第38話「最愛の娘の幸せを」
マリアンヌの強い想いにローズはゆっくり頷く。本心としては胸が躍ったが、あまり踏み込んでいいとは思えなかった。とはいえ受けたものは断れず、夜を迎えてから別室へ移動してシャルルを待つ事になる。
(……八年ぶりに会うと思うと緊張する。あいつは成長しただろうか?)
シトリンがまったく戻ってくる気配なく、一人で会わなくてはならないのでなんと言葉をかけるべきかを迷って不安に駆られる。時計に目をやって、時間が少しずつ迫っているのに気付いて、落ち着かずに部屋を右往左往した。
「魔女様、失礼いたします」
入ってきたのはメイドたちだ。何人も料理を運んできて、次々とテーブルに並べていく。部屋があまり広くなく調度品が多いので応接室かと思っていたが、どうやら食堂であったようだとローズは邪魔にならないよう数歩離れる。
テーブルの中央には大きなケーキが置かれた。
「デカいな。何人来る予定なんだ」
「女王陛下と王女殿下のお二人だけです」
「そうなのか。あとどれくらいになる?」
「あと十分もしないうちかと。それではごゆっくり」
メイドたちが去ったあと数分して、冷めてしまってはもったいないと思ったローズは手をかざして振るう。紫煙が部屋をふわっと舞った。
(これでもしマリアンヌたちが遅れても冷める事はない)
そうして魔法を使った矢先、背後の扉がカチャリと音を立てる。部屋の中を満たしていた紫煙は開いた扉をすり抜けて廊下へ逃げ出していく。
懐かしい顔を見て思わず笑顔があふれる。心にあった不安は溶けてなくなり、今にも触れたい気持ちをこらえながら彼女は最初に伝えるべき言葉を発した。
「誕生日おめでとう、シャルル。元気にしていたか?」
たった八年。しかし遠い八年。誰よりも待ち詫びた瞬間だった。────それは、シャルルも同じ事だ。全てを忘れたとしても手放さなかったものが実を結び、彼女との再会を果たすに至ったのだから。
真っ白な思考にただシャルルがぽろぽろと泣き出したのを見て、本当はローズも泣きそうな気持ちだった。抱きしめたいとさえ思い、しかし泣きじゃくって立ち尽くす彼女の頬に優しく手を触れて、愛するように撫でた。
「なんだ、相変わらず泣き虫だな。八年前と何も変わらない」
強がってみると、シャルルは仄かに微笑んだ。
「あなたのせいじゃないか、ローズ。ボクをこんなに待たせておいて」
「少し背が伸びた。前よりも綺麗になったな」
「ふふ、八年だよ? ボクだって成長するさ。……でも、どうして?」
「本当は来るはずじゃなかった。頼まれたんだよ、マリアンヌに」
マリアンヌに目配せする。娘が驚いて振り返る姿に、彼女は照れくさそうに指先で頬を掻きながら言った。
「だって抜け殻みたいだったから。母親らしい事、やっとしてあげられたわね」
「……ありがとう、お母様。それにローズも来てくれて。あ、それから!」
シャルルが何かを思い出してか、ぽんと手を叩く。
「ボク、謝らないと。どうしてかわからないけど、いつの間にかローズとの思い出を忘れてて……ずっと忘れちゃいけないって思ってたはずなのに」
落ち込むシャルル。「仕方ない事だ」とローズは彼女の唇に指を添える。
「魔女の口づけは特別なものだ。私に関わる記憶を、お前と、お前の周囲の全てから消し去る魔法だった。でも、お前は私を思い出した。それは普通ではできない事なんだよ、シャルル。ただ顔を見せるだけのつもりだったのに……」
思い出すはずがなかった。今この瞬間でもローズはそう考えていた。いくらシトリンの言うように不完全な魔法だったとしても、過去の魔女が同様の事をして、最後まで思い出されなかった寂しさの詰まった記録があったから。
ローズにとっては奇跡。しかしあっていい奇跡だったのか、とは感じた。マリアンヌへ向けた悲しそうな視線は彼女のもとから娘が離れていくかもしれない、最後の最後で自らのわがままに従うだろうローズの申し訳なさからだった。
「いいのよ、ローズ。これは私が決めたことだもの。八年間、この子ったら誰にも靡かなくて、気付かないうちに忘れたはずのあなたの影をいつも追い掛けてたのはすぐにわかったわ。だから、もういいの。立派なドレスを着ているよりも今のほうが楽しそう」
娘の前でそう話すマリアンヌの表情は実に穏やかなものだった。
「これであなたの出した条件は満たせたわね、ローズ」
「……そうなるな。で、本気でそれを口にするのか?」
彼女は問われて力強く頷き、深く頭を下げた。
「ええ。どうか、この子をあなたの旅に連れて行ってあげてください、魔女様。それが、この子がなによりも、いちばん幸せになれる道だと思うのです」
マリアンヌは最初に告げた願いを再びローズに伝える。それは最愛の娘に対する敬意と愛情に満ちた言葉だった。




