昨日はあまりにも遠く
私が東京北部の団地に越してきたのは、小学校に上がる年でした。それまで居た便利な都心の環境をすてて、転居を決断した両親には、当時の多くの人たちと同じように団地生活への憧れがあったようです。
狭い一間のアパートと比べれば、スチールのドアのシリンダー錠で施錠される3DKの団地の間取りは、はるかに近代的な暮らしでした。
越してきたその年の秋が、東京オリンピック、東海道新幹線開通、と、矢継ぎ早に押し寄せる高度成長の波をブラウン管をとおして目にした私は、子供心にも新鮮な時代の息吹きを感じたものです。
小学校と中学校は、この団地の外れから続く農道を歩いて、田んぼに囲まれた校舎に通いました。
中学校には、思い出があります。三階の理科室の窓から、当時のランドマークだった三十六階建ての霞ヶ関ビルが遠望できたことです。今と違って高い建物はあまりなかったので見通しがきいたのですね。
理科室と言えば、ここにはちょっと面白いものがありました。ガラスケースの中に置かれた住宅模型です。模型と言っても精巧な造りで、切妻屋根の平屋の住宅の内部が調度と生活用品のミニチュアの配置で再現されたものでした。
ガラスケースの正面にボタンが並んでいて、それを押すと廊下や浴室、室内の電灯が灯り、住宅の内部に本物のようなリアリティーが生まれました。理科の先生が来て、授業が始まるまでの短い時間、私はクラスメートと共に飽きずに模型をのぞいていたものです。
理科の授業のたびに、住宅模型を眺めることが私の習慣になりました。精巧に出来た模型には、それだけの惹き付ける魅力がありました。
あるとき、理科室に忘れ物をしてしまった私は、学校の正門を再び駆け抜け、校舎の三階の理科室の扉を開けました。誰もいない理科室の、木製の6人掛けの机の上を見ると、私の忘れ物はありました。
中学入学のお祝いに、叔母が買ってくれた万年筆でした。やれやれ、という気持ちで、それを手にして教室を出ようとした、そのときです。
何気なく目をやった住宅模型の居間に電気がともっているのです。
私は住宅模型に近づきました。
居間の襖が開いたように見えたのです。
そこには、人がいました。最初は人形かと思いました。しかし、その小さな中年の男性は、私の顔をいちべつしただけで、別段、驚きもせず、座卓の前に腰をおろすと、手にした新聞を読み始めました。
少しすると、二人目の人が襖を開けて現れました。今度は女性です。手にした小さな茶碗を卓上に置いて腰をおろしました。
ガラスケースのなかの住宅模型を凝視する私は、そのとき、教室に理科の山井先生が入ってきたことにも気がつきませんでした。
--岡野、どうしたんだ?
という、山井先生の声に驚いて振り向くと、言葉につまり、すっとんきょうな声をだしました。
--せ、先生。
再び住宅模型を見ると、いままで座っていた一寸法師のような二人の姿はありません。
--どうしたんだ。早く帰れ。
そう言って、山井先生は、準備室に入っていきました。
家に帰ってからも、そのときの光景を忘れることはできませんでした。いや、むしろ、時間が経過してからのほうが、そのリアリティは鮮明になってくるのです。
あれは、なんだったのか。
わたしは、住宅模型の室内の生々しい、それでいて奇妙であり得ない出来事を反芻していました。
そのことがあってから、理科の授業のたびに、私は住宅模型を恐る恐る覗いてみたのですが、なんの変哲もない、縮尺模型がそこには存在しているだけで、あの奇妙な出来事は、二度と目にすることはありませんでした。
歳月は流れ、還暦を過ぎた私は、私を育ててくれた両親と同じように、居心地の良さを感じながら、団地住まいを続けています。ベランダからの眺めはよく、いつでも霞ヶ関ビルも、スカイツリーも遠望できます。注意深く観察すると、その位置関係は少しおかしいのですが、私は満足しています。天気がよければ、私は散歩に出かけます。団地の舗装路が途切れた所から、雑草の空き地が拡がり、その向こうは畑です。うねうねと伸びている農道のわきには火の見やぐらが建っています。暗い樹木のかたまりになっているところは、名もないお寺です。
風景は、昭和40年代のこの地域を見事に再現しています。農道の先には何があるのかと思って、一度私は出かけたことがあります。
立ち止まって、伸ばした手に触れたのは、アクリルのような透明の壁でした。その向こうには黒い闇が拡がっていました。
そして、闇の中からまばゆい煌めきをなげかけて存在を示しているのは、円盤状の銀河でした。
この歳になっても、私はいくつかの疑問を抱いています。宇宙創成がある存在によって意図されたものだとしたら、生命の設計図も同じように意図的なものなのではないか、という疑問です。
確かなことはわかりません。
あの住宅模型のように、人間も誰かのための展示物なのかもしれません。
読んでいただき、ありがとうございました。