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5話 簡単に、難解に

 母はいったいどういうつもりで私に陽花と名付けたのだろうか。学生時代、身を焦がすほどに恋した男を忘れないため? いつか巡り会うと信じて、人として恥ずべきことをしたのだと思い知らせるため?

 少なくとも、私が生まれた時には、あの男は既に陽太の母親とデキていたということだ。そうでもなければ、“陽”と書いて“はる”と読ませるなど、そうそうあることではないだろう。

 この時、既に私の復讐心は(つい)えていた。勝ち目など無いと思ってしまったのだ、母の恋心には。


「陽花……? ねぇ、陽花……」


 私を呼ぶ陽太の声はあまりに弱々しい。どうすればいいのかわからず、途方に暮れているようだった。

 私は何でもないふうを装い、鞄を拾い上げて、陽太に背を向けた。


「……帰る」

「え? ちょっ……ちょっと陽花!? 待ってよ、待ってってば!」


 足早に歩き出した私の後を、数拍遅れて、陽太の慌てたような足音が追いかけてくる。

 寒空の下、文字どおり身一つで投げ出されたように、私の体は震えていた。もちろん、寒さのせいではない。己の醜さと卑劣さに、ほとほと嫌気がさしたのだ。


「そんなにふらふらして一人で帰れるわけないじゃん!」


 陽太の必死な叫び声が、矢となって私の背中を突き刺した。


「親父たちに会うのは今度でもいいけど、どっちにしたって送ってくから! 俺おぶるし!」


 陽太はすぐに追いついた。私の腕を掴んで、乱暴に振り向かせた。相変わらず、デリカシーが無いのだ。


「来ないでよ!」


 私は陽太を押しのけて、ありったけの声で叫んだ。心の中がむず痒い。本当はその胸に飛び込みたかったのに。

 気がついた時には、鞄を地面に叩きつけていた。昨夜、陽太が「誕生日には一日早いけど」と言ってプレゼントしてくれたものだ。嬉しいと、大事にすると言った私に、陽太は笑っていた。本当に幸せそうだった。私は陽太の好意ごと、叩きつけたのだ。

 泣きたいのは陽太のほうだろうに、勝手に目の奥が熱くなる。陽太は言葉を発するために吸い込んだ空気を、呼吸のために吐き出した。

 言うなら今だ。彼の声を聞いてしまったら、もう二度と言えなくなるだろう。

 私は砂埃に汚れた鞄を凝視しながら言った。


「お願い、別れて。ごめんなさい……」

「はぁ……?」


 吐息混じりの声は、タバコから(くゆ)る煙のように溶けて消えた。

 喧嘩など、毎日のようにしてきた。別れを切り出すことだって、今に始まったことではない。だが、いつもなら、その度に相手の欠点を認め、自分の欠点も受け止めてもらって、仲直りさえすればよかった。

 もう無理なのだ。誰が悪いとか、こうするべきだったとか、そういう次元の問題ではない。鈍感な陽太も、そんな私の思いを察したのだろう。


「陽花、今日おかしいよ。朝からおかしい。俺何かした? したなら言ってよ、気をつけるから。結婚なんて無理とかなんなの? 言ってくれなきゃわかんないって言ってるじゃん。俺が嫌いなら嫌いってはっきり言えばいいじゃん。なんだよ……ごめんって……」


 声がひどく震えていた。


「全部返すから、今までもらったもの。この鞄だって返すから」


 私がぽつりと漏らすと、頭上で大きく息を吸い込む音が聞こえた。次の瞬間、陽太は私の肩を掴み、珍しく声を荒げた。


「そういう問題じゃないだろ! そんなのどうだっていい、理由(わけ)を話せよ!」


 びくりとして、私は顔を上げた。

 陽太が怒るのも無理はない。一方的に別れを告げられた上に、格を下げるようなことを言われたのだ。歪んだ双眸が静かな怒りに揺れていた。

 その時だった。軽快なクラクションの音が、私たちを現実に引き戻した。陽太がぱっと手を離す。振り返れば、軽トラックに乗った陽太の父親が、こちらに向かってひらひらと手を振っていた。


「おいおい、喧嘩かぁ? 下まで聞こえてきたぞ」


 父親がからかうように笑いながら、軽トラックを降りた。


「ああ、親父、ごめん。彼女、気分が悪いみたいでさ。悪いんだけど、さっきの話は無しでいいかな」


 陽太はバツが悪そうな顔をして言った。


「いいけど……大丈夫かぁ? ええっと……」


 父親が私の体を舐めるように見た。平和惚けした彼の顔は、


「……陽花です。高岡陽花……」


と私が呟いた途端、明らかに色を変えたのだ。


「高岡……?」


 ザァッと風が吹いた。嵐の予兆のように、ブランコの鎖が切れた。

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