食事の行方③
姫君が居室に下がってから翠明にみっちりと礼儀作法について説教をくらった白狼は、這う這うの体で周の後を追いかけるように逃げ出した。
免礼と言われたというのに言葉遣いどころか宮廷での所作がどうとか、身振り手振りの意味合いなど所詮田舎の底辺階級である白狼には一朝一夕で身に付くものではない。
「帝都に帰るまでに徹底的にしごきます」という翠明に震えあがったのは誇張ではなかった。ぎらりと光る眼は、女官の皮を被った獣にも似た獰猛さが漂っていたのだ。
年の功なのか肝が据わっているのか、白狼のことなど本当に赤子扱いである。
「ったく、帝都帝都って……俺は生粋の庶民だっつーの」
ぶつぶつとぼやきながら白狼は周を探し、離宮の中を小走りで移動していた。小間使いという体裁なので何か問われたらご主人を探していると言えばいい。他の建物へは無闇に入るなよ、と言われたことだけ守るつもりできょろきょろしながら動き回る。
しかし走りながら時折服の裾に躓くのはいただけない。本当に邪魔すぎる。ちょこちょこと小さな白狼が小刻みに走る姿がほほえましく見えるのか、すれ違う女官たちがくすくす笑うのも腹立たしかった。
歩くたびに宦官服をたくし上げるのがいい加減面倒なので、もっと小さいものを支給してもらいたいというのは我儘なのだろうか。翠明に言わせれば動きが雑だからということだが、引きずりそうなほど布が余って居たら誰でも転びそうな気がする。
「女官の服なら多少詰めればいけなくはないんだろうが……」
ただ今更女装などはごめんだ、と白狼はまた裾を持ち上げた。本人の性別的には本来今の服装のほうが「男装」にあたるのだが、その点はすっかり考慮から外れている。男――小僧として生きてきてもう十年以上経つのだ。女の服を着るくらいであればこの面倒な装束をどうにか工夫して着た方がマシ、と思ってしまう。
なんとか余った布を爪先で蹴り上げながら歩く方法を編み出し、きょろきょろと周を探し回っていた白狼が足を止めたのは離宮の西門付近まで来た頃だった。門の隣に建てられた楼閣の影で二人の男が立ち話をしているのが見えた。
見覚えのあるでっぷりとした腹に、おお、と白狼な内心で歓喜の声を上げる。目下の標的である宦官、陳だったのだ。
「どういうことです!」
建物の影とはいえ門の近くは人通りが少なくない。白狼はさりげなく近づいて物陰に隠れようとしたが、その時に聞こえた思いもかけない陳の大声にびくりと肩を震わせた。何事かと思ったのは白狼だけではないようで、周囲を歩く人々も足を止めて二人に注目が集まっている。
ここで下手に隠れるほうが目立つ。
そう判断した白狼はすぐさま周りの野次馬の中に紛れ込んだ。
「そちが持ち込んだことは分かっているのだぞ。明確な叛意であろう」
「なんのことか分かりません。監察御史たる景様。誰ぞ他の者とお間違えでは?」
「帝姫様の毒殺を考えるなど恐れ多いこと、謀反以外になにがあろうか。まあ良い、釈明は後程十二分に聞かせてもらおう」
「ど、毒殺?」
物騒な単語に野次馬たちもどよめいた。もちろん白狼も息を飲む。
陳と相対していたのはもっと位の高い上役だろうか。その男が手を上げた瞬間、四方から武装した一団が湧いて出るように現れる。白狼が隠れようと目星をつけていた物陰からも出てきたところを見ると、あらかじめ配置していたのだろう。
あそこに隠れなくてよかったとホッとするも、陳は瞬く間に取り押さえられてしまっていた。
「お待ちください!」
陳の甲高い叫びが野次馬の集まる中で響き渡る。今朝見たときはツヤツヤしていた肉付きの良い顔が真っ青になっていた。
「引っ立てて牢へ繋いでおけ。謀反となれば極刑と九族の処分は免れまいが、御史台の中丞様がお見えになる前に調べることが山積みだからな」
「お待ちください! 景様! 話を! 話を聞いてください! 私は何も!」
景と呼ばれた役人の号令で武装した一団は陳に手際よく縄をかけた。ぎちぎちに縛り上げられた陳はなおも抵抗を試みていたが、ぬらりと光る剣先を突き付けられては押し黙らずを得ない。鋭い切っ先が見えたのだろう、白狼の側にいた女官の一人が悲鳴を上げた。
「散れ! 見世物ではないぞ!」
武官の一人が野次馬を蹴散らすように槍を振るうと、集まった女官や宦官がざわつきながらも道を開けた。白狼も人の波の動きに従って脇に避ける。
これはどういうことだろう。まさか見張ろうと思った人間がさっさと捕まってしまうとは思わなかった。
でもあいつが銀月を殺そうとした犯人として捕まって取り調べをされるのであれば、少なくとも銀月の危機は去ったのではないか。なら良かった、と思うものの釈然としない。陳の狼狽の仕方が、本当に何も知らないやつの態度に見えたせいかもしれない。
追い立てられて慌てて立ち去ろうとする宦官に腰を蹴られそうになりならがも、白狼は陳と武装した連中をじっと見つめ続けた。犯人が見つかったというのに、何か違和感が拭えない。ざまあみろという気も起らない。「切り捨てられて黒幕まで行きつかない」と言った銀月の声が蘇る。すると耳元で自分の名前を呼ばれた気がした。
声の方を振り返れば、こちらも顔をこわばらせた周が立っている。慌ただしい出来事に遭遇し言葉を無くしている白狼に、周は顔を近づけて囁いた。
「まずいことになった。私は陳殿の様子を見てくる。お前はあの男、景殿の後をつけろ。目立たんように」
早口でそうまくしたてると、周は捕縛された陳の後を追って走り去っていった。違和感の正体が分からないまま、白狼は景の後をついていったのだった。
これが間違いだとも知らずに。