Ⅰ:火薬と溜息に雨音を添えて。
半年ぶりくらいかの新作です。
プロットやらもまとまったので投稿します。
首都郊外の、とある裏路地。
ひゅぅと温かみのある風が吹くが、そんな風音を掻き消すほど自分の心臓が喧しく鳴り響いているのを、男は感じた。
7月も中旬。暑さがよく目立つようになってきたが、夜の裏路地は未だに涼しさを保っている。
…いや、それはただ単に男が冷や汗を掻いているからかもしれない。命を狙われたのなら、冷や汗の一つや二つ掻くのは当然だろう。むしろ、冷静でいられる者は常人的な感性を持っていない。
コツ、コツという足音がゆっくりと近づく。
髪が引き込まれそうな程黒ければ、瞳も黒曜石のように真っ黒。男を追ってきた青年は、愛用の拳銃―――ベレッタM92Fを片手に持ち、ゆっくりと男に詰め寄った。
奥は行き止まりであり、青年に追い詰められた小太りの男が青年を睨めつける。
「何なんだよ……何なんだ、お前は!」
「殺し屋」
青年は淡々と男の質問に答える。
夏にも関わらず、彼は長袖のパーカーとズボンを着ている。どちらも黒一色で染められていた。
「もう、良いだろう。諦めろ。お前はその事業形態のお陰で散々他人に恨まれてるんだ。」
「な……やめろ!金なら払う!依頼金を積まれたんだろう?その2……いや3倍は払えるぞ!」
「あー、一つ、忠告するが。」
諦めたように、諭すように、だが無情に。
銃口を向けられ、無様に命乞いをする男に軽蔑するような視線を向けて。若干の苛立ちを孕んだ青年は告げる。
「依頼人を裏切る行為は禁忌だし、それ以上に―――俺はお前を個人的に恨んでいる。」
「あ……あああああああ!!!!」
『お兄、右腕。』
青年の右耳に付けられたマイク付きイヤフォンから、少し幼さの残る少女の声が響いた。
同時に男は半狂乱となり、懐から何かを―――だが、少し遅かった。
―――パン!
乾いた銃声。
何度も聞き慣れた、拳銃特有の軽くも小さくない発砲音。手の平に人がぶつかったような反動の感触。
青年の持つベレッタから放たれた弾丸は正確に、ポケットに手を伸ばした男の右腕へと命中した。
「ガッ!?」
それによる痛みか衝撃か、男は取り出した銃を離してしまった。
瞬間、青年は男に詰め寄り銃口を脳天に向ける。
「ま…ッ!」
その言葉を言い切る前に、青年はトリガーを引き発砲。ワンテンポ遅れ、崩れ落ちる音。
放たれた9mmパラベラム弾は正確に男の脳天を貫き、男は即死した。
『……お兄。』
「悪い。奴とは少し……因縁があってな。」
『でも、わざわざ危ない橋を渡る必要は無い……でしょ?』
「それについては謝るさ。」
青年がイヤフォンを通じて会話をしている相手の名は、一ノ葉梨桜。中学三年生であり、"Null"と名乗るハッカーと情報屋を兼任している。
そして梨桜が"お兄"と呼ぶ青年―――一ノ葉愁翔は、高校生にして殺し屋をしている裏社会の人間。梨桜の実兄でもある。
―――彼らは学生にして、裏社会の人間だった。
『まあ良いよ。……お父さんとお母さんの関係、でしょ?その男。』
「……ああ。」
そう言葉を交わすと愁翔はその死体を写真に撮り、手慣れた手つきでマガジンを外し、薬室からも弾薬を取り出す。そうして、"処理係"に電話をした。
情報屋などと何かしらパイプがある殺し屋は、死体を処理する専門の人材との繋がりが存在する。愁翔もその繋がりを持つ殺し屋の一人だった。
「……ああ、依頼は完了した。……そうだ。後処理はよろしく頼む。場所は……」
死体や後始末の処理を電話で頼むと、愁翔は物言わぬ骸と化した男を一瞥する。
だがその顔を見るや否や、感傷の色一つ浮かべることなく、踵を返した。
「じゃ、今から帰る。急用があったらまた連絡してくれ。」
『もう帰るの?』
「ああ、もう依頼は無いし、それに……」
愁翔はベレッタのスライドを引いて薬室を確認し、再びスライドを戻す。
「さっさと風呂に入りたい。」
『ふぅん、分かった。』
軽く鼻を鳴らす梨桜の声。その向こうではカタカタとキーボードを打つ音が聞こえた。
「お前の方はどうだ?」
『データ整理は終わったよ。依頼人には暗号化データで送信済み。あとで報酬確認しておいてね。』
「はいよ。」
『あ、帰るついでにケーキ買ってきてくれない?駅前に出来たっていう、エクストラショートケーキってやつ。』
「あれ、一切れで3000円近くする超高級ケーキじゃねえか。別にお祝い事なんて無いだろ、今日。」
『いいじゃん、お金はあるんだし。あ、じゃあ私に出来る範囲なら何でもやってあげるよ。だからお願い、お兄ちゃん?』
「……分かったよ。」
妹の甘言に惑わされた訳では無いが、それでも自分は甘いなと実感する。
というかお金はあるって言うが、お前の要望で買ったスーパーコンピューターのローンがまだ1億近く残っているのだが?
結局それをわざわざ口には出さず、愁翔は通信を切ってからそう言って裏路地から足を踏み出した。
***
路地から出て、表通りを歩く。向かう場所は駅だ。
人通りの多い大通り。裏路地とは打って変わって喧騒が辺りに響く。
仕事終わりの会社員や買い物帰りの主婦、カップルや学生たちが行き交う中、ふと街を歩く親子を見つける。
ショーケースの中の服を見てはしゃぐ子供と、それを暖かな視線で見守る両親。
それはまるで気持ちの良い春の陽のような、温かさな光景で―――それを愁翔は、羨ましく思った。
もうとっくに忘れたしまった、自らの両親。自然とこうなった原因である、"ある男"の姿が脳内に浮かび上がる。そうしていると自然と力が入り、やり場の無い憎しみがこみ上げて来るのだ。
あの、忌まわしき事故の記憶と共に―――
彼の両親は5年前、小学6年の時に交通事故で亡くなったのだ。
家で梨桜と留守番をしていた夜、警察から「酔っ払い運転の車と衝突した」と連絡が入った。その時の焦燥感は今も記憶に焼き付いている。
叔父に病院まで送ってもらい、病室に着いた頃には時既に遅し。両親は二人共、すでに息を引き取っていた。
飲酒運転をしていた男がのうのうと生きている事を知ったのは、その3ヶ月後。当時の彼は精神面でまだ未熟だった事もあり、「その男に復讐をしたい」という感情で埋め尽くされた。
だが、合法的に男に復讐する方法など、当時の彼の頭で考えつくのは不可能だった。
だから、彼は軽々しく選んでしまったのだ。殺し屋になるという、恐らく最も忌むべき悪手を。
子供の執念というモノは、案外恐ろしい代物だ。
もうどうやって"殺し屋"となったかも覚えていない。―――が、それに妹まで巻き込んでしまったのだ。
梨桜は後悔していないらしいが、愁翔は少なからずそれに罪悪感を抱いていた。
改札を通り階段を登ってホームへ。この駅はそこまで乗り降りが活発という訳でも無いため、それなりに小さい構内となっている。
(…どうすっかね、これから)
彼はそう思いながらスマホを手に取り、がら空きの電車に乗り込んだ。
初めて人を殺してから、約4年半ほど。まだ高校生の彼だが、その生活は普通の高校生とは明らかにかけ離れていた。
平日は学校に行き、数日に一度、帰ったら依頼を受ける。休日なんて2、3件の依頼を立て続けに受けることも珍しくない。
この何年もの殺し屋生活において、今まで何人の人間を殺したかもう覚えていない。それどころか、もう人を殺しても"ああ、死んだな"と思う事しか出来ないのだ。
愁翔は自分の未来像を想像する。
今までとは大して変わらないのだろう。人を殺し、金を手に入れて、それで飯を食らう。
それを続け、いつかは逆恨みで殺されるのだろうか―――そんな未来を、彼は想像した。
「……つまんねえな、俺。」
ガタン、ゴトンという電車の音と揺れに身を任せ、彼は外の景色を眺める。彼の心を打ち表すかのような、曇った夜空。
いつかこんな日常が変わる出来事が起こったりしないものかと、何度妄想したことだろう。無意味と分かっているそんな思考を繰り返してしまうのは人間の性なのか。
それに自分達は、既にこの生活に慣れ切っている。今更別の生活になんて変えられない。
しばらく後に電車から降り、改札を通って駅から出る。
街灯の光により落ちた木の影を踏みしめながら、愁翔は幾度となく抱いてきたそんな希望を、溜息と共に地面へ打ち捨てた。
***
「―――以上の事に注意し、各々夏休みを楽しむように。」
学生にとっての"青春"。多くの学校では7月下旬から、その代表とも言える長期休暇―――夏休みが始まる。
この学校もその例に漏れず、教室の中で談笑している多くの学生達が、これから始まる休暇に思いを馳せていた。また一部の成績不良者達も、これから始まる補習生活に思いを馳せている。
そんな一種の天国への道が開かれようとしている時に、窓際の席で黄昏れている青年が一人。
夏の暑さによって火照った身体を、窓から吹き込む涼しい風が丁度良く冷やしていく。その感覚に目を細めながら、クラスメイトの会話に耳を傾けている。
愁翔は風によって揺れる木の葉を、頬杖をつきながら眺めていた。
終業式とHRが終わり、夏休みの話題で持ち切りとなった教室のざわめきを聞き流していると、ふいに"青春"という言葉が脳裏に浮かんだ。
自分には縁のない単語だと思っていたが、こうして外の風景を眺めてのらりくらりとしている自分も、端から見れば十分青春を謳歌している学生に見えるだろう。
(……帰るか)
鞄を持って席を立つ。これ以上ここに居ても、別にやる事は無いのだから。
そうして徐ろに手を突いて立ち上がり、最後にクラスメイトでごった返す教室を一瞥してから、階段を降りて玄関口へと向かった。
校舎を出て最初に目に入ったのが、天高く聳える太陽。夏の強い陽光が瞼を刺激し、自らの影を踏みしめる。
―――帰りにケーキでも買ってやろうか。
そんな事を思いつつ、ワイヤレスのイヤフォンを身につけてから、愁翔は学校の玄関口を出た。
「……ん?」
天気雨。
突如雨音がしとしとと響き、その滴が静かに身体を濡らしていった。
(やっぱ暑いな)
雨といえど、夏は夏。暑いことに変わりはない。それに、雨は湿気を誘い、ジメジメとした雰囲気と空気を持ち出すため、夏ではあまり好まれていない天気だ。「湿気で肌のケアが面倒だ、どうすれば良いんだ」と知り合いの一人がボヤいていたが、それに対し「知らんがな」と答えたのは記憶に新しい。
といっても、愁翔にとって雨という気候は雨音が自らの内心をすっきりさせる、気分晴らしになる良い天気である。
ポツ、ポツ、と大粒の雨がアスファルトを打ち始める。
校門を出た愁翔は、何となく空を見上げた。雲が厚く広がり、夕陽が霞んでいる。天気雨というには、少しばかり本降りに近いかもしれない。
(……傘は、ないな)
まあいいか、と愁翔は小さく息を吐き、歩を進めた。
夏の雨など、どうせすぐに乾く。それに濡れること自体、大した問題でもない。
駅へと向かう道の途中、傘をさした人々がせわしなく行き交う。買い物帰りの主婦が荷物を抱え、学生たちが駆け足で家路を急ぎ、カップルが並んで相合傘をしている。
それらを横目に、愁翔は淡々と歩いていた時だった。
『お兄、今どこ?』
耳元のイヤフォンから、梨桜の声が響く。
「学校を出たところだ。今から駅に向かう。どうした、何か問題でも起きたか?」
『いんや、そっちは雨降ってる?』
「降ってるな。まあ、すぐ止みそうな気もするが。」
『へえ、そっか。こっちは降ってないよ。』
梨桜のいる場所――つまり、自宅周辺は晴れているらしい。
少し離れた地域なのに、こうも天候が違うのかと、愁翔はぼんやりと思った。
「それで、何の用なんだ?わざわざ仕事用の回線を使ってまで、そんなに重要な事が?」
『―――ねえ、お兄。』
「ん?」
『ケーキ、忘れてないよね?』
「……覚えてるよ。」
そういう事か、と愁翔は内心溜息を吐いた。
梨桜が、にやにやと笑っているのが声色だけで分かる。結局前の時に買い忘れ、今日の帰りに買ってくるように言われていたのだ。
『今から向かうんだ?』
「そのつもりだ。店は駅前だろ?」
『うん、人気らしいから売り切れてないといいけどねー。』
彼女の軽い調子に、愁翔は「まあな」とだけ返す。
『じゃ、私は切るから。ちゃんと買ってきてよ?』
「はいはい」
そんな会話を挟みつつ。
そうして駅前の商店街へと続く通りに差し掛かった頃、愁翔はふと足を止めた。
目の前にそびえるビルの壁面に設置された大型ビジョンに映し出されたニュース速報を、立ち止まってぼーっと眺める。
『政府は先日、国内問題の解決を目的として、『M.K.N.財団』と取引をした事を明らかにしました。』
―――事の発端は去年の3月。
人類は未だに様々な問題を前に奮闘していた。
国際的に整ったラインが引かれ、起こると予想されていた第三次世界大戦も現実とはなり得なかった。多少の小競り合いはあれど、かなり平和な時代を保っていたと言えよう。
そんな歴史的に見てもかなり整った時代となっていた時、世界に激震を走らせる一つの発表があった。
とある日本所属の、本名不詳の自称科学者―――"霧島"が、世界中のテレビ電波をジャックする事件があった。
そこで霧島は、とある発表したのだ。内容は、"我々は、この世界の問題を、全て解決する用意が出来ている"、とだけ。
数少ない明かされた情報の中で分かっているのは、その"我々"の通称と大まかな能力のみ。
『M.K.N.財団』―――それが、その団体の名である。
「デウス・エクス・マキナから取ったんだろうな。」
というのが、愁翔の率直な反応だ。
機械仕掛けの神、全てを解決する絶対的存在。確かにあの機械が成した事は、確かに神の如き所業だろう。
―――地球温暖化。
―――世界貧困。
―――国際紛争。
30年も前に大きな課題となっていた思いつく限りの国際問題を全て上げたとすれば、その9割は既に解決している。
人間に非常に有用な、ご都合主義の存在―――少なくとも愁翔は、"マキナ"の事をそう認識していた。
無論、それらを狙って"マキナ"について深堀りした組織も数多く存在した。
……が、その殆どは文字通り綺麗さっぱり消えて無くなった。物理的かつ、社会的にも。
発表当初は様々なメディア等で話題となり、一時期は世界中で首脳会談が行われる程の大騒動となった。だが、人間という生き物は良くも悪くも移り変わりが激しい。1年も経てば、それが話題となるのは度々行われる政府との"取引"の時のみとなった。このまま10年も経てば、財団は生活の一部として人々の記憶から薄れていくのだろうか。
それでも愁翔の頭の片隅には、簡単には拭えぬ不快感が巣食っていた。
裏社会に生きる者としての、本能的な不安。不確定要素の塊でしかない"マキナ"という存在は、いつ自分を害する存在になるのか分からない。
地球温暖化等といった環境問題を一瞬にして解決したのだ。それらをもっと別の使い道に転用されたとしたら?―――そんな思考が、染み付いた絵の具のように拭う事が出来ない。
(……やめだ)
今こんな事を考えたって仕方がない。どうせしばらく仕事は入れないのだ、気にするだけ無駄だろう。
そうして陰鬱な気持ちを心の済に押し入り、帰路を辿った。
そんな時、ふとスマホを開くと、妹からのメッセージが届いていた。
『お兄、何度も言うけどケーキ忘れないでよ?あと、雨宿りして風邪ひかないでね!』
「……ったく、過保護な妹だこと」
思わず苦笑しつつ、彼はコンビニの軒先に入り、雨をやり過ごした。
手元には、ついさっきまで命を奪っていたのと同じ手で操作するスマホ。
非日常と日常が、奇妙に混ざり合っていることに気づきながら、愁翔は小さく息を吐いた。
空を見上げると、太陽が西へと傾き、雲が流れ行く。それは宛ら人々の生きる様を表しているかのように思えた。
人には一人一人、ドラマがある。親に育てられ、友人を作り、恋人と結婚するような……そんな人間が織りなす喜怒哀楽。唯一無二の、終わりと始まり。それらを何十、何百と断ち切ってきた愁翔には、彼なりに思う事があった。
生きとし生けるもの全てに平等なのは、"終わり"のみ。いつか必ず、愁翔にも同じく終わりは来る。
その先に行き着く場所は―――果たして、自分が殺してきた者と同じ場所なのだろうか。
そんな時。
ふと服を売っているショーケースを覗き、そこに反射して見えた小さな人影が路地裏に映り込むのが見えて―――愁翔は帽子を深く被り、そしてバッグに手を突っ込みながらその影へとゆっくり向かっていく。
(……何だ?)
そう内心呟き、一歩、一歩、また一歩と彼は歩を進める。
―――そうして。
「手子摺らせやがってよがってよ……」
20後半程の男性の声。
建物の陰で座り込み、スーツを来た男達に腕を掴まれていたその少女は、彼の目から見ても10,11歳ほどの幼い年齢だった。
雨に濡れた白髪に、人形のように透き通った肌と緋色の目。いわゆる"アルビノ"の特徴を持った彼女が静かに、だが明確な意思を持って男達を睨めつけている。
ボロけた白いワンピースタイプの服を来て、首の左側には何かのタグが付いている。
愁翔は、そのどうにも神秘的で儚げな姿を前にし、暫く呼吸も忘れてしまった。
今まで仕事の過程で、何人もの"絶世の美女"もしくは"絶世の美少女"と称される女性を見てきたが、彼女はその比にすらならないだろう。まさに完璧に整った容姿であったが、その無機質的な雰囲気を前に愁翔は不気味さすら感じた。
愁翔がその姿、そしてその状況を捉えてまじまじと見つめていると、少女が生気の薄い目で愁翔を見た。
ほんの少し、一瞬だけ目が合った。それだけだったのに、その何も感じられぬ眼が愁翔には"助けを求める"ように見えた。
彼女は、何も言わない。ただ、その一種の願望にも似た眼差しから、愁翔は目を離すことができなかった。
「まあ良い。所長がさぞお怒りだったんだ、さっさと連れて行くぞ。」
―――助けようか。
そんな考えが、脳裏にチラつく。
だがこの男達に加え、あの首元のタグのような物。明らかに表沙汰にホイホイ出すようなモノではない。はっきり言ってあの少女と男達は愁翔と同様、"裏社会"の人間だ。
裏同士が争い合うのは日常茶飯事だが、それを表の世界に持ち出すのは許されない。これは裏社会の暗黙のルールだ。おいそれと破って良い事ではない。
また、情報把握がまだ出来ていないのに加え、梨桜のサポートも無いままに戦闘行為を始めるのは気が引ける。自分は物語の主人公でも無いのだ、下手な面倒事に首を突っ込みたいとは思わない。
ただ、どうしてもあの少女の瞳が脳内に留まり続ける。それは宛ら歯に挟まった繊維のようで、どうしても居た堪れない気持ちになってしまう。
(こんな事、何度も経験しているだろうが)
そう自分に言い聞かせるも、そこから離れる事が出来ない。
何年も殺し屋をやって精神力も鍛えていながらこの体たらく。愁翔は自分自身が情けなくなった。
こうしている間にも、少女は路地の奥へと引っ張られていく。抵抗はしているようだが、何人もの成人男性を相手にできる程の力は、持っている訳が無かった。
自分の頭をなんとか言い聞かせ、少女を見捨てて帰ろうとしたその時。最後に彼女の方向を向くと、もう一度目が合った。
緋色の、ルビーのような、若干の涙に濡れた瞳。無表情のまま、口を何度か開いて何かを呟いた。
その言葉が何なのかは理解出来なかったが一つ―――頭にキーンと呻るような音が奔り、耳鳴りが響く。
今まで感じた事のない、圧倒的な不快感。
―――この少女を救わなければならない。
一瞬でそんな強迫観念に駆られた。
「んだ、おま…え゙ッ!?」
気づくと、無意識の内に愁翔は武器を取り出していて。
男達に向け、手の平に、頬に、鳩尾に、弾を撃ち込む。
……と言っても、非殺傷性のゴム弾だ。実弾を使用する拳銃は既に別のアタッシュケースに入れている。
というか、愁翔はこんな町中で白昼堂々人を殺すつもりは毛頭ない。というか、依頼でもないのに人を殺すなどしたら、速攻その界隈の者達に吊るし上げられる。
とはいえ、実弾と同じ火薬によって発射されるゴム弾の威力は、意外と馬鹿にならない。気絶するといった事は無いだろうが、耐え難い痛みによる苦痛が身体に伝わるのだ。。
とはいえどれだけ当たり所が悪かったとしても、死ぬことは無いだろう。愁翔の使うゴム弾薬自体、火薬の量を抑えている。
「え……?」
「話は後だ。」
人を殺している訳では無いが、無意識的に脳が"仕事モード"に入る。自然と判断力や頭の回転が早くなった。
「行くぞ。」
「…」
少女は少しの間戸惑ったが、その差し出された手を見た後、愁翔を少しの間見つめ、黙って頷く。
愁翔はその手を掴み、少女もゆっくりと握り返す。そうして愁翔と少女は走り出した。
未だ何が起きたかを理解しきれていない、男達を残して。
***
10分は走っただろうか。追手が来ていない事を確認した後、少女に持っていた上着着せて一息ついた。
途中力尽きた少女を背負ったにも関わらず、まだ彼の体力には余裕があった。
場違いではあろうが、彼は殺しによって鍛え上げられた自身の身体に感謝をする。
(何やってんだろうな、俺)
自分らしくない行動だ。
あの変な感覚―――妙な耳鳴りと不快感は、一体何だったのだろうか?
「で……」
それはそうと、だ。愁翔は再び少女を眺める。
身長は150cm前後だろうか。どう見ても小学生、百歩譲って中学一年生程度の年齢としか見えない。首元に付けられている―――ように見えて、実際には首に直接埋め込まれていたタグには、「M-606」の文字とバーコード。
そんな少女を観察する時間が少し過ぎ、突然少女が口を開いた。
「あなたは、だれ?」
簡潔かつ核心をついた質問。
当然と言えば当然だろうか。見知らぬ愁翔に自身を助けてもらったにしても、見たこともない人物に連れられたのだ。
愁翔はその問いに、こう答えた。
「一ノ葉愁翔。モデルガンが好きな、ただの高校生だ」
文字通り真っ赤な嘘である。
実際は殺しを生業にしている、血に染まった殺し屋だ。というか、ただの高校生はゴム弾を放てる銃なんぞ持っていなかろうに。
そんな事をぼんやりと思っていると、思いもよらぬ返答が少女から帰ってきた。
「高校生って何?」
「……あ?」
突然の問いに、愁翔は瞠目した。
―――高校生を、知らないだと?
あまりに予想外な返答に、愁翔の思考はフリーズした。
「どうして、そんなに不思議がらないの?どうやって、"育師"の人たちを?」
「いや、待て……」
「そもそも」
少女は儚げな雰囲気を持ち出し、その生気の感じられない―――先程と比べたら幾分感情は宿っているが―――無機質的な眼で愁翔を見つめながら、追い打ちをかけるように問いを重ねる。
「あなたはどうして、わたしを助けてくれたの?」
そう少女が問うと、愁翔は少女を同じく見つめて答えた。その表情は意外にも冷静であった。
―――何の為に助けようかと考えた?
この少女の為?
……おそらく、違うだろう。
少し考えて至った結論。それは、何十、何百という人間を殺してきた愁翔の"自己満足"だ。少しでも贖罪をして、少しでも背負う業を減らしたいという下らない願い。
それが分かった瞬間、自分のやっている事が何か分かった。
―――これは罪滅ぼしだ、と。
「……自己満足だ。」
愁翔は少女に手を伸ばし、その問いに答えた。
「俺は訳あって色んな業を背負っている。それを少しでも、ほんの少しでも軽くしたい―――そんな独り善がりが、この行動を呼んだ。」
「……」
「つまり、ただの偽善だよ。」
彼は自嘲するように笑う。
「……へんなの」
「それで良い。それはそうと、訳アリそうだとは言ったが、その年齢で高校生の事を知らないってのはどうなんだ?」
「……そうじゃないんだけど…それは、知らない。育師の人は、そんなこと言ってなかった。」
彼は目を丸め、少し考える。
育師 ―――世話係か、それに類する者だろうか。さっきの黒服もそうだったのか?
……だが、何故わざわざ"育師"なのか?保護施設か何かなら、単に"先生"で良いだろうに。
このまま考えていても仕方がないと思った愁翔は、また別の質問を問うた。
「名前は何だ?」
「……わからない。……たぶん、606。」
「ん?」
突然の"606"という数字を前に愁翔が首を傾げると、先程から変わらぬ無表情のまま答える。
「"606番"。育師の人は、わたしのことをそう呼んでいた。」
「……」
愁翔は頭を抑え、考える。育師という単語に、606番。そういえばタグにもそう書いてあったか。
そして文字通りの一般常識の欠如。言葉の意味合いは分かるが、まるでその言葉一つ一つに込められた意味が分からない。
唯一分かる事は、少なくとも彼一人の手に負えるようなモノじゃないという事は確かだろう。それが例え、彼が裏社会の人間だったとしても、だ。
ならば、そもそもこの行為自体が間違っていたか?
―――否。それには、自信を持って否定の結論を付けられる。
この少女は「あなたは、どうして私を助けてくれたの?」と言った。助けてくれた、と言った分この行為に間違いは無い筈だ。少なくとも、自分とこの少女との間には。…そう、愁翔は感じた。
幸い、梨桜という存在も自分の側に居るのだ。なんとかなるだろう、という楽観的な思考も存在した。
男達の目的もこの少女の事も、何も分からない。
だから、やれる事は一つ。
「606は呼びにくい、だろ?」
彼はまた少しだけ考えてこう言った。
「シス―――そう呼ぶことにする。」
「シス……」
606、だから"シックス"から真ん中を取って"シス"。それに6はフランス語で"シス"と言うらしい。
我ながらセンスが光っているのでは無いか?
「どうして、あなたはここまでするの?見ず知らずのわたしに」
「言ったろ」
愁翔は振り返って、彼の手を握った少女―――シスを連れて歩き始める。
これから確実に、厄介事に巻き込まれるだろう。だが、それもまた良い。この生活に『変化』が訪れるのであれば、それで構わない。
万が一に取り返しのつかぬ事態になったとしても、梨桜と俺ならなんとかなるだろう―――という自信。そして彼が失うモノはとうの昔に失ったというその境遇が、彼をここまで導いたのだと。彼はそう解釈した。
だからこそ、彼は彼女に微笑みかけて言った。
「こりゃただの自己満足だ」
きっと、自分はこれくらいの偽善しか出来ない。
……ただ、それで一人の少女が救えるのなら、そんな偽善も悪くは無いだろう。
***
「―――ここが俺の家だ。つっても、自信持って言える程豪華なもんじゃないが。」
シスを連れて家に着き、門を開ける。
彼女の目の前には、少し小さいながらも快適に過ごすには十分だろう大きさを持った家があった。
周りには少し範囲のある庭に、色々入っていそうな物置小屋。
「ううん。すごい」
「そうか?……そうだと良いもんだかな。」
そうとだけ言うと、愁翔は家の鍵を開けて入っていった。
「あ、靴は脱いどけ……と言おうと思ったが、裸足か。後で靴でも買ってこようか」
「靴?」
「あー……それも知らないのか。俺が足に履いているコレだ」
そう言って愁翔は、自分の靴を指差す。
「これ?」
「ああ。便利だぞ?人間が作り上げた素晴らしい文明の利器だ。…まあ、太古の昔からあった代物だが。」
愁翔は靴を脱ぐと、シスを連れて部屋の中へ入っていく。
すると、リビングのテーブルに脱力してのしかかっている少女が一人。
梨桜と同じ、黒曜石のような漆黒の瞳。だが髪の毛は自然体のブロンドになっており、活発そうな雰囲気を醸し出している。
―――なお、実際の性格はもっとダウナーなのだが。
「お兄、おかえり。ケーキは?」
「……まず最初に掛ける言葉がそれか。」
そうして期待するような目で愁翔を見つめるのが、彼の実妹である梨桜である。
すると梨桜はシスの存在に気付いたのか、観察するような目でシスを見た。その学者にも似た視線を向けられ、シスはたじろぐ。
「……ふぅん、その子がさっき連絡を入れていた子?随分と小さいね?」
「いや、お前も大概だろ。」
「言うじゃん。そんな態度なら私、手伝わないからね?」
「ああ、別に構わないぞ。その代わり、ケーキは没収だ。」
「……仕方ないなぁ。」
そう言うや否や、梨桜は席から立ち上がってシスの元に向かう。
「はじめまして、シス……ちゃん?私は一ノ葉梨桜。このお兄の妹やってます。よろしくね。」
「いもうと?」
「そう。兄を従える最強の存在だよ。」
「何吹き込んでんだよ。」
梨桜はケラケラと笑い、そして顔を真剣なモノに変えた。
「で……この子の事を探って欲しいんだよね?」
「ああ、色々妙だしな。それに、このタグもな……」
「"M-606"、ねぇ……この造りはどこの企業かな?ちょっと調べてくる。」
「あ、ちょっと待ってくれ。先にシスを風呂に入れてやってくれないか?」
梨桜はシスを見つめる。
よく見たら所々汚れている。気付かなかったが足にも傷があるし、洗ってやらないといけないだろう。
「いいの?お兄が入れなくて。」
「バカ言え。」
「あはは、冗談。じゃ、さっさと入れてくるからお兄はそこでゆっくりしてな〜。」
そう笑いながら、シスを連れて彼女は浴室へ向かった。
その様子を見届けた後、愁翔は己の臓腑の溜まった物を全て吐き出すように、重い溜息を吐いた。
「……頭が痛くなるな」
時刻は午後二時過ぎ。昼はまだ食べていないが、この時間帯なら最悪夜だけでも良いだろう。
こんな時には糖分が欲しくなる―――そう考えついた愁翔は、キッチンの棚からチョコレートを取り出した。
別に砂糖を採ると頭が良くなるなんて考えちゃいないが、それを抜きにしても愁翔はチョコレートが好きだった。
包装を開けると、小さな球状のチョコレートが現れる。所謂トリュフチョコというやつだ。しばらく見つめた後に口に放り込み、滑らかな食感とチョコレートの甘味を堪能する。
(世の中もこのくらい甘ければな……)
そんな事を考え、包装をもう一つ手に取る。
天気雨は既に止み、雲の隙間から太陽の淡い光が差す。天の梯子、という単語が脳裏に浮かんだ。
それは宛ら、天使が舞い降りてくるかのようで―――
「天使、ねぇ」
機械仕掛けの神。造られた全能。言うなれば、『M.K.N.財団』は其の神なのだろう。
人造の神は一体天使を―――人間をどのように認識しているのだろうか。
そんな事を考えている内に、風呂から上がった2人がリビングに入ってきた。
シスは梨桜の普段着ている、半袖の水色のパーカー姿だ。サイズが若干大きいのか、二の腕が見えない程に隠れている。
……まあその程度で済んでいるあたり、梨桜の身長はお察しである。何故か刺さってくる鋭い視線は、多分気の所為だろう。
「……それで?詳しくは聞いてなかったけど、何があったのさ。」
「いんや、連絡入れた時の説明で全てだ。俺も本当に何も分からん。」
そう言うと、梨桜のシスを見る目が怪訝そうな物へと変わる。
人は大なり小なり、人に記号を貼る。"面白い"なり、"怖い"なり、他にも様々だ。
裏社会ではそれが顕著に現実へと現れてくる。殺し屋などはその代表例だ。舐められたら終わりなのだ、裏社会の職業は。
今回梨桜がシスに貼り付けたレッテルは、"身元不明の不審者候補"って所か。珍しいケースではあるが、こういった幼い子供を使ってターゲットを殺す例も存在する。まさにそのケースと同じようなシチュエーションのため、裏社会の人間として怪しく見ているのだろう。
とはいえ、今回に限ってはそれは無さそうだ。証拠も根拠も無い。愁翔の中にあるただの勘がそう告げているだけだ。
「一回調べてみてくれ。お魔rならそこらのセキリティ程度なら簡単に破れるだろ。」
「……分かった。大体30分ほど時間を貰うから、その間に部屋の案内でもしてあげて。」
「分かった、頼む。」
愁翔が冷蔵庫から取り出したケーキを渡すと、梨桜がシスに向き合う。
「シスちゃん、お兄に変なことされたら言ってね。そこら辺に放り出してあげるから。」
「バカ言うんじゃないわ。」
そうして梨桜は部屋へと戻っていき、愁翔は家の案内を初めた。
「風呂場やら浴室は……分かるよな。奥に固まってる。キッチン―――調理場には入るなよ?ぐっちゃぐちゃだからな。この部屋では自由にしてもらって構わん。部屋が一つ余ってた筈だからそこで寝ると良いさ。」
「あの……」
「ん?」
シスは少しおずおずとした様子で愁翔に聞いた。
「シュウト担当の育師は、いないの?」
「ああー……」
愁翔は少し考え込み、そして言った。
「死んじまったよ、俺の親は。数年前に事故で。」
「……?」
「つっても、もう顔も殆ど覚えちゃいないさ。」
愁翔は苦笑する。
身体の奥深くからあのドス黒い感情が込み上げてくるが、ここにはシスもいる。それに復讐はとうの昔に済んだのだ。この気持ちは押し込むことにしよう。
愁翔はポンポンと数回シスの頭に手を置き、また家の案内を再開した。
「ここは俺の自室。そしてこの向かいのが梨桜の自室だ。あんま入らないでもらえると助かる。」
「何か、あるの?」
「あー……色々だ。人にゃ、男も女もジジイもガキも関係無く人に隠したい事があるもんだ。それは俺だって変わりないし、お前だってそうだろ?」
「……うん。」
普通にライフルやら拳銃やら爆弾やらが、隠されているとはいえ置いてあるのだ。危ないし子供に見られるのも困るしな、と愁翔は内心呟いた。
……同時に自分も年齢的には子供だけどな、とも思った。
シスは納得したように頷く。
愁翔はその様子を見て満足したように同じく頷いた。
そんな時。
―――くぅ
何かの鳴き声かと一瞬思ったが、違う。
シスが自分の腹を見ているのを見て、愁翔は瞬時に理解した。
「…じゃ、飯にするか。」
「…?」
「え?いや、飯だよ飯。ご飯、食事、口から摂取するアレだ。」
「なに、それ?」
おいおいまじかよ、と愁翔は内心呟く。
飯食ったこと無いって、今までどうやって生きてきたんだ?
そんな愁翔の内心を悟ったのか、シスは腕を出す。
「いつも栄養……?は、ここから入れてた。」
「なる、ほど?」
口ではそう言ったものの、ますます意味が分からない。
食事を取らせずに点滴……のようなモノで済ませている?いやそれは可怪しいだろうに。どんな馬鹿げた児童施設だよ、それ。
さらには、シスは所々汚れたりしている部分はあれど、梨桜によれば、身体自体は健康そのものであったらしい。
(点滴だけじゃ痩せ細るらしいけどな)
だが瞬時に愁翔の脳内には『M.K.N.財団』という存在が浮かび上がる。
その一瞬で考えていた事が馬鹿らしく思えてしまった。これくらい、なんてこと無い些事だと思おう。
そんなこんなで、愁翔は食事の準備をする事にした。
「飯ってのは美味いぞ。活力の源だからな。」
「うまい?」
「…つっても、今は簡単な物しか作れんがな。」
冷蔵庫を漁って、いくつか取り出す。昨日の残りのカレーと卵に、インスタント米。
「…オムライスでも作るか」
アレルギーとか大丈夫だよな?と思ったが、確認のしようも無いので大丈夫だと祈る事にした。
幸いにもエピペン類は家の棚に仕舞ってある。何かあればすぐ対処できる筈だ。
玉ねぎと米を手際良く炒め、ケチャップを加える。後はそこに薄焼き卵と温めたカレーをかければ完成だ。実に簡単である。
最近では中が半熟状になったオムレツのような物を使ったオムライスもあるようだが、彼にとってのオムライスとはこの薄焼き卵の乗ったモノだ。
数少ない親との思い出、もう顔も思い出せない母親のよく作る食事がこれだったのだ。
少しの間感傷に浸り、皿とスプーンをテーブルに座るシスの前に置く。
「ほい」
「これは?」
「俺の好きなオムライスって料理だ。それなりに自信はあるが、口に合うかどうかは少し…いやかなり分からん。」
「…」
シスはオムライスを、そしてスプーンをまじまじと見つめる。
スプーンを持ち、手でもて遊ぶ内に使い方を理解したのか、器用な手つきでオムライスを掬って食べた。
「…」
「あー…どうだ?」
「なんだかすごい…幸せな気持ちになる」
ほわほわとした、柔らかな顔をするシス。
眼には生気が宿り、生き生きとしていた。
そうか、と理解する。
今まで何も食べたことが無かったからだろう、"美味しい"という感覚を知らないのだろう。
そして、自分の料理を「幸せな気持ちになる」―――つまる所、"美味しい"と言ってくれるシスを見るとどうにも嬉しくなり、フっと笑った。
「…そうかい、そりゃ良かったよ」
「うん……」
何気に初めて見る、シスの笑顔。
それがどうにも綺麗で、美しくて、すぐに壊れてしまいそうで。
愁翔は、彼女は絶対に守ろう、と内心で決意を固めた。
***
「さてと…」
愁翔は食事を食べ終え、片付けた後にシスと向き合う。
「そろそろ本格的に自己紹介と行こうか。…俺は一ノ葉愁翔。高校生―――学生って言う色々勉強する職についている人間だ。んでシスは?」
愁翔は簡単に表向きの自己紹介を終え、シスの事を聞こうとしたが、シスが口を噤んでしまう。
どうしたのだろうか?と思った時、シスがその疑問に答えるように口にする。
「覚えて、ない。」
「…覚えていないって、これまでの事とかが?」
「少し、だけ。何をやっていたのかが、思い出せない。」
何が起こっているんだ?と愁翔。
記憶喪失にしては、特に外傷は見られない。精神的ショックによるモノもあるとは聞いているが、それならば何故このように平然としていられるのか?
(記憶を遮断…?)
愁翔はある一説を思い出した。
なんでも、"自身の保全に問題がある"と認識した記憶を、無意識的に遮断して"忘れる"……というモノ。咄嗟に思いついただけなのだが……
(あり得るのはこれくらいか)
シスは何らかのショックが原因で、自ら記憶を遮断している―――と、そう結論付ける。
となると、どっかから抜け出してきたのだろうか?そうならばおそらく、シスが元々いた施設か何かは、随分闇が深かったのだろう。
児童虐待やら何やらは、今でもよく世間では話題となる。その類から逃げるために、シスはその施設から脱走してきた……という事では無いだろうか?
愁翔は一人思惟に浸りながら、ブツブツと呟く。
「……にしてはおかしいよな、あの男達が出張る必要はねえだろ。……いや、あんま表に出せないような施設ならあり得るかもしれないけども……それに"606番"って呼び方なんぞ、そこらで使うようなモノじゃねえのは目に見えている。探すなら探すで捜索願出すなり何なりできるだろうし……それに」
愁翔はシスの首元のタグを指差した。
シスは不思議そうな表情でその指を見つめるが、それが自分の首元に埋め込まれているタグを指していると分かるや否や、納得したように口を開く。
「これは…"育師"の人が、つかう。」
「使う?どんな感じに?」
愁翔がそう聞くと、シスはゆっくりと首を横に振った。
「分かんない。見ちゃダメって言われるし、目になにかをあてられるから。」
「……ああねぇ。」
なんとなく、シスの境遇が理解できた気がした。 彼女は何らかの実験施設の被験体だったのでは無いか?
タグは何らかの識別コードのようなモノ、606というのはその番号―――その証拠に、タグには"M-606"の文字が書かれている―――なのだと、そう愁翔は予想を立てた。
「これ政府やら何やらの実験施設とかだったら俺もヤバくねえか……?」
「いや、それは無い……と思うよ。」
突然の声。
廊下側のドアから、梨桜がノートPCを持って歩いてきた。
「一通り調べたけど、国由来のモノじゃないね、その子。いやまあ、妙に情報が出てこなかったし……セキリティロックやらの手口からして、民間企業の仕業だね。それも割と裏の方にどっぷり浸かってるタイプ。ただ随分とサイバーセキュリティが厳重でさ。これ以上ロックの奥を調べようとするとスパコンを使わないといけないから、まだ調べ切れてない。」
「……なるほどねぇ、まあ今考えても無駄か。」
まだシスが実験施設の被検体と決まった訳では無い。
……いや、逆説的にそれに関してはほぼ確実だろうが、梨桜の考えが正しいのであれば政府関係では無いだろう。
もし非合法組織による仕業ならば、むしろ国から保護を受けることができるかもしれない。
……だが、もし仮に日本政府が関係していたら?直接的な関係だけでなく、上層部の癒着とかその手合だ。最悪シスは戻され、自身と妹は口封じに喋る事の出来ない身体にされる、というオチになるだろう。愁翔にとってそれだけが懸念事項であった。
最悪、梨桜の伝手やら何やらを使ってこの事実自体を隠蔽する―――もしくは、依頼を出して奴等の口封じをするか。そんな手段を取らなければならない。
前者はまず不可能だろう。このような手合の実験組織は、裏社会にも根を伸ばしている事が多い。それら関係の事件を一方的に隠蔽など、その界隈で名を馳せる梨桜でも無理だ。
だが後者ならば―――不可能でも無い。
だからこそ、愁翔はシスに問う。
「シス。お前は元居た場所に戻りたいか?」
「…わか、らない。色々な事を覚えてないし、何をしていたかもはっきりしてない…けど」
シスは、真っ直ぐに愁翔を見つめる。
純粋で、透き通った瞳。
「シュウトの作ったおむらいすは、とってもおいしかった。」
そうして、シスはゆっくりと手を伸ばし、愁翔の細身な手を握る。
小さく、柔らかく、温かな感触。それはあまりにも繊細で、今にも消えて無くなってしまいそうな程細い腕だった。
「だから、私はシュウトと……シュウトたちといっしょに居たい。」
「…決まりだな。」
愁翔は、シスの手を握り返す。
その小さく細い手が壊れぬように優しく、慎重に、だが精一杯の気持ちを込めて握った。
「改めてよろしく、シス。」
「よろしくね〜、シスちゃん。」
「うん、シュウト、リオ。」
多分更新頻度はかなり低いです。
失踪はしないように気をつけるんで気長に見守っていただけたら幸いです。