朝、宦官は帝姫に迫られる①
「待てこら、俺はやるって言ってねえぞっ!」
今上皇帝の後宮奥深くある承乾宮。
皇帝の寵愛を一身に受けていた美貌の妃――瑛賢妃が亡き後、その宮には一人の帝姫が住んでいた。
齢十五の姫君は病弱で、月のうち枕から頭が上がる日が何日もないという。同じく体が弱かった賢妃が亡くなってからというもの、古参の女官長をはじめとするたった三人の侍女と一人の護衛宦官と小間使いが姫君に仕えるのみ。後宮の侍医と、父である皇帝が時折足を運ぶ以外に訪れる客がなくなって久しい。
そんなひっそりとした宮の一番奥の部屋、姫の寝室にあたるこの部屋で早朝から一組の男女がもみ合っていた。一人は宦官。もう一人はこの宮の主である帝姫である。
姫君と宦官の道ならぬ恋――ではない。当代一の病弱と言われている姫君は絹の下着姿で、寝台の上に逃げた半泣きの宦官を追い詰めていた。
「く、来るな! ちょっと勝手に脱がすな銀月!」
「往生際が悪くてよ白狼、おとなしくなさいな。わたくし手ずから一枚ずつ脱がせて差し上げると言っているのに」
「猫なで声止めろ!」
「優しく言ってやってうちに着替えろ。早くしないと侍医が来るのに間に合わん」
この騒ぎを聞きつけた者はおやと訝しく思うだろう。
銀月と呼ばれた姫君の口から飛び出す声は変声期を終えた少年のそれだった。やや低くなりたてのかすれ声は、その背に美しく波打つ黒髪と花のように可憐な顔立ちとはなんとも不釣り合いである。
「今までだったらお前がやってたんだろ? だったらそれでいいじゃねえか!」
対する白狼と呼ばれた宦官は随分と小柄だった。声もまだ子どものように高く、にじり寄る姫君を遠ざけようと闇雲に振り回す手足は男のものにしては小さい。
「やかましい。定期診察の侍医だけなら問題ないがなぜかご機嫌伺いと称して皇后の女官が来る先ぶれがあった。皇后の意見といって診察ついでに服を脱がされる可能性もある。女の身体が必要だ」
「だったら黒花さんにやってもらえばいいだろ!」
「体格はともかく、年齢が違い過ぎる。四の五の言わずにさっさと脱げ。そしてこれを着ろ」
上下ともに丈の短い絹でできた下着姿になった銀月がにじり寄り、ぐいっと女物の薄い着物と下履きを突き出す。白狼は着ている宦官服の胸元をぎゅっと握りしめ、断固拒否の構えを取った。が、それも一瞬のこと。
銀月の背後に控えていた翠明、黒花、小葉という三人の侍女にあっという間に白狼は取り押さえられてしまったのだ。
「うわあああ」
「いい加減観念なさい、白狼。この宮に来た際、なんでもやると申したではないですか。往生際が悪いにもほどがあります。黒花、小葉、さっさと脱がしておしまいなさい」
「何でもやるとは言ったけど、女の恰好はああああ!」
「耳元で叫ばない!」
初老に差し掛かっているとはいえ長年この宮で女官長をやっているという翠明は、驚くほど素早い動きで白狼の頭に拳骨を落とした。
やせぎすで、礼儀作法を重んじ帝姫たる銀月に貴婦人としての教育を施した人とは思えないほどの力に白狼は黙らざるを得ない。
「姫様も、一旦そちらはお預かりしますのでご退室なさってお召し替えを」
「しかし、白狼が逃げるようなら私も手伝ったほうが……」
「何をおっしゃってるのです。殿方が女人の着替えを見るなんてもってのほか!」
「私は構わんが。どうせ白狼だし」
「構わんが、ではありません。白狼とて中身は女人、日ごろは姫様とお呼びしておりますがあなた様は殿方。しかもこの国の皇帝の御子でございます。弁えなさいませ!」
今度は銀月に翠明の雷が落ちた。しまった、と銀月の表情が気まずいものに変わる。さっきまで白狼と取っ組み合って服を脱がそうとしていたことを思い出したのだろう。
既に半分脱がされている白狼は、黒花に羽交い絞めにされているまま小さな体を一層縮めた。年端も行かない童のように小柄とはいえ、歳は十九を数える白狼の胸元には分厚いさらし布が巻かれており、わずかな膨らみが押しつぶされて細い谷間が出来ているのが見えた。
「周! 周はいますか? 早く銀月様のお召し替えを!」
戸口に向かって声をかければ、そこに控えた大柄な宦官がはっと応じた。武官らしく太刀を佩いたこちらは、さすがにうら若い娘が衣服を剥かれている室内には入らずに扉の前で銀月を促す。
ばつが悪い顔をしたまま銀月が周に連れられて出て行くと、黒花と小葉は一斉に白狼の着替えに取り掛かった。その手は無慈悲にも白狼が着ていた宦官服や袴をはぎ取り、全身に余すことなく白粉を叩いていく。
「や、やめろって! 絶対バレるから!」
「大丈夫、姫様はいつも顔色が悪いのを隠すためっていって白粉の厚塗りしてるし、化粧も濃いめにするから」
「あら白狼、あんた顔は日焼けしてるけど体はそんなでもないのね、結構白い?」
「あらほんと。さらしが巻かれてるから日焼けしないのかしら。胸は……あんたちょっと強く巻きすぎじゃない? 跡がついてるわ」
「待てってば!」
「あ、ちょっと白狼! どさくさに紛れて人の帯飾り盗まないで! ほんっと、手癖が悪いわね」
「精神的な慰謝料だ!」
ほとんど裸にひん剥かれた白狼は、それでもなお化粧を拒もうと抵抗を試みた。しかし三人の有能な侍女たちに囲まれたうえその中でも小柄な白狼では太刀打ちができない。殴ってでも囲みを抜けようとすればできるのかもしれないが、女性を殴るのは気が引けたので得意のスリの技で侍女の宝飾品を抜くに留めた。
本当に逃げたら重大な秘密を知っている自分が一生お尋ね者にされるのは間違いないし、しかもあいつ――銀月が困る。悪くすれば殺される。それは何となく後味が悪いし、嫌だった。
換金する宛てもないか将来のちょっとした小遣い代わりに帯飾りの一つくらいもらってもばちは当たらない、はずである。いつか絶対銭に替えてやる、と固く決意するがそれがいったいいつになるかは見当がつかないが。
しかしなんの因果か性別を偽った皇子が後宮で息を潜めているなんて、そんな重大なことを知ってしまった自分が心底恨めしい。
――あの時、何でもやるなんて言わなきゃよかった。
到底納得できない状況ではあるが、やらなきゃならない事情も理解できる。なんだってこんなことに、と泣きたい気持ちになった白狼は代わりに大きなため息をついた。