意志が向かう先
人間の中に、意欲とか意志とか呼ばれるものがあるとする。デュオニソス的なものと言ってもいいし、単に情熱と呼んでもいい。
意志は、外部に対象や目的を持たなければならないが、意志は理性によって客観化される。つまり、理性(自己意識)は、意志を眺める。そして、単純な対象では不満足を覚えるようになる。くだらない目的の為に意志を燃やし、蕩尽するのは馬鹿らしいと感じる。
わかりにくいので具体例を出そう。最近、「紀州のドン・ファン 美女4000人に30億円を貢いだ男」という本をパラパラ読んだ。
この本は、タイトルほどに俗悪でもなく、そんなに嫌な人でもなかったんだなと読者は感じるだろうが、それは置いておく。僕はこの本を読んでいて、一人の、性欲に隷従している個人を見て、哀しくなった。作者が、「美女を抱く」ために突っ走っていき、その感情に対して疑いは抱かない。彼が楽天的になればなるほど、希望を持てば持つほど、自分の優位を示すほどに、哀しい気持ちになった。そこに、精神の豊かさというものがなく、自分の欲望に忠実というより、むしろ、自分自身の奴隷になっている一人の人間を感じて哀しい気持ちになった。
この本の書評が目的ではないから話を飛ばすが、こういう場合、「意志」は性欲に還元され、そこから「美女を抱く」に移行するわけだが、ここに偉大な悲劇を見る人はおそらくいないだろう。「紀州のドン・ファン」の生命力、その飽くなきエネルギーは確かに大したものだが、同時に、彼が走っていく方向は「高く」はないので、全体として「素晴らしい」とは決して言えないだろう。
(無論、一人の人生なので、「素晴らしくなくて何が悪い!」と言われればその通りである。今は例として出しているにすぎない)
この場合、「意志」というものは、非常に旺盛なものがあるが、その目的が俗悪な方向に流れていくので(当人の勝手だが)、全体としては物足りないという事になる。
論を飛ばすが、意志とか意欲とかいうものが個人に内在しており、それを外部に表出する時、どのようなものが妥当だろうか? どのような形式とか、目的が、意志と理性とを共に満足させるだろうか?
こう言うとまた抽象論になるので、自分の話にしよう。自分は、ずっと、不満足だった。何かしら、極めて抑圧されたものを感じていたものの、その正体をつかめない。取り敢えず、好みから「文学」というものを掴んでみたが、今の文壇で納得できる人は一人もおらず、「小説と言えば新人賞→作家デビュー」という、それだけが目的化され、それに関しては「当たり前だよね」という風潮にも疑問を持っていた。そこで、自分には「意志」はあるが、それが理性を納得させる形式を見いだせないという事情になっている。そういう抑圧された状態がずっとあって、今もそうであるし、これからもそんな感じであろうと思う。
神聖かまってちゃんに出会って、多少の活路を見出したわけだが、何故、「神聖かまってちゃん」なのだろう。それに対して自分はこう考える。
現在、あらゆるものは、社会的な回路に吸収されている。人々の、大衆的な価値観、資本主義と民主主義の強力な装置はあらゆる現象を覆っている。そこでは、何もかもがこの巨大なイデオロギーに吸い込まれている。イデオロギーは、その支配が完全になると、もはや誰もイデオロギーとは思わない。それは「常識」である。誰と出会っても同じ事を言う。彼らにとってそれは「イデオロギー」や「主張」ではなく、「常識」である。トクヴィルは、高度な社会では支配は魂に及ぶと言っていたが、それが実現されたわけで、そこで、支配に対する抵抗は自分の魂に対する抵抗をも意味する事となった。
神聖かまってちゃんに僕が影響を受けたのは、神聖かまってちゃんが「底辺」というものを起点にして、様々なものに抵抗できるのだ、してもいいのだと示してくれた事にある。バンドをやると言えば大衆に認められ、企業に認められる他ない。小説を書くと言えば、出版社、編集者、新人賞、大衆に受けなければならない。そこでは、芸術と言いつつ、最初から紐付きである。自由を剥奪された状況において、「言葉の力」「文学を取り戻せ」などとは滑稽な話ではないか。しかし、滑稽と言えば笑われる。
さて、このような状況において、多くの意志は、最初から、社会によって用意された道を歩く事を是とする。何故彼らが是とするのか。それは、嫌な批判になるので控えるが、彼らにとっての目的も、意志の発露も、全ては既に用意されたものの中を歩く事である。意志は、理性と組んで自由を求める。この際、社会が強いたレールを歩くのは、最初から合わない服を着せられているようなもので窮屈で、自己の自由を感じない。自由を求めるというのが意志の基本的な方向性の一つだが、自由そのものの定義も世界によって最初から成されているので、ことさら、閉塞感を感じる。
そこで、意志は世界を蹴飛ばそうとする。世界を定義し、それを乗り越えようとする。そこに、自由がある。もちろん、社会から離脱した自由は悲劇に合うしかなく、最悪の現実になる事しか想定できないが、それでも、意志は自由を目指すのである。そこで、意志は理性と組んで、世界を対象化し、それを乗り越えようとする。そして世界に敗北するのだが(勝てるわけがない)そこに現在の悲劇はあるのではないかと思う。
これもまた抽象論ではわかりにくいので、具体例を出す。ドストエフスキー「地下室の手記」という作品で、主人公が、理性で作った王国を蹴り飛ばす話をする。完全に人工的な世界、理性で作られた、幸福というものが一義的に決まった世界、つまりは共産主義であるが、そういう風に理性で人間の生き方を決めてそれが幸福だとする。しかし、ここに紳士が現れて、こんな「水晶宮」は蹴飛ばしちまえ、と言う。何故、蹴飛ばすかというと、単に不愉快だからである。自由でないからである。蹴飛ばして、不幸になった所で、知ったことではない。不自由な幸福よりも、自由な不幸を選ぶ。意志は、前者では満足しない。
これは百年以上前のロシアの話であるが、今もそんなに変わらないのではないと思う。理性で建てられた「水晶宮」は完成し、それが当たり前になった為に、それを意識する事すら叶わない。「大きな物語が消失」したなんて話があるが、「大きな物語」は前提となり、常識となり、当たり前の事となった。それは空気となって僕らを支配している。だから、後はポストモダンであり、自由であり、逃避であり、あるいは社会問題に突っ込んでみたり、大衆消費を革命と呼んでみたり、なんでもござれのお祭り騒ぎなわけだが、このお祭りを「蹴飛ばす」事だけは許されない。出版社から色々な本が出されるが、売れればいいのであり、思想的に右か左かは大した意味がない。人殺しの手記であろうとノーベル賞受賞者の独白だろうと、なんだろうと売れればいいというわけで、全てが単一の論理に還元される。
こうした世界において、強い意志が、自由を求める時、どうしてもこの世界そのものに対する反抗という事にならざるを得ないのではないか。文学で言うと、書かれた内容と書く動機、書く作者が一致すると考えるならーーその作品は、正に人々の価値観を上回るように、選考委員に気に入られるようにこじんまりと書かれた作品(「蛇にピアス」とか)ではないものになるのではないか。そうした作品は、この世界のあり方を越えようとする為に、非常に不可解な、よくわからないものになっていくのではないか。
…というような事を最近は考えているのだが、このように世界のあり方を越えようとする個人それ自体を作品内部に放り込む、その反応を見てみる…という風に、自分は小説表現をやってみたい。できるかどうかはわからないが、そういう事を考えている。いずれにせよ、自分は底辺以下の、非人間という結論は避けられぬという気もする。困った話だ。