第17話「死の条件」
宿を出てゆっくり歩き、レストランでは最も良い席を選んだ。通された個室に用意してあるふかふかの椅子は、ローズの疲れをよく癒してくれそうだった。
メニューが決まればベルを鳴らすよう言われ、ひとまず表にずらっと並んだ名前と料理の挿絵を見ながら「どれも気になるな」と彼女は楽しそうにする。
「どうする、おおすめのフルコースメニューもあるが」
「うーん。いいんですか、高いみたいですけど」
「それなら心配いらない。多少は儲けてるからな」
貴族ではなくとも、受ける相手が相応ならば彼女の懐に入る額も大きい。グレゴリーのような誠実な相手から大金を受け取ることはまずないが、それでもじゅうぶんすぎるほどの稼ぎがあった。魔女とはそれほど価値のある存在なのだろう、と笑う。
「私はまだ魔導書を読み始めて浅いから、大したことは出来ないがね」
「……そのわりには商館では派手にやってましたよね?」
「心の底から腹が立ったんだよ。あのテオとかいう男に」
生理的に好かない男だっただけでなく、他人を食い物にすることを平然としている邪悪そのものだ。ローズが最も嫌う部類であり、グレゴリーの抱く誠実さを馬鹿にしたのがどうしても許せなかった。
だからこそ魔女が加担し、ロドニーが誰の町であるかを知らしめるためには派手に追い詰めるほうが最も効果的だと彼女は語る。
「テオにはすべて真実しか話せないよう魔法をかけておいた。思ったまま、感じたままのことをな。今頃は泣きながら悪態でもついて憲兵団に絞られてるだろうさ」
「自業自得ですね。悪行とは常々明るみになるものですから」
「悪魔でも隠し通すことはできない、と?」
「ええ。とはいっても、私に意見ができる者なんていませんけど」
ベルを強くたたいて鳴らしながら、彼女は自信ありげに言った。
「悪魔にも身分はあるのです。人間社会に溶け込んでいる地位ではありませんよ、我々独自の……といっても、いわば爵位と同じようなものですが」
自分があたかも偉いような言いぶりなので、ローズは「で、どれくらい? さぞすごいんだろ」とからかい気味に尋ねる。すると彼女はニヤリとして答えた。
「それはもちろん──悪魔の王。誰も私には逆らえません」
「……? ハハッ、お前のジョークは飽きないな」
「ジョークなんかではなく真実です。ですから私に意見できたのは──」
ぽかんと口を開けて、呆けたように固まった。
シトリン・デッドマンは真に悪魔の王だった。それは事実だ。しかし意見を述べられたほかの悪魔がひとりだけいた。彼女が友人と呼んだ男が。いつからかすがたを消してしまい、すっかり記憶から抜け落ちていた大切な友人のことを思いだす。
「……そうか。彼が『メギストスの封』をつくれる私以外のただひとりの悪魔だった。──ペリドット、私のただひとりの友人なら……できたこと」
「おい、シトリン。どうした、なんの話をしてる?」
ウェイターがやってきて注文を伝え、退席させたローズは不思議そうにシトリンを眺めた。あまりに深く考え込んでいるもので、呼びかけても反応がなかったが、すぐにバッと顏を上げて彼女は不意に寂しい表情を見せながら。
「ローズ、あなたは悪魔をどんな存在だと思っていますか?」
「悪魔が?……それは、そうだな。言い伝えなどで知るだけだが」
思い当たるのは、人々の魂と引き換えに契約者の願いを叶えること。そして悪魔とは不滅の存在であり、常々人間社会に溶け込んでいること。欲の深い人間の前に現れることなどの想像に過ぎない物語──シトリンがある程度は証明してくれた──があることだ。
「そのなかに実はひとつ間違いがあるのです」
「間違いが? しかしお前の話だと……あ、まさか?」
「まさしく。悪魔は不滅ではありません、死にます」
意外なのかそうでないのか、ローズはあまり驚いたふうにはみせなかったが「たしかなのか? 不滅でないということは寿命が?」興味津々なのが伝わった。
「まあ、それもあります。以前にも話しましたが、私たちは人間の魂がなければ生き永らえられません。もし契約ができないままであれば尽き果てて消えることもあるでしょう。ですがそれとは別にもうひとつあるんです。消えてしまう条件が」
きっとかつての友人は、そうして消えたのだろうとシトリンは思う。
「ふたつめの死の条件は人間に恋をし、まぐわったとき。愛を得て、みずからの役目を果たせなくなった魂を持つ悪魔は、そうして消滅するのです」