6話 善きも悪しきも己のもとへ
鉄の塊が硬い地面に叩きつけられ、鎖は活きのいい魚のように跳ねた。さぞ驚いたことだろう。公園を囲っている木から、黒い影が一斉に飛び立った。
陽太の父親はゆっくりと歩を進め、車一台分の距離を取って止まった。そうして、食い入るように私を見た。
「高岡って……まさか君……」
その続きを言おうとしない。なんとも卑怯な確かめ方だ。
「さぁ? あなたの思うとおりかもしれませんね」
ひどく冷淡な声が出た。意地の悪い答えを返すと、自ずとそうなるものだ。
だが、それは父親の推測を肯定しているようなものだ。父親は青い顔をさらに青くして、しかし、きっぱりと告げた。引き締まった声だった。
「……ダメだ、陽太。彼女はやめておけ」
「はぁ? なんで親父まで……!」
「なんだ、彼女にも言われてるのか? だったら話は早い。今すぐ別れろ」
「だからなんで! 俺は理由を聞いてるんだよ!」
「理由も何もあるか。彼女だけは絶対にダメだと言ってるんだ。わからないのか」
陽太は、納得いかないと言わんばかりに唇を噛んだ。
「ね、陽太。お父さんもこう言ってるじゃない。諦めてよ」
「陽花、待って。待ってってば。どういうことか説明してよ。俺、こんなんじゃ納得できないから……」
陽太の縋るような瞳。綺麗なものしか映さない、澄んだ瞳だ。
だが、これに絆されるわけにはいかない。私は陽太の目をしっかりと見据えた。
「……聞いても後悔するだけよ。やめておけばよかったって」
「君、待ちなさい。話ならわたしがしよう。帰ってくれ」
いかにも地主然とした声が私の言葉を遮った。陽太の父親だ。骨の髄までぬるま湯に浸かりきった体たらくはどこへやら、といったふうである。私を一瞥すると、彼は踵を返した。
何か言われる前にこの場を去りたかったのか、過去の行いに罪悪感を感じていないのか。見下されている。そう思った途端、ふつふつと怒りが湧いてきた。
意図せず、鼻からフッと空気が出た。
「まさか。嘘でしょ」
演技でもいい。己の過去を悔いてくれたなら、私を欺いてくれたなら、このまま帰るつもりだった。うまく騙されてくれたと悦に入っても、私は悔しくなどない。陽太が黙っていないから。必ず問いただすから。
ただ、私は陽太の傷つく顔を見たくなかったのだ。それほど彼のことが好きになっていた。なってしまった。自分だけは傷つかずに別れようだなんて、虫がよすぎたのかもしれない。
「昭和四十七年八月生まれ、四十五歳。二十五の時、六月に長男が生まれた」
私は威厳溢れる背中に向かって言った。
「君……っ!? 何のつもりだ!」
父親が振り返った。鬼のような形相で私を睨んでいる。
「朝川裕太さん。学生時代は相当な女ったらしで、女の子を泣かせてばかりいた。それでもあなたは守られた。放蕩息子だって、親からしたら可愛いのよ。でもね」
「ちょっと待ってよ、陽花。なんで親父のこと知ってるの」
陽太が怪訝そうに顔をしかめた。
ああ。私はもう泣きそうだった。陽太に微笑みかけたつもりだが、きっと、情けない笑顔になっていたことだろう。
「実は隠し子がいる。その子は今日で二十二歳になった」
「やめないか! 今そんな話をしても――」
父親はこちらに手のひらを向け、制止を促した。だが、止めたところでもう遅い。陽太は目を見開き、肩を震わせている。それが何よりの証拠だ。
「私のことよ」
そう締めくくった途端、陽太はいよいよ絶望に顔を歪めた。吐息が細切れに漏れる。
「これでわかったでしょ。結婚なんてできっこないのよ。だって私たち、姉弟なんだもの」
私は投げつけたままになっていた鞄を拾い上げた。本当はすぐにでも逃げ出したかったのだが、鞄に付いた砂を払っているうちに、すっかりタイミングを逃してしまった。
視界の端にブランコが映った。それは沈黙したまま、惨めな私たちを見つめている。目に見えない傷を負い、重ね、しだいに脆くなっていくのだろう。だが、壊れる時は一瞬だ。鎖を繋げば、また使えるようになるのだろうか。どうだろう。それでも、人間よりは単純に違いない。
陽太が私の腕を掴んで引っ張り、強引に目線を絡ませてくる。
「ねぇ、俺が腹違いの弟だって知ってて付き合ったの……? 違うよね? 付き合ってから知ったんだよね? ねぇ?」
「…………」
「陽花! 答えろよ……!」
ほとんど絶叫に近い声だった。
希望として心に留めておけばいいものを。どうして彼はこうも真実を知りたがるのか。
私が違うと言えば、救われたつもりになるのだろうか。いや、そんなことはない。虚しくなるだけだ。経緯がどうであれ、私たちが姉弟であることには変わりないのだから。
私はあらぬ方向に目を向けた。
「……知ってたわよ……」
「嘘だろ? なぁ……!」
陽太の手にぐっと力が入る。
「嘘じゃない」
「……っ! じゃあ、なんで俺と付き合ったの。弟なんでしょ? 俺」
「…………」
本当はもう、気づいてるでしょ。私の目的に。そう言おうとして、言葉に詰まる。言えない。言えるわけがない。
陽太は多分、わざとこういう聞き方をしている。自分で断定しようとしないのは怖いからだ。陽太が触れた場所から、微かに震えが伝わってくる。
陽太は吐き捨てるように言った。
「……俺のことなんて好きでもなんでもなかったってことかよ」
「好きよ。好きだから借金なんて嘘ついたんじゃない……! わかってよ……」
顔を上げた拍子に涙がこぼれた。それは頬を伝い、顎をくすぐり、私の手を打った。
「わかんないよ……。自分がどれだけ残酷なこと言ってるかわかってんの? ねぇ」
陽太の言うとおりだ。注がれる視線が痛い。
本当にひどいことをしたと思う。復讐を果たすために、利用することしか考えていなかった。
卑怯はどっちだ。私ではないか。たとえうやむやにされたとしても、初めから父親に会って話をすればよかったのだ。謝って許されることではないが、何も言わずに去るよりいい。口を開こうとした、その時だった。
ぐいっと腕を引かれ、いきなり唇を奪われた。熱をもった柔らかな唇が私のそれを押し潰したのだ。