2話 嘘は時に優しく牙を剥く
時は少し遡る。今朝のことだ。
青々と澄み切った十月の空。虫の音も、鳥のさえずりさえ聞こえない静寂の中で、私のヒールの音だけが拍を刻んでいる。
安定感のある太いヒールではあるのだが、底の平らな靴よりも疲労が溜まりやすい。どんどん先へ先へと行こうとする彼に合わせて歩くのは、なかなかしんどいものだ。右足の小指が火傷を負ったようにひりひりとした痛みを訴えている。これでは、水ぶくれができていること間違いなしだろう。
「ねぇ、陽太」
掴んでいたジャケットの裾を引っ張ると、前を歩いていた彼が振り返った。「ん?」と首を傾げ、子犬みたいに黒目がちな瞳で見下ろしてくる。
朝川陽太。爽やかな名前に反して、その髪はもっさりとしている。「鬱陶しいから切ればいいのに」と言えば、「俺は鬱陶しくない」と言う。陽太はこういったことに限らず、自分が正しいと思ったら絶対に折れない頑固者だ。そうかと思えば、つかみどころがなく、ふわふわとしている。交際を始めてからそろそろ一年になるが、靄がかかったかのように一向に判然としない、私の彼氏である。
「陽太のお母さんってさぁ、どんな人? 優しい? 綺麗なの?」
「どうしたの、急に」
唐突な質問だからか、私が質問攻めにしたからか、陽太は目をぱちくりさせた。
私たちは、これから陽太の実家に行くところだ。交際の挨拶をするためである。
「……緊張してるの」
「なんだってまた」
「この先、結婚するかもしれないじゃない。姑の存在って大きいでしょ? それに私、片親だからさ。そういうの気にする人じゃないといいなぁって思ったのよ」
私は早口で一気にまくしたてた。我ながら嘘くさい言いわけだと思った。
「へぇ?」
陽太は、たった二文字の言葉の中に含みを持たせて、私の顔を覗き込んだ。嫌味な顔だ。
この先、障害があろうとなかろうと、私たちが結婚することはないだろう。それだけは確信を持って言える。
もちろん、陽太のことは好きだ。おままごとのような恋愛をするにはもってこいだが、結婚するとなると話は別だ、なんてこともない。私は四年、陽太は一年。来年、私は就職するし、陽太はあと三年間も大学生活を続ける。好みは変わるだろうし、顔も育ちもいい彼のことだ。女など、選り取り見取りである――なんて、ありふれた理由でもないのだ。
「嘘、別に理由なんかないわ。ちょっと気になっただけ」
私はわざとらしく舌を出して言った。
それでも陽太は単純だった。騙されたふりをしているのか、それとも本当に騙されているのか。真実はわからないが、彼は眉根を下げて、気が抜けたような掠れた笑いを漏らした。
「変なの。うん、そうだなぁ……。ちっちゃいんだよね、背が。このくらい」
陽太は、身長計の測定板さながらまっすぐに伸ばした手を私の頭にぽんと乗せた。軽く睨んで、行儀の悪い手を退けてやると、陽太は私の真似をしてちょろりと舌を出した。
私は背が小さいほうだ。百五十もない。小学生以下はドリンクバー無料と謳うファミリーレストランが近所にあるのだが、毎度決まって勧められる。いい加減、卑屈になりたくもなるというものだ。
「“高”岡なのにね」
「……バカにしてるのか」
「まさか。可愛いってことでしょ」
陽太は伸びすぎた前髪をくるくると指に巻きつけながら言った。彼は猫っ毛だ。指を離すと、案の定、立派な鳥の巣ができあがった。
私たちはそこそこ交通の多い道を歩いていた。とは言っても、車がやっとすれ違うことのできる広さだ。主に運送業者などが裏道として利用するためである。おかげで、頼りない路側帯を一列に並んで歩くほかない。
陽太は前に向き直った。私の視界いっぱいに広がる大きな背中。バカみたいにスピードを上げて走り去る向こう見ずな車も、怖くなかった。
未だあどけなさを残す甘い声が、小さく聞こえてくる。
「あとはねぇ、怒っても怖くないね。チワワがキャンキャン吠えてるみたい」
「それ、お母さんに言ってみたら?」
「怒られちゃうじゃん」
「チワワにね」
「うわぁ、失礼な人だなぁ」
自分で言ったくせに、陽太はからからと笑った。
「陽花」
それから、ふっと真剣な顔をして振り返った陽太が何やら口にしようとした、その時だった。
地を這うような青い車が、通り過ぎざまに甲高いクラクションを鳴らしていった。俗に言うシャコタンというやつだ。それは激しく地面をこすりながら止まり、いかにも見た目だけを繕ったような男が開いたドアから顔を出した。
「いちゃついてんじゃねぇよ、ブッ殺すぞ!」
疎らに建つ家は男の声を妨げる壁にはならず、やけに大きく響いた。
胸元で揺れる金色のネックレス。ゴテゴテと飾りが付いた安っぽい指輪。
おおかた、幸せそうなカップルに当たって日頃の鬱憤を晴らしたいといったところだろうが、仮に虚勢だったとしても、牙を剥いてくる人間というのは恐ろしいものだ。私は足を縫い止められたようにその場から一歩も動けなくなってしまった。
「陽花、気にすることないよ。行こう」
耳元で陽太が囁いた。そうして私の腕を引いたのは、頼りがいのある骨張った手だ。
「おい、聞こえねぇのか、このクソガキ!」
歩き出した私たちの背中を、なおも男の怒声が追いかけてくる。
数歩進んだところで、ふと、陽太が振り返った。気にすることはないと言っておきながら、売られた喧嘩を買いに行くのではないか。そう思った。心臓が激しく動悸を打つ。私はうわ言のようにこう口走っていた。
「陽太、ダメ。行っちゃダメ……」
私はもう一方の手で陽太の腕を押さえた。お願いだからやめて! そう叫ぼうとした一瞬のちには、柔らかな感触が唇を食んでいた。陽太は男に見せつけるようにキスをしたのだ。
蛇のように私の腰を這ったのは、陽太の腕だ。それがいやらしい動きを伴って私を引き寄せた。強引に唇を割られる。尖った舌が歯茎を、上顎をなぞっていく。こういう時、慌ただしく背筋を走り抜けていくものがある。電流というか、いわゆる恍惚。ぞくぞくとする。腰が砕けるようなキスだ。擽るように舌の筋を撫で上げられたかと思えば、そっと食まれ、トマトジュースを最後の一滴まで飲み干すように激しく吸われた。
後方から男の盛大な舌打ちが聞こえたのだが、最早どうでもよかった。いらだたしそうに閉められたドアも、急発進をした車が上げた悲鳴も、この空間から引き離された、どこか遠い世界のことのようだ。
やがて、陽太は私の唇に舌を這わせ、小鳥のさえずりを残して去っていった。しばらく余韻に浸っていたのだが、もう一度軽快に啄まれ、私はようやく我に返った。
「何考えてるの……」
「何って……陽花だって気持ちよかったでしょ?」
「何バカなこと言ってるの……? 轢かれたらどうするつもりだったのよ……。逆上されて、こっちに向かってこられたら……!」
「大丈夫だよ。ああいうタイプの奴は度胸が無いから」
陽太はけろりとした顔で、さらりと言ってのけた。
「なんでそう言い切れるのよ!」
私は声の限りに怒鳴った。だが、陽太はもう話は終わったとばかりに、再び私を抱きしめた。彼はいつもこうだ。私が怒りを露わにすると、決まって体に触れ、のらりくらりと言い逃れようとする。
「俺はお嫁さんにしたいって思ってるんだけどな。ねぇ、陽花はそうじゃないの?」
「離してよ! 今そんな話してないでしょ!」
陽太の胸をドンドンと叩くと、私を力強く抱いていた腕が緩んだ。
「ねぇ! 陽……」
視界に飛び込んできた陽太の顔を認めて、私は口を噤んだ。彼が困ったように眉を下げ、今にも泣きそうな表情をしていたからである。胸がぎゅうっと締めつけられて苦しくなった。
「なんで……なんでそんな顔するの……。誰も結婚したくないなんて言ってないじゃない……」
「言ったかどうかなんてどうだっていいよ。俺にはそういうふうに聞こえたんだから」
陽太は首を振ってそう言った。
反論する気力も湧かなかった。言うまでもないが、彼のあまりに子供っぽい言葉の数々に辟易としてしまったのだ。
私は陽太の目を見ていられなくて、その胸に顔を埋めた。
「……好きってだけじゃどうにもならないことだってあるのよ……」
「母子家庭ってこと? お袋も親父もそんなに心の狭い人じゃないよ」
頭上から陽太の声が降ってくる。
「そういうことじゃないの」
「じゃあどういうこと? はっきり言ってくれなきゃわかんないよ」
陽太はひどく苛立った声を上げた。
デリカシーのひとつもなく、無遠慮にずけずけと聞いてくるところは実に彼らしい。知らぬが仏。年下の女を遊んで捨てた男が父親だなんて、同情に値するでしょう。
嘘というものは、時に優しく牙を剥く。
「……父親のことよ。いなくなったの、借金を残して」