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4話 おちる

◇◆◇


 あれは、年が明けたばかりの寒い日のことだった。

 カタンコトンと小気味良い音を立てて、貨物列車が通り過ぎていく。時計の針は、午前十時を回ろうとしていた。

 ホームが二つしかない小さな駅だが、乗り降りする客は多い。高校や大学が近くにあるためだ。

 始業式の帰りだろうか、向かいの待合室では、制服を着崩した高校生たちが何やら騒いでいた。お情け程度に作られたものだが、この時期、雨風をしのぐにはうってつけだ。

 待合室の隣には、古ぼけた木造建ての蕎麦屋がある。席は三つ設けられているが、軒先が狭く、肘をぶつけながら食べるほかない。客がくすんだ暖簾をくぐると、店主が意気揚々とした顔を覗かせた。いつもの風景だ。


「さすがに冷えるなぁ……」


 ちらつき始めた白い雪がまぶたを掠めていく。体がぶるりと震えた。かじかむ指先に息を吹きかけ、擦り合わせ、終いにはコートのポケットに収めた。

 急遽休講となったことを恨むべきか、散策がてら隣街の書店へ行こうと思い立った自分を恨むべきか。いずれにせよ、おとなしく校内にいればよかった。肩をすくめ、襟元をかき集めて歩いていた私は、あどけなさを残す甘い声に呼び止められた。


「落としましたよ」


 振り返ると、そこには一人の少年がいた。甘ったるい匂いのするカップと、私の学生証を手に、怪訝そうにこちらを見下ろしている。

 高校生だろうか。ダブルブレストの黒いブレザーに、濃灰色のスラックス。僅かに緩んだ臙脂色のネクタイ。着られているというふうではなく、制服姿が様になっていた。

 礼を言って受け取ると、少年は安堵したように微笑み、会釈をした。もう一度一礼して去るつもりだったのだが、続く彼の言葉に立ち止まった。


「偶然だ。俺、この大学受験するんです、来月」


 ここは、私の通っている大学の最寄りの駅だ。偶然と言うにはあまりに不自然だが、目を輝かせている少年を見ると、なんだか微笑ましく思えた。もしも私に弟がいたのなら、こんなふうに感じたのだろうか。


「どの学部受けるの?」


 世間話をするように聞くと、少年は愛想よく笑って答えた。


「経営学部です」

「へぇ。じゃあ将来は、経営者とか……そんなところかな?」


 少年が頷いた。


「うち、爺ちゃんが地主で、不動産管理会社のオーナーでもあるんですよ。親父は社長、お袋は事務員。大学出たら俺も従業員にされるんです。そのうち役員、親父が隠居したら社長にしてもらう予定ですからね」

「ええ……高校生のうちから決まってるんだ……。将来安泰ね」

「まぁ、その前に潰れたら元も子もないんですけど」


 そう言うと、少年は屈託なく笑った。彼の家では代々地主を世襲しており、十年もすれば父親が継ぐだろうということだ。

 私の中で何かが引っかかった。だが、確たる証拠はないのだ。もう少しこの少年と話がしたいと思った。


「地主さんってただ土地を貸すだけじゃないのね」


 私は何も知らないふうを装って、少年の顔を覗き込んだ。

 無知な女を前にすると、大抵の男はここぞとばかりに自慢話をするものだ。これを使わない手はなかった。一か八か、単純な男であることを期待して、私は賭けに出た。

 するとどうだろう、少年は私の顔をじっと見つめたのち、僅かに頬を緩めた。そうして人差し指を立て、推理ドラマに出てくる探偵さながら、得意になって語り始めたのだ。


「それだけじゃダメですよ。アパートを建てて経営するとかね。でも、それだと年収なんてたかが知れてます。だから、そこで管理会社を作って、管理料っていうのを支払うんです。オーナーの所得税率より会社の法人税率が低ければ節税になるんですよ」


 それでね、と少年は続けた。


「爺ちゃんが親父やお袋に給料を支払って所得を分散させてしまえばこっちのものだ。ほら、累進課税ってあるでしょ。税金もバカになりませんし、どうせなら上手い使い方、したいじゃないですか」


 褒めてと言わんばかりに、鼻の穴が膨らんでいた。

 もう少し年を重ねた大人が言えば、ひどく嫌みに感じただろう。少年にはまだ愛らしさがあった。可愛いとさえ思ったのだ。


「ふぅん。私、難しいことはよくわからないけど、あなた高校生でしょ? 凄いわね」


 少年は目を見開いたのち、顔をふやけさせ、


「いやいや、爺ちゃんの受け売りですから」


と言った。無理もないだろう。好意的な言葉を聞けば、誰しも気持ちがよくなるものだ。

 照れくさいのか、少年は指を握ってみたり開いてみたり、無意味な行為を繰り返した。だが、それも束の間、少年は私の言葉に顔色を変えた。


「でもそれって、結構お金持ちってことよね」


 少年は眉をしかめ、それからふいと目をそらした。


「え、ああ、まぁ、普通の家と比べたらそうかもしれないですね」


 彼は、思ったことが顔に出るタイプだろう。警戒心が滲み出ている。おそらく、これまでその手の女に幾度となく声をかけられてきたのだ。明確な証拠に、少年は私から距離を取った。

 少年がちらちらと横目にこちらを見ている。自分から話しかけた手前、去りづらいのだろう。「行っていいよ」だとか「じゃあ行くね」などと助け舟を出してほしいのだろうが、してやらない。まだ聞いていないことがあるからだ。

 少年は、会話を拒絶するように、カップの中身をちびちびと啜った。

 淡い茶色は、それがミルクティーであることを連想させる。上にはたっぷりとクリームが乗っていて、これでもかというほど蜂蜜がかけられている。とどめに、およそミルクティーとは合いそうもない粒餡だ。それが異様な存在感を放っていた。まさに甘味のオンパレードだ。

 覗き込むそぶりをすると、少年はびくりとしていっそう身を強張らせたのだが、


「ねぇ、それ混ぜないの?」


という私の問いかけに、深く安堵したようだった。話題が変わったことで、金銭に関する追及が止むと思ったのだろう。少年はもとどおり、人の好さそうな笑顔になった。


「これ、飲み終わってから食べると最高に美味いんですよ」

「へぇ……そう……」


 甘いものばかり食べていると自分に対して甘くなるというのは、母の口癖だ。まさか。甘いものを食べなくても、甘い人間はどこまでも甘い。そう思っていたが、強ち間違っていないのかもしれない。現に、この少年がそうだ。


「飲みます?」


 自分に注がれる視線の意味を勘違いしたようだ。少年はカップを傾けてみせた。カップの側面に擦られ、綺麗な渦を描いていたクリームが歪な形になった。


「あら。気にならないのね」


 私は目を細め、自分の唇に指を押し当てた。


「え?」


 少年は呆けたように口を開け、目をぱちくりさせた。鳩さながら間抜けた顔である。

 私のことを女として意識していないのだろうが、会ったばかりの人間にこれができるとは、案外女慣れしているのか、よほど鈍感なのか。


「間接キス。言わせないでよ」


 そう言って上目遣いに見やると、少年はかあっと頬を赤く染めた。


「えっ、あっ! すみません……」

「いいえ」


 少年は恥ずかしさを紛らわすように、ミルクティーをぐいっとあおった。四、五回のどを上下させたのち、カップを下ろす。

 ひどく狼狽しているようだ。美少年と呼んでも差し支えないほど筋の通った鼻に、その証拠がべっとりと付いていた。


「ふふ、可愛い。クリーム付いてる」


 私は薄っぺらい胸に手をつき、もたれかかった。少年が「ひっ」と小さな悲鳴を上げた。体に熱が、手のひらにリズミカルな鼓動が伝わってくる。

 腕をめいっぱい伸ばすと、ちょうど少年の鼻の高さになった。親指で拭ってやる。少年の両手は行き場を失い、固まっていた。

 この程度で動じるとは、いっそ爽快なくらい純粋だ。


「ん、取れた」


 指に付いたクリームを見せると、少年の耳たぶはまるで霜焼けでもしたようになった。

 何か違うことを想像しただろうか、目が泳いでいる。まぁ、いいだろう。何はともあれ、落ちればいいのだ。私は続けた。


「うん、なんだかあなたに興味が湧いちゃった。一人暮らしする時には面倒見てもらいたいな」


 警戒はどこへやら、少年は顔中を茹でたての蛸にしてこくこくと頷いた。壊れた首振り人形のように頷く様は、実に滑稽だった。

 父と関係が無いのならそれでいい。この少年とはこれっきりにすればいいのだ。そう思っていた。

 少年が震える手をポケットに突っ込んだ。探るまでもなく、端の折れたメモ帳が姿を現す。一枚を破り、少年は何やら走り書いた。


「これ、うちの会社の住所と電話番号です」


 そう言って、少年は私の手にメモを握らせた。真白の紙に力強く書かれた文字が眩しかったのは、きっと陽の光のせいだ。決して、罪悪感からくるものではあるまい。

 電話番号の右下に並ぶ社名を指でなぞった。走り書きにしては、整った文字だ。


「……綺麗な字」

「何かあったら連絡ください。あ! 賃貸に関係無いことでもいいんで!」


 勢いに任せて、少年は半ば叫ぶように言った。

 会社の電話にそれはまずいだろうと思ったが、メモの下部に点のような数字が並んでいた。携帯の番号だ。どうやら、こういうところはちゃっかりしているらしい。


「じゃ、じゃあ行きますね。友達待たせてるんで」


 少年は踵を返すと、私の返事も待たずにパタパタと駆けていった。友達らしき人影などどこにも見当たらなかったのだが、ここで呼び止めるのは野暮というものだ。

 少年の背中を見送って、私は改めてメモを見た。朝川不動産。その五文字が皮肉たっぷりに嗤っているような気がした。母から聞いた姓だ。間違いない。

 つい先日、死んだと聞かされていた父親が生きていることを知った。あのくらいの息子がいても何ら不思議はないのだ。いや、多分、そうなのだろう。インターネットで調べれば、疑念は確信へと変わるはずだ。

 私はぐしゃりと紙を握りしめた。母にしたことを死ぬほど後悔させてやると、この時誓ったのだ。


◇◆◇

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