翼
今日も雨、雨、雨。
ここに来てからずっと雨だ。
まあ梅雨だから当たり前なんだけれども、それにしても最近はどこも雨が多い。
雨は嫌だ。
髪は乱れるし、靴は濡れるし部屋干しにした服は乾かないしおまけに臭う。
傘だって重いし、カバーしてくれる範囲は狭いから靴だけならまだいいものの、靴下やズボンの裾まで濡れる。
学校に着いても靴下が濡れているのがウザイ。
靴下を変える時の面倒くささと言ったらもう。
雨は大嫌いだ、あの降る直前の臭いも。
雨が降ると嫌なことを思い出してしまう。
「ハチ? どったの?」
前を歩く八木崎が振り返っていた。
「いやなんでも」
「あ、そう」
雨の日は歩道が狭い橋の上みたいな場所では傘が邪魔で横に並んで歩くことができないから、話声も遠くなるんだよな。
「そういやハチ、数学の課題やった?」
八木崎の声も辛うじて聞こえる。
それ、今ここで話さなくてもいいだろ。
しかし無視する訳にもいかない。
「やったけど」
「さすが。後で見せてくれ」
「おっけー」
会話の間にある無言の時間、嫌いじゃないけれどあって嬉しいものではない。
こういう時は何を言うかいつも迷う。
八木崎は友人だからとりあえず、
「雨だるいよなー」
なんて言っておけば隙間は埋まるんだけど。
「そうだなー」
「…………」
「え? それだけ?」
埋まりはしたけど続かなかった。
すぐ横を車やトラックが通り過ぎていくこのバカでかい橋は俺の新しい通学路となっていた。
この場所晴れていれば景色はいいだろうに、雨のせいで拝むことができない。
いずれは慣れた景色になってしまい気にもならなくなるだろうから、俺は今のうちに楽しんでおきたいと思っている。
このまま雨が多い日が続くのかと憂鬱になりながら歩く。
すると、反対側に一人の女子が止まったまま景色を眺めているのを見つけた。
それはここに来て初めて見る異様な光景だった。
俺たちと同じ学校の制服を着ている女子はこの雨の中を傘をさしていない。
既にびしょ濡れだ、絶対寒いだろ。
しかも手すりに手をかけることもなく、ただ棒立ちで橋の外を眺めている。
そのまま橋から飛び降りてしまいそうな危険な雰囲気も感じられるけれど、後ろを通る生徒たちは一度見るかスルーして観光名所みたいに当たり前のように通り過ぎていく。
大丈夫? と声をかけてやる様子はない。
「八木崎、あれ」
八木崎は俺が指さす方向を見て、ああ、とそのまま歩く。
「一年の水無月夏希かな。変わり者らしいぞ、クラスでも浮いてるって。あそこにいるのは今月一回目かな」
白とも銀とも言えないポニーテールは寂しげに風に揺られる。
「一年? 一回目? というか後輩のことももう把握してんの? 怖っ」
「ちげーよ、中学が同じだったんだよ」
「へえ」
「よくああやって放心状態になってることもあるんだけどな、先生や色んなクラスメイトが話を聞こうとしても誤魔化したり話を逸らしたりするらしいぞ」
「訳ありか」
「まあでも普通に可愛いしスポーツも万能、頭も良いんだって」
「へえ、聞いた話か?」
「そ、そう。聞いた話だ」
よく見ると、手すりのところに彼女に寄り添うように白い鳥がとまっている。
うわ、今目が合った気がする。
頭を突かれそうで怖い。
遠目で見た感じは大きさからカラスやハトみたいだけれど、黒じゃなくて白。
白いカラスやハトは突然変異とか色素が無いとかで稀に生まれるらしいけれど、もしかするとここら辺には珍しい鳥が生息しているのだろうか。
後ろ、といっても車線を挟んだ反対側を俺たちは通りかかった。
それまでにも何度も俺は棒立ちする少女がとても気になっていた視線を向けていた。
それが裏目に出た。
急に、尻尾の水を払うために振り返った水無月夏希と目が合ってしまった。
その瞬間、俺の胸はざわついた。
恋に落ちたのかって?
それとは少し違うと思う。
なぜなら合った目が、俺を見ているとも見ていないとも思える空虚の目をしていたからだ。
空虚の目といっても少し違うかな。
なんと言えばいいのか、上手く言い表すことができない。
感情の無いように思える透明であり虚無でもある視線というか。
怖いとか気持ち悪いとかいう訳ではない。
ただ、見ている俺の感情まで俺たちの真下を流れる抗えない川のように流されてしまうような、不思議な世界があの中に見えた気がしたんだ。
どうしてそんな目をするんだろうと考える間もなく、水無月夏希はまっすぐ向き直ってまた棒立ちを始めた。
いやまさか俺は自惚れているのかもしれない。
もしかしたら俺ではなく何か知ってそうな八木崎を見ていたのではないか。
こいつ、顔が広いらしいからな。
八木崎の反応的に、昔何か関わりがあったんじゃないか。
それにしてもこの橋は長いなあ。
手続きの時にチャリ通で申請しておけばよかった。
なぜこの馬鹿でかい橋を渡らなければならないのにあの高校に通わされることになったのか。
あれ? 待った、俺があそこに通いたいって言ったんだっけ?
まあどっちでもいいか。
橋を吊る塔のところまで来たところで気になってもう一回振り返ってみる。
遥か上の雨雲を引っ張ってきてそのまま垂らしたような銀髪はよく目立つ。
その尻尾を濡らした水無月夏希は変わらず橋の外を棒立ちで眺めている。
本当に何を見ているのか。
鳥を見ている……訳でもないようだし。
「あぶねっ」
「お、転ぶか?」
「滑りかけただけだから」
長い女神大橋を渡って、靴を濡らさないように水平線の彼方とも思えてくる学校へ歩く。