尚食局への道を思い浮かべると、ここからは少し遠い。白狼は塵箱を指さし、燕に尋ねた。
「これ捨てに行ってからでいいなら、尚食局まで送るけど」
「いいんですか?」
「そこの壁の向こう側に焼却炉があるから、そっち回って少し遠回りになるけどいい? 徳妃様のお遣いなら急ぐかな?」
「いいです、大丈夫です。ありがとうございます!」
ほっとしたように微笑んだ燕はぺこりと頭を下げた。
「お仕事の途中に申し訳ありません。お忙しいでしょうに……ええっと」
「ああ、俺は白狼」
「白狼様ですね。ありがとうございます」
素直すぎる燕はわざと口にしなかった白狼の所属など、まったく気にしていないようだった。微笑みを浮かべる少女はスレたところもなく、ほんわかとした空気をまとったまま白狼に並んで歩きだした。
少女の様子に毒気を抜かれた白狼だったが、これはいい機会かもしれないと腹の中でほくそ笑んだ。銀月からは様々な噂話を仕入れてこいと普段から言われている。燕は徳妃の下女といった。徳妃といえば日頃付き合いのない四夫人の一画だ。なにか面白い話でも仕入れて夜になったら囲碁の合間に聞かせてやれば、銀月の退屈しのぎになるかもしれない。
塵を焼却炉に投げ入れ、じゃあ行こうかといえば燕もコクリと頷いた。
「それにしても、後宮に来たばかりなのに徳妃様の宮で働けるなんて、あんたすごいな。なにか伝手でもあったの?」
何気ない風を装いそう問うと、燕はとんでもないと首を振る。
「違うんです。なにか急に空きが出て人手が足りなかったということなんですよ。そうじゃなきゃ、私なんて」
「いやあ、でもなかなか珍しいよ。四夫人様の宮に行くなんて」
自分も相当珍しい経緯だが、ということは考えない。白狼は自分の表情の中で一番人当たりの好さそうな笑みを浮かべて燕の話を促した。見るからに幼い、子どものような体格の白狼がそんな表情をすれば大抵のものは油断する。
思った通り燕も白狼のことを同輩程度と見たのだろう。それがね、と口調がちょっと砕けた。
「まだ後宮に来たてで配属もきまっていなかったので、ならばと尚宮様(後宮を統括する高位女官)がおっしゃってつい昨日決まったの」
「そりゃ随分と急だったんだなぁ」
「うん。でも徳妃様の宮の皆様、みんなお優しくして下さってありがたいですよ。待遇もいいし! 食事も徳妃様を交えてみんなであたたかいものをいただけますし、皆さん私にお食事分けてくださるんです。あと、お給金もびっくりするくらい」
にこにことまるで実家の話でもするような燕に、白狼は薄く愛想笑いを浮かべる。
妃嬪と女官がみんなで食事するなど、銀月の宮でもなかなかにない光景である。しかも分け与えられた食べ物を燕が食べるとなると、仲睦まじい食卓の風景がちょっときな臭い光景になりはしないか。
――こりゃ、毒見と知らずに雇われたな。
白狼の目がわずかに細くなった。しかし当の燕は相当に世間知らずなのかその様子に気が付かないまま、うっとりとした表情を浮かべてさらに語り続ける。
「私、十三なんですけど、歳を伝えたら徳妃様や侍女頭の旻様が不憫に思ってくださったみたいで……母と思いなさいなんて……恐れ多いやら、ありがたいやら」
この年頃の、しかも後宮にわざわざ働きに来ている娘に対して「母と思え」は殺し文句だろう。まだ家族が恋しい少女をころりと手のひらで転がす徳妃を想像し、白狼の目がさらに細くなった。
これはますますきな臭い。徳妃の宮で空きがでたというのも、本当かどうか怪しい気さえした。もし本当に空きがあったのだとすれば、新たに毒見兼下女を雇わなくてはならない事態になったということか。
「……へえ、それじゃあ尚食局へは、なんのお遣いで?」
「お食事についてご相談があるそうなので、尚食の長官様においでいただきたいというお言伝をお知らせに行くの。海藻類があるようなら避けたいって、お嫌いなのかしら……」
話の先を促した白狼は、燕の言葉にぴんときた。
何も知らない下女を雇った徳妃は、もしかしたら懐妊の兆候があるのかもしれない。徳妃の食の好みは知らないが、これまで特に申し伝えをしていないのに今更海藻類を避けたいと言い出すということは、その可能性を示唆しているのではないか。
まだ可能性は低いかもしれない、しかしそうだとすれば――。
燕の身の上に降りかかる近い未来の出来事を想像し、白狼の言葉から感情が抜け落ちた。
「なるほど。嫌い、かもしれないなぁ」
「高貴な方も、好き嫌いがあったりするんですね」
「まあ、人間だしなー」
ほとんど抑揚のない声で返事をした白狼に、燕がやや不思議そうな表情を浮かべる。しかし白狼はそれに応えず、あそこが尚食局だよと向かいの建物を指さすだけに留め彼女に背を向けた。
その夜、白狼は囲碁の合間の世間話として燕との話を銀月に知らせた。銀月は白石を置きながら、「近々後宮が荒れるかもしれんな」とだけ呟いたのだった。




