お姫様と赤の騎士の息子
「ナイーダ! ナイーダは来ているの?」
歌うようになめらかな美しい声が響く。
背にかかる長く真っ直ぐな黒髪を翻し、彼ははっとして振り返る。
一つに結われたそれはゆっくりと弧を描く。
左耳の赤いピアスがきらりと光る。
ナイーダは静かに膝をつき、彼女が自分の前に現れるのを待った。
「やっぱりナイーダね」
キャー、と鈴の音のような声を響かせる彼女の姿が少し離れたところに見えた。
光沢を含んだまばゆい金色な巻き毛をリボンで結い、大きなフリルのついたドレスを豪快に揺らし、彼女はナイーダに向かって足早に駆け寄ってきた。
「お久しぶりです。リリアーナ様。ナイーダ・ブェノスティー、ただいま戻りました」
彼はゆっくり面を上げ、未だ幼さが残る愛らしい顔を綻ばせて笑う愛しの姫君に柔らかく瞳を細めた。
「おかわりはございませんか?」
「もぉーっ、おかわりはございませんか、じゃないわよ。一体今まで何をしていたのよ! 最近はあなたがまったく来てくれないものだからとってもつまらなかったのよ」
薄紅色に色づいた頬を膨らませながら、彼女はナイーダに白雪のようになめらかな手を差し出す。
彼もそれに慣れた動作で口づける。
敬愛の証である。
「申し訳ございません。思った以上の遠出だったもので……」
「ああ、でも本当に、元気そうで何よりだわ。こちらへきて。今からお茶にするところだったのよ。たまには相手をしてちょうだい」
天使のような満面の笑みを向けられ、不覚にもナイーダは目を奪われてしまった。
まるで、あたたかい春の光のようだった。
それでもすぐにはっとし、そんな自身を制して咳払いをしたナイーダはいつも通り何もなかったように振る舞う。
(また、一段と美しくなられた……)
ナイーダは心の底からそう思った。
目の前にいる、十四になったばかりのリリアーナ・エト・イディアーノ様とは、今年でちょうど十年の付き合いになる。
彼女が四歳になる頃に、このイディアーノ城の第二王子のエリオス様の所に当時は名目上婚約者という立場で嫁いで来てから、ずっと側で側近として護衛をしているのがナイーダの仕事なのだ。
そんな中でも初めて出会った時でさえ、『生きる人形』だと思ってしまうほど可愛らしかった彼女は、歳を重ねるにつれて、どんどん美しく磨き上げられた宝石のように目映い輝きを放つようになっていた。
『誰よりも忠実にリリアーナ様をお守りするのだ』
父上は毎日そう繰り返していた。
ナイーダが五歳になった頃、異国からやってきた小さなリリアーナ姫に対し、当時十歳だった第二王子は体が弱く、なかなか彼女の前に出るどころか、公共の場でさえ姿を現すことができなかった。
そのため、王の提案で二人の子どもを幼い彼女の側に置くことが決めた。
遊び相手として、そして護衛として。
その一人が、当時、赤い騎士という名で称えられていた父上である、ファード・ブェノスティーの息子、ナイーダ・ブェノスティーだったのである。
あの頃は、ナイーダも五歳の子供で、ただの遊び相手のようなものであったが、十年の月日が流れ、近衛団の副隊長を務める今では、しっかり護衛の仕事を果たしている。
十五になったナイーダは、あの頃と同様、リリアーナ姫に変わらぬ忠誠を誓い続けていた。
そして、もう一人は……
「さ、ナイーダ、いつまでそんな所で跪いているのよ! もうっ、久しぶりに会ったのに他人行儀はやめてちょうだい」
彼女は強引にナイーダの腕を引っ張りまたにっこり微笑んだ。
花が咲いたようだとナイーダは思った。
(あいつが惚れるのもわかるな)
距離を詰められ、ふんわり甘い香りが鼻腔をくすぐる。
十年経った今も変わらず凛と美しく咲き誇る大切な大切な花に、ナイーダは少し複雑な気持ちで笑顔を返した。
「ですが、リリアーナ様。俺にはまだ仕事が残っております。今日は少し姫にお会いしたかっただけで……」
それに……
「まぁ、せっかく会いにきてくれたというのにお茶もせずにこんなわずかな間だけなの? それはあんまりだわ、ナイーダ」
「そ、そう言われましても……」
「あなたは仮にもわたくしの付き人であり、護衛なのよ。お茶の時間にいてくれなかったら心細いじゃないの」
ああ、またこの人は……と、ナイーダは思わず笑う。
腕にぎゅっとしがみつかれ、あれやこれやと言葉を並べる姿はまるで駄々っ子だ。
変わらない。
あの頃とちっとも変わらない。
そんな彼女はやはり憎めない。
たとえどれだけナイーダが彼女のことを羨ましく思っていても。
「ですが、護衛でしたら……」
あいつが、と言いかけてゾクッとした。
そう。彼女を守るもう一人の男……
「ええ、俺がいますよ、姫」
いつの間にかナイーダの後ろに感じた気配が静かに笑った。
背が高く、均整の取れた体に整った顔立ちの一人の青年が立っていた。
(出た!)
ナイーダはひどいめまいを覚える。
「そんな無能な護衛なんていなくても、俺一人で十分でしょう」
優しそうな藍色の瞳を緩め、甘く整った顔に似合わず、彼は意地悪く口角を上げて言い放った。
「アルバート!」
「姫、お加減はいかがですか?」
ナイーダをまるで空気のように気にもとめず、すっと気品に満ちた足取りでそのまま横を通り過ぎ、リリアーナの側に向かい、アルバート・クリアスは優雅に跪いた。
リリアーナに負け劣らない品の良い清潔感のある短い金色の髪がさらりと揺れる。
愛しの姫君に向かい、敬愛の口づけを交わしている彼の姿を見て、相変わらずお似合いの光景だとナイーダはぐっと息を呑んだ。
「アルバート。今日はせっかく三人揃ったことだし、わたくしは三人でお茶がしたいわ。どうかしら?」
「あいにくですが、姫。あなたには午後から音楽鑑賞のご予定がございます。ですから、まず先にお召し物を交換された方がよろしいかと……メレディスをお呼びしましょう」
ナイーダと違い、リリアーナの瞳を輝かすようなおねだりにも動じず、アルバートは『禁断の笑み』と貴婦人たちから噂されている笑みを浮かべ、容赦なく彼女の要望をねじ伏せた。
それにはさすがのリリアーナも従わざるをえず、ぶつぶつ言いながらも助けを求めるようにチラチラとナイーダにも視線を送ってきたものだった。
「そ、それならナイーダも一緒に行ってくれる?」
「え……」
いきなり話題を振られ、驚く。
「いえ、俺は……」
いつの間にか額に汗をにじませていたナイーダは彼女にそれを気づかれないよう慌てて拭いとる。
「いえ、俺がついてますから大丈夫ですよ」
アルバートはまた不敵に笑い、今度はナイーダの方を見て、楽しそうに目を細めた。
「それにしても、こんなおチビでも、姫はご自身のお側を任せられるのですね」
「なっ!」
身長差は頭一個半は高いアルバートに見下ろされ、ナイーダは眉間にしわを寄せる。
言い返したい気持ちでいっぱいだったものの、大切な姫君の前だということで唯一の理性を保ち、その感情をぐっとこらえ、平静を装う。
「アルバート、そんなこと言うものではないわ。ナイーダはわたくしの大切な付き人であって、そしてわたくし達にとっても大切な友人なのよ」
それは変わりないわ、とにっこりするリリアーナに、そうですね、とアルバートも返す。
(……うそつけ)
喉まで出かかった言葉を飲みこみ、いつも通り華やかな二人とは対照的に一人だけ暗い剣幕をまき散らしていたナイーダは内心いつも以上に複雑な気持ちになり、困惑していた。
今すぐにこの場から立ち去りたい気持ちでいっぱいである。
「で、では、俺はこれで……」
そのため後半、自分のぶっきらぼうな言動にも気にすることなく、ナイーダはそのまま二人に背を向けて足早にドアの方に向かった。
「あ、ナイーダ!」
泣きそうなリリアーナの声が後ろから響いていたのが聞こえたもののナイーダは気にすることなく一礼だけし、その場を後にした。