企みの荊棘④
「白狼!」
銀月が立ち上がった。バレるぞ馬鹿野郎、とその華のような顔に向かって悪態をつきたいが今はそれどころではない。
「ご無礼お許しください!」
頭上で女の叫び声がした。逃げろばばぁと怒鳴ったつもりが声にならない。伸ばした白狼の手が空を切った。
しかし女の手に光る刃が翠明に届くことはなかった。銀月の横に控えていたはずの黒花が、鮮やかな手さばきで女を組み伏せたのだ。
「くっ!」
「おとなしくなさい。悪いようにはいたしません」
「離してっ! ぐっ……」
黒花の膝の下で無様に床へと這いつくばっている女の口からうめき声が漏れる。悲壮感が漂うその表情は、己の命を危うくしたことへの悔恨ではなく何か覚悟めいていた。
「姫様の御前である! 周、この女官を捕らえなさい」
翠明の鋭い声が飛ぶ。それまで静観していた周は腰の刀を抜いて女に歩み寄った。
「もうしわけございません、もうしわけございません……旦那様……!」
周の剣を見た女は、黒花の下で何事か呟きながら手のひらを自らの喉に当てた。脇腹の熱さと痛みに脂汗を浮かべながら、白狼はその手のひらから一滴の液体が漏れていることに気がついた。
「……だ、だめだ」
「黒花!」
白狼が声を上げたのと翠明の指示が飛んだのはどちらが先か。すぐさま反応した黒花が女の手を抑えつけた。しかし既に皮膚には刃が食い込んでおり、だらりと紅い血が滴り床を濡らし始めている。黒花に抑えつけられまま女は目を閉じ、ぐにゃりとその場に倒れこんだ。
「金春! 周、黒花、急いで医務官を呼びなさい!! 姫様! 奥へ! 姫様?!」
突然のことに翠明の怒号にも似た叫び声が部屋に響いた。騒ぎが外に漏れ人が集まる前に銀月を奥の部屋に下げさせようという意識が働くのは、長年勤めた侍女としての胆力のたまものだろう。
しかし当の銀月は誰か集まってくるかもしれないというのに、卓から立ち上がって白狼のもとへと駆け寄っていた。
「白狼!」
声変わり後の、ほんの少し低くなったかすれ声で怒鳴られ、白狼はよろよろと手を挙げた。駆け寄ってきた顔を見れば、白粉を叩いた顔にうっすらと描かれた眉が吊り上がっている。もちろんその下にある目も眦がこれまでにない程に上がっていた。
美人はどんな顔をしても美人なもんだな、などと悠長なことを考えていたのは、痛みから気を逸らすための本能的なことだろうか。ぼうっとした視界の中で、銀月の顔だけがやけに鮮明だった。
「どこを斬られた。見せてみろ!」
「ばれ…‥るぞ、ばかやろ」
「そんなことよりお前の傷が!」
着物が汚れるのも構わず抱き起そうとする銀月の耳元に、白狼は唇を近づけた。大きな声を張るのがつらい。けれどこれだけは伝えなければ、と気力を振り絞る。
「……俺のことはいいから、膳部の厨房を押さえろ」
「厨房?」
「厨房の、江っていう太ったおっさんだ。ばばぁと周のおっさんハメようって、あの女に指示出してた。あの女、土壇場で口滑らせておっさんの名前ばらしてやんの」
もう白狼には分かっていた。自分は、敵をあぶりだすためにわざと捕まえさせられたのだ。
「……別のもっと偉いやつが後ろについてる。顔は見れなかったけど香のにおいは覚えてるから……直接つながってんのは江っておっさん……」
「分かった。もうしゃべるな」
そっと白狼の口に指を当てると、銀月は護衛の宦官を呼んだ。血を吹いて倒れている女官については有能な侍女頭が止血を試みている。主の命令を優先させるべきと判断した周は、すぐさま厨房へ走っていった。
「翠明、そっちは任せるぞ!」
周を見送るより先に白狼は銀月に寝室へと引きずり込まれた。体格差がほとんどないので、文字通り引きずられるようにして衝立の奥にある寝台に転がされる。
「……ば、か、お前、布団がよごれ……」
「あの場で脱がされるよりマシだろう。止血するから」
「それよりてめえ、よくも……」
「もういい、黙れ」
そう言うが早いか、銀月は白狼の帯をさっさと解いてしまった。
「騙してすまなかった。お前にこんなけがをさせるつもりはなかったのだが」
「……おう。貸しといてやる」
銀月による不意の告白に、それ以上抵抗しようという気が失せた。出血のせいか手足を動かすのももう面倒くさくなり、覚えとけよと言いながら白狼はされるがまま服を脱がされる。
袍をはぎ取られ白い中衣になると、斬られた箇所が赤く染まっていた。帯のあたりを斬りつけられたのであれば布の厚みで刃は皮膚に届かなかっただろうに、ちょうどその上、袖の下あたりをざっくり斬られているらしい。
「さらしのおかげか、傷自体は浅いようだな」
斬られている中衣をちらりとめくった銀月は、中を確認すると寝台に敷かれていた布をはぎ取り始める。高級な一枚布を簡易包帯にするつもりか、全く金持ちめと白狼はため息をついた。
「次は、さらし、もっと厚い麻布にしよ……」
「お前、そういう問題か?」
「んじゃ、鎧買っておいてくれよ、着物の中に仕込むから」
「全くお前というやつは……ん?」
銀月は中衣越しに敷布をきつく巻き付けていた手を止めた。
「それは、お前」
目を丸くして白狼を覗き込む銀月の表情は、それまでの冷静さは欠片もなく呆気にとられた間抜けなものだった。
くくっと白狼は肩を揺らす。身体の振動で傷が痛んだが、いつも整っている銀月の顔が自分の一言で崩れたのでまあいいかと思った。




