第32話「契約の報酬」
ふたりで手を繋いで歩く。いつもよりも歩幅は狭く、ゆっくりだ。
これといった会話もない。気恥しさに無言が続いた。
「あら、ローズ様。おはようございます」
後ろから声をかけて来た誰かに振り返ると、ペトラがかごに卵やミルクの瓶をいれて腕に抱えていた。今朝からさっそくジャネットの手伝いをしているらしい。
「お前は働き者だな、ペトラ。無理はするなよ?」
「いいえ、むしろ疲れが飛ぶくらい楽しいんですよ」
もともと身分のある家柄だったペトラは家事などほとんどしたことがない。ダンスや楽器の演奏を練習するばかりで、嫁いでからはメイドたちがするのもあってなおさら手を出すことがなくなった。退屈に思っていた彼女にとって、今の環境は何もかもが新鮮だ。生きているという実感が湧いてくる。
「ま、お前が言うなら別に止めたりはしないがね」
「ペトラさんもいっしょに帰る?」
「ええ、ぜひ。おふたりと話したいこともありますし」
帰り道、ペトラは今回の魔女との契約が無事果たされたことに報酬を支払いたいと申し出た。ペトラの生まれであるアンジュール家から嫁いだ際に贈られた宝石など「旅の資金になるものなら用意があります」そう言ったが、ローズは「要らん」と断った。
「でも……。私もゾーイも、あなたがいなければきっと死んでいました。ぜひお礼をさせてほしいんです、なにかひとつでも受け取っては下さいませんか?」
およそエゴでしかないのかもしれないと分かっていてもペトラは食い下がった。ならばとローズは、ちょうど良い機会だとひとつ話を持ち出した。
「お前、それよりもこれからどうするか決まったのか。カスパール家を捨ててゾーイを取ったということはジャファル・ハシムでは生家のアンジュール邸すら帰る場所にはならないだろう。フレデリクのところでこのまま働くつもりか?」
「いまのところはまだお世話に。ですが、あまり長居は申し訳ないですから、なにか違うことができたらいいなと思っているんですが……」
釣り針に食いついたとばかりにローズはにやりとして。
「だったら報酬代わりに頼まれてほしいことがある」
「報酬代わりに、ですか? 私にできることでしたら」
ローズの言うことだ、無茶な話ではないだろうと思いつつも内心で緊張していたペトラだったが、彼女はそんな心情とはまったく無縁な提案をする。
「ジャネットの宿を継いでみる気はないか?」
あまりにも突然で、目が転がり落ちるのではないかと思うほど驚いていた。
「わ、私がジャネットさんの宿を?」
「ああ。知っての通り彼女はもう高齢でね。体力の限界も近い」
「ですが、たしかご家族がいらっしゃったのでは……」
「遠くの町で暮らしていて帰ってくる気はないんだと。だから提案したんだ」
すっかり疎遠になってしまった身内が戻ってくるのは、きっと彼女が亡くなってからだろう。安宿といえども売れば多少の金にはなる。もしかしなくとも彼女のひとり息子は簡単に手放してしまうだろう。それはあまりにも残念だと思ったローズが、どうにか存続するべきだとジャネットと話し合ったうえでのことだった。
「たしかに、ボクもいいと思う!」
聞いていたシャルルも後押しをする。
「ペトラさんはすごく働き者だし礼儀正しくて、ジャネットさんも二つ返事間違いなしだよ! それに、ほら。ゾーイちゃんといっしょに暮らす場所も必要だよね?」
血の繋がった親子なんだから、とシャルル。ローズが思わず、フッ、と笑った。
「え。な、なにかおかしいこと言ったかな……?」
「まさか、逆だよ。実によく出来た娘だと感心したんだよ」
やはり何も教えなくても彼女はじゅうぶんな助けになってくれる。ローズが世界の誰よりも信頼の置くパートナーの純粋さは、いつでも誰かを想えるもので、だからこそ彼女に惹かれたのだろうと魔女さえも頷く。
「……私で本当によろしいのでしたら、ぜひお受けしたい話です」
ゾーイといっしょに暮らせるかもしれないという期待がペトラを掴む。ローズは肘で彼女を軽く小突いて言った。
「でなければ誘ったりしないとも。ゾーイもきっと喜ぶはずさ」




