3話 知らないほうがよかった
「ここまで来て渋るの?」
陽太はただ一言ぼやくと、いやだと言う私の腕を強引に引いて歩き出した。
やがて、陽太に連れられてやってきたのは、さびれた公園だ。土埃をかぶり、塗装の剥げた滑り台がもの悲しく佇んでいる。すっかり錆びてしまったブランコが、ときおり風に吹かれて、キィコ、キィコと泣いた。
「ほら、ここいい眺めでしょ」
公園は高台になっており、街を見渡すことができた。陽太の言うとおり、眼下の景色はそこそこいい眺めだった。
白を基調とした二階建てのアパートが三棟、さらに奥には、昔ながらの瓦屋根を携えた一軒家が点在していて、家々の隙間を埋めるように黄金色の田畑が敷きつめられている。似たような外装の建物が並ぶ様は、形式美というものだろうか、想像していたよりずっと美しかった。
夜になって明かりが灯れば、どう見えるだろう。散った桜がつくる絨毯も、夏の緑も、冬の雪景色も。田舎特有の澄んだ空気。満天の星だってどこまでも綺麗に見えるはずだ。だが、それはもう。
「時期が悪かったね。もう少しすると銀杏が綺麗なんだけど」
田舎の特権だね、と陽太は続けた。
「そう」
葉は細い枝に身を任せ、濁ってごちゃ混ぜになった色をまとっている。黄葉する前の銀杏の木々は、圧巻と言うには遥かに物足りない。
「ほら、あれ! あれが俺ん家だよ!」
私の沈んだ声さえ吹き飛ばすように、陽太は声を張り上げた。まるで無邪気な子供みたいだ。
陽太が指さした先には、そこだけ世界が違うのではないかと思うほど豪奢な邸宅が建っていた。木目調の落ちついた外観。片流れの屋根。二階には舷窓然とした丸窓が二つ。一階は壁一面が窓となっていて、開放的なつくりになっている。さらに庭側にはウッドデッキがあり、そこに椅子やら観葉植物やらが並ぶ様は、都会の洒落たカフェのようだ。
土地を囲う白い塀には大小様々な石が埋め込まれていて、その入り口には南国を思わせる木が二本、青々とした葉を茂らせている。ラブホテルのような入り口の下で、何が嬉しいのか尻尾を振っている犬は、マルチーズの“マル”というそうだ。やがて、マルはころころと転がる毛玉のように庭へ駆けていった。
「ああ、親父が帰ってきたのか」
隣で陽太が呟いた。
邸宅の脇、砂利の敷きつめられた道を一台の車がゆっくりと走ってくる。軽トラックだ。
「えっ」
思わず声が漏れてしまった。陽太の眉がぴくりと動いた。
あたりに他の車は見当たらない。てっきり、高級車を乗り回しているものと思っていたのだが。
気分を害してしまったかと思ったのだが、そういうわけではなさそうだ。陽太は私の心を読んだかのように話し始めた。
「あれは汚れてもいい車って感じかなぁ。一台しか無いけど、外車もあるよ。車命って人だからさ、タバコ吸う時とかマルを乗せる時は絶対あれ。マルのことも好きみたいだけど、車ほどじゃないんだよね」
「へぇ……」
そのつもりはなかったが、なんとも恨めしそうな声が出た。だが、陽太はまったく気がつかずに話を続ける。わかっていたことだ。ここまでくると、いっそ清々しい。
「外車っていいよなぁ! なんて言うの? こう、ロマンがあってさ。免許取ったから俺にも運転させてって頼んだんだけど、お前は軽トラで充分だろって言われちゃった」
そう締めくくると、陽太は屈託なく笑った。
荒々しくドアを閉める音が聞こえた。マルがちぎれそうになるくらい激しく尻尾を振りながら、そのほうへ駆けていく。
そこには、しょぼくれた中年の男の姿があった。マルを認めて屈んだ彼は、頭髪を逆立て、ジャケットの袖を捲っている。足首の出たスキニー。陽光に眩しく光る革靴。陽太と似たような格好をしているが、あれが彼の父親ということか。
「陽花。親父も帰ってきたことだし、そろそろ行こうか」
陽太はそう言うと、私の返事も待たずに、
「親父ぃ! 親父とお袋に会わせたい人がいてさぁ! 今から行ってもいいかなぁ!」
と叫んだ。
「おう、いいんじゃないかぁ」
陽太の父親は、マルに顔中を舐められながら、間延びした声を上げた。そうして、張りを失い始めているそれは、こう続けたのだ。
「おぉい、はるかぁ。未来のお嫁さんが来るみたいだぞ」
「ええ? 何言ってるの、お父さん」
家の中から、鈴を転がすような女性の笑い声が聞こえてくる。
「親父、気が早いよ」
陽太はくすくすと笑うと、独りごちた。
今、なんと言った。“はるか”。確かにそう聞こえた。私と同じ名前だ。偶然だろうと思ったが、何か嫌な予感がしたのだ。
私は陽太を振り返った。
「……ねぇ、陽太。“はるか”って誰? 陽太のお母さん、じゃないよね……?」
「ああ、言ってなかったっけ? 俺のお袋の名前だよ。字も同じってすごい偶然だよな」
陽太はさらりとそう言った。
冷たいものがさあっと背筋を駆け抜けていく。私は鞄を取り落とした。キャメル色をした、タル型の真新しい鞄だ。それの中から金属の小さな悲鳴が上がった。
「……陽花? 大丈夫?」
陽太の声が残酷な陰を伴って私の耳を刺した。わかっている。他でもない、自分自身のせいだ。目の前がくらくらとして、心配しているであろう彼の顔さえよくわからなかった。