第23話「何もしないよりも」
マリーは幼い頃に母親が亡くなっているので記憶が曖昧だ。優しく、力強く、誰にも媚びないかっこいい人だったというのが今も彼女の中で印象に残っている。一緒に遊んだ時間は少ないが、それでも心から愛した人物の名を挙げられると、仄かに頬を染めてにっこりと微笑んでみせた。
三人で外へ出て宿の裏手にある預かり所へ向かい、マリーの馬車でペレニス内を移動する。彼女が『良い場所』と言った店は周囲に比べて少し古ぼけた、あまり外観的には綺麗とは言い難い建物だ。壁はひび割れていて、くすみに年季が入っているのを見るに、ずっと営業しているのは人が来ている証拠ではあったが。
外観と違って中は非常に綺麗で清掃が行き届いており、厨房も遠目に見ても分かるほどぴかぴかで、あえて客からよく見える造りになっていた。
「いらっしゃいませ、お好きな席へ……」
店主らしい年老いた男がローズを見て言葉を途切れさせ、目を丸くする。紅い髪と深碧の瞳。司祭を思わせるような服装をしている──彼女はまるで宗教とは相いれないが──特徴的な姿をした女性は、国に関わらず誰が見ても『紅髪の魔女』として認識させた。
「ま、魔女様がこんな店に……? あ、えっと、ぜひカウンター席へどうぞ。メニューを用意してありますので、ご注文が決まりましたら仰ってください」
まさか自分の店に来るなどと思っていなかったので店主は慌てていた。みれば客もほとんどおらず、日頃から常連が来る程度で新規は中々に入らない。
「おかしいわねえ。ここ、美味しいって評判だって聞いたのに」
「まあ話に聞いても実際に来てあの外観ではな」
大概の人間は見た目で判断する。他にも見た目の綺麗な店がある中で『味が良い』と言われても、そうそう最初の一歩を踏み出すことができないのが普通だ。ローズは「だが最初の一歩が重要だ」と言いながらメニューと睨み合う。
「ボクもそう思うなあ。最初ってどうしても見た目から入りがちだし、なにより他人の目って気になるんだよね。だから『こんな場所に?』って空気を嫌ったりさ。でも、ローズはそれがいいんだよね~? 『鍋の底』みたいな場所が」
ウェイリッジで泊まった宿を引き合いに出されて頷く。
「私は他人の視線より自分が気に入るかどうかだ。入って死ぬわけでもないんだからな。……っと、私は鴨のサラダとコーンスープを。それからぶどう酒も」
早々に注文を済ませ、椅子に体を預けてくつろぎながら。
「どうせどっちを選んでも後悔するくらいならやったほうがマシだよ、たとえば嫌な思い出になろうがひとつの経験になる。何かしらの教訓にはできるだろう?」
マリーはうんうん頷いてメニューを閉じる。
「そうね。やらなくて良かった事は少ないもの。あ、私も同じもので」
「じゃあボクは鹿肉のシチューとブルーチーズのサラダにしようかな」
注文を終えて、シャルルはカウンターに肘をつきながらローズを見つめる。
「昔、ボクがそうだったなあ。他人の目を気にしてばかりで、いつも塞ぎ込んでいたよ。元気なふりをして周りに気を遣って……でも今はローズのおかげで好きな事を好きなように学べる。やってこなかった事、今は全部できるんだ」
嬉しそうにニコニコするシャルルをローズは見なかった。
「お前が自分で選んだから今があるんだよ、私のおかげではない」
きっかけは魔女から受けた数々の言葉だとしても、最後にすべてを決めたのはシャルルという人間の強い意志。決断は重く、他の誰にも責任は取れない。自分なりの正しい答えを握りしめられたのは、紛れもなく彼女自身の力によるものだ。
「……ベアトリスもこれが良い機会だと捉えてくれればいいがね」
今は間違った進んでいる彼女も、まだ引き返せる可能性を持っている。背負った罪の責任は取らなければならないが、きっと新しい道も見つかるはずだと信じた。




