50. 『父』の失踪
目を閉じて耳をすますと、世界のいたるところから小さなさざめきが聞こえる。
波が生まれて消えていく。波の中を伝わる遠い波紋が寄せては返す。しかし、ところどころで音の乱れが生じている。
「ア……ああぁ……ぁ……ぐぅ……」
聖堂跡は魔力の坩堝と化していた。
その中心で苦悶の声をあげる人影は、マホと呼ばれていた少女。
その身に世界の魔力の流れを変えうる特異点を宿した彼女にとって、肉をもった体で存在すること事態が苦痛をもたらした。
肉体の痛みは彼女にとって馴染んだものだったが、最終段階に達したことで堪えきれぬものとなっていた。
とぎれとぎれに苦悶の息を漏らす度にさらに苦痛がましていく。あまりに濃すぎる魔力を含む大気は、人の肉体にとって猛毒となっていた。
だが、やがてそれすらも彼女は耐えてみせた。耐えてしまう。
少女は思った。すべてはどうでもいいことだ。
人生なんていうものは、終わってしまえば束の間の劇のようなものなのだと。どんな偏見も情熱も圧縮されて、幸福も悲しみも、いい人も、嫌いな人も、こっちが叫ぶより早く明りが落ちて、幕が下りる。
まるで今まで本当に生きたことがなかったように。すべてがかすみ、うそだらけの人生と感じる。彼女の意識はぞっとするほど暗い奈落へと落ちていく。ゆっくり、ゆっくりと、そして二度と浮上することのない闇へと。
一気に終わってしまえば楽だったろうに。心が磨耗していく中、少女は自分の中に残っている記憶にすがりついた。
『お前は生まれてよかったんだ』
ひたすらに捨て続けてきた少女に残ったもの。
その言葉を父から言われたときのことが浮かび上がっていく。
それは母がいない家庭のことをからかわれたときに、母の不在の理由を父にきいたときのことだった。
本当のことはとっくに知っていた。
わたしは母の命を奪って生まれた子だった。
母はわたしの持つ力に耐え切れず、産むと同時に息絶えた。
父が母のことを深く愛していたことを知っていた。
わたしは母にそっくりらしい。もしかしたら、父はわたしを通してずっと母を見ていたのかもしれない。
それでも、父のことが大好きだった。
血を吸い取ったように真っ赤な『髪』と一対の赤い『瞳』。両親ともに似ていない、それどころかどんな人間もそんな髪色を持つ者はいない。
父がきれいだといってくれるその髪は自慢だったが、ひそひそと囁く大人たちの声が聞こえていた。
『この子は呪われた子だ。母親の血を吸って生まれたんだ』
だから、困らせてやろうと父にあんな質問をしてしまったのかもしれない。
それから、母が与えられなかった分までわたしに愛情を与えようとするようにより一層優しくしてくれた。時にしかりつけることもあったが、背一杯厳しくしようとする顔は数秒と保たなかった。
「父様、わたしは誰にも恥じる必要のない魔法使いとなります。それがこの世にうまれた証となります」
母は優秀な魔法使いであったと聞いていた。父自身も魔導院に籍を置き、多くの成果を残しているという。
「マホ、おまえなら誰よりもすごい魔法使いになれるよ」
「父様がわたしの目標です!」
父に見送られて魔導院の門戸を叩いた。
特に気負いなどなかった。それはただの通過点だと思っていた。
試験会場では、周囲を見渡せば自分よりもひと回り以上の大人たちに囲まれていることに緊張した。
合格した。成績は首位だったらしい。
ここを出発点にしようと喜び勇んで父へと報告へと戻る。
春の気配が訪れた街中を通り抜けていく
遠くから響く鳥達のさえずり。
瑞々しさに満ち溢れた木々の緑。
日の光の柔らかな温もり。
何もかもが輝いて見えた。
「父様! 試験に合格しました。史上最年少だそうです!」
思わず乱暴に扉を開けてしまった。今日ぐらいは許してくれるだろう。
「父様! どこですか、聞いてください!」
玄関、台所、書斎、そして地下の実験室。
ひんやりした湿った空気の中階段を下りていく
「……父様?」
ランプが照らす薄明かりの中で、探す人影はなかった。
見つかったのは父が愛用していた黒いローブと、白鞘に収められた古びた剣。
『すまない』
見慣れた父の字で、机の上に書置きが残されていた。
それは誰に対する謝罪の言葉なのかはわからなかった。
その日以来、父の姿を見ることはなくなった。
失踪ということになったが、なんとなく父がこの世にいないということがわかった。
それが父という物語における結末だった。
不思議と涙は出ない。出せなかった。
いつかこうなることがわかっていたのかもしれない。
父が母のことを深く愛していたことを知っていた。
母が与えられなかった分までわたしに与えようとしていたことも、知っていた。
でも、父に「好き」だと言えなかった。子供らしく抱きついて、そういいたかった。
何がいけなかったのか。
何が間違っていたのか。
頭が空回りする。意味のある思考を組み立てることができない。
「……わたしは……わたしは、どうすれば……?」
いくら問いかけても、答えてくれる人はもういない。
この世に産んでくれた人を殺め。
愛してくれた人を苦しめた。
わたしという存在は呪われている。その考えはストンと胸に落ちた。
せめて、報いてみせよう。
だから、誓わなければならない。
今日、このときより、父様と母様の子として比類なき価値を示しつづけよう。
そのためだけにわたしは生きつづけた。
ためらいも迷いも必要なかった。他のことにも興味はなかった。
他人との関係も、まずその人間が役に立つかということから判断した。必要ないと考えれば容赦なく切り捨てた。意味も無く他人と馴れ合っている必要などない。
逆に有益だと考えれば、人脈を維持するための努力を惜しまなかった。
いまさら他にすることなど思いつかなかった。
自分のせいで死んだ親のために、泣くことさえまともにできない娘ができることなんてなかった。
ただただ答えの得られない問いをむなしく繰り返し続けていた。
――― 一体こんなことをして何の意味がある?
しだいに胸の奥に生まれた疑問は膨れ上がっていく。
そんな疑問に答えをくれたのがあの少年、勇者だった。バカみたいに未来を信じ、ことあるごとに『幸せな結末』なんて言葉を持ち出す。
両親によって生きる理由を与えられ、そして、死ぬ意味を彼によって与えられた。
希望を抱くには、この世界が残酷であることを知っている。
絶望に浸るには、この世界に生まれたことへの裏切りである。
未来は自分には関係のない、手の届かない代物だ。だから、この瞬間を必死に紡いでいくことしか許されない。ただひたすらに、まっすぐに。
そうして、自分はここにいたのだと、叫び声を上げる。
むき出しになった自分はどこまでも空っぽだった。そうしてなすべきことが定められた。
「マホ!!」
首まで諦めと悲哀に浸かりながら、感情が枯れることもなく絶望の底に沈みこむ彼女を引き上げる声が聞こえた。
待ち望んだ瞬間に、少女はそっと笑みを浮かべた。




