そらのそこのくに せかいのおわり 〈Vol,05 / Chapter 07〉
光に満ちた水の中、それはどこに流されることもなく、なおも戦い続けていた。
聖戦士らの光によって、周囲の闇は洗い流されている。それでも彼らは苦しむ素振りも見せず、掴み合い、殴り合い、互いの存在を食らおうと牙を剥き出している。
そう、彼らはいずれも、目の前の相手を『食らう』つもりなのだ。
イオフィエルはオオマガツヒを、オオマガツヒはイオフィエルを。
自らに匹敵する強大な闇。それを食らえば、さらなる力を手にできる。彼らはそれを、論理ではなく本能で理解していた。
だが、これまで完全に拮抗していた戦況に変化が訪れた。
悪魔となったイオフィエルは、この水の中ではうまく動けない。なぜならその背に生えた翼は空を飛ぶためのものであり、水中を泳げる構造にはなっていないからだ。
ベイカーの翼と同じである。翼が使えない状況においては、それは余計な空気抵抗を産むものでしかない。ましてやここは水中。空気以上の抵抗に、イオフィエルの動きは明らかに鈍っていた。
オオマガツヒの手が、一体のイオフィエルを捕らえた。掴んだ手首を捻り上げ、その状態で肘の関節に膝蹴りを入れる。
強制的に伸ばされた状態への打撃。イオフィエルの左腕は潰された。
このままオオマガツヒが追撃を掛ければ、この一体を沈黙させることは出来ただろう。だが、彼はそうしない。彼の狙いははじめから、この隙に乗じて攻撃を仕掛けてくるであろう『もう一体』のほうだ。
何の惜しげもなく腕を離し、振り向きざまに襟首をつかんで頭突きを食らわす。
鼻をへし折り、のけぞったところに顎への掌底。この時には襟首をつかんでいた手は一旦離され、腹のあたりを掴み直している。
イオフィエルは完全に海老反りだ。この体勢では防御ができない。
「ウウウウウゥゥゥゥゥラアアアアアァァァァァーーーッ!」
伸びきった腹筋への超高速パンチ。連打される強烈な拳に、筋細胞も内臓も、いともたやすく破壊される。
この間、オオマガツヒは背後への攻撃にも余念がない。黒い衝撃波を背後の敵に連射し、援護に入れない状況を作り上げた。
ここから先は、一方的な殺戮だった。
イオフィエルは捕らえられた一体を諦め、半身だけでも逃れるべく水面へと浮上する。
だが、そこにいたのは――。
「お前の相手は僕たちだよ、イオフィエル」
純白の翼を広げた天使。それはマルコとサラによって浄化されたツァドキエルである。
彼の後ろには十二体の天使がいる。堕天使との戦いを終えた天使たちの中で、まだ戦えそうな者を集めてボナ・デアが治療したのだ。
忌々しげに顔を歪ませ、イオフィエルは吼える。
獣のようなその声に、ツァドキエルらは表情を曇らせた。
「『言語』を失ったのか……主から給わった、知性の証を……」
これでは話は通じない。どうやら言葉で説得して天使に戻すことは不可能であるようだ。
「ならば、致し方ない。戦おう。君という存在に、僕らの声が届くまで……」
ツァドキエルの言葉が終わらないうちに、イオフィエルは攻撃を仕掛けていた。しかし、今この世界には信徒らの祈りが溢れている。そのうえ、イオフィエルは半身をオオマガツヒに食われた状態。イオフィエルの攻撃は、位階の低い天使らでもどうにか防げる程度にまで力が落ちていた。
十二人がかりで光の防壁を張り、足止めした一瞬の隙にツァドキエルがカウンターを入れる。
金色の錫杖での強烈な一撃。だが、当たったのは左腕。もとよりオオマガツヒに潰されていた腕である。これは有効打とはならなかった。
双方即座に距離を取る。
十三対一。それでも力は互角か、イオフィエルのほうが上か。
迂闊に動けぬまま、沈黙による探り合いが始まった。
海中では、オオマガツヒが『食事』を終えていた。イオフィエルの一部だったものが水に漂い、血の色に視界が霞む。
ぐちゅぐちゅと不気味な音を立てて、オオマガツヒは悪魔の心臓を咀嚼する。そしてそれをごくりと呑み込むと、高らかに笑った。
光の海で洗われて、削り取られた闇の力。それが今、イオフィエルの力を取り込んだことによって完全状態にまで回復した。
レインが触手を伸ばしたのは、オオマガツヒが油断したこの瞬間である。
これまで海底に擬態していたレインは、オオマガツヒの真下から両足を掴んだ。
咄嗟に攻撃しようとしたオオマガツヒだが、コンマ五秒早く、脳天に雷の矢を食らう。上空に待機したベイカーが、コニラヤの合図でヒハヤヒの矢を放ったのだ。
同属性の兄弟神ながら、タケミカヅチ、ミカハヤヒ、ヒハヤヒの三柱はそれぞれ得意分野が異なる。タケミカヅチは刀剣類、ミカハヤヒは暗器やトラップ、ヒハヤヒは飛び道具の扱いに長けているのだ。ベイカーはタケミカヅチとの接続を切り、ヒハヤヒに体の制御を委ねている。
ヒハヤヒの矢は百発百中。射れば射ただけ、確実に敵の兵力を削ぐ。飛び道具が主流の近代戦においては、タケミカヅチよりも信仰されるべき神なのだが――。
「当たった? うん、当たるよね。ハハ、だって神だし。なんで僕がタケぽんの顕現する姿の一つにされちゃってるのか、意味わかんないよね。誰も拝まないから弱くなる一方だし。そりゃ戦争負けるよね、ハハ……」
闇堕ちしているわけでもないのに、とても暗い。彼は約三千年に渡る大和の歴史の中で、いつの間にか忘れ去られてしまった神なのである。弟ばかりがチヤホヤされて、すっかり卑屈な性格になってしまった。
海中ではオオマガツヒがレインに闇の波動を当てている。レインは何度でも再生可能な体だが、魂はそうではない。攻撃を受けるたび、心が闇に呑まれかける。
「レインちゃん! しっかりなさぁ~いっ!」
レインの心を支えるのはツクヨミである。いつの間にかグレナシンに乗り換えていたカリストも、ツクヨミと共にレインに精神操作を掛ける。
闇堕ちするにも、自我や理性が必要となる。絶望に呑まれる心がはじめから存在しなければ、どこにも堕ちることはない。レインはカリストに心を奪われ、代わりにツクヨミから『ピュアな乙女心』を送り込まれていた。
レインは攻撃なんてしていない。
ただ、『大好きなロドニー先輩』に抱きついているだけなのだ。
そしてなにより恐ろしいことに、レインにはもう一柱、この局面における『最狂の神』が憑いている。
「オォーッホッホッホッホ! さあレイン! お好きになさい! 今ならロドニー先輩の腹筋も大胸筋も大腿筋もお触りし放題ですわよ! 筋肉男子最高! フォオオオォォォーウッ!」
生と祝福の女神、ルキナである。いつの間にくすねたのか、特務部隊宿舎のリビングルームに置かれていた酒瓶を大量に抱えている。
失恋の末自棄酒を煽り始めたルキナは、ボナ・デアとは別の意味で『超・オーバードライブ状態』に突入していた。人間に生命力を与える黄金の光を、手加減なしでレインに送り込んでいるのだ。
「ゥヲホホホーウッ! 最高! 最高よーっ! 筋肉男子触手攻め! ほらレイン! どうせならもっとマニアックな縛り方でおいきなさい! 後ろ手縛りなんて無難すぎですわよ! せっかくタコなんですから、もっとこう、エグイ体勢のやつを……ああ! そう! それですわ! いい! いいわ! もっと徹底的に締め上げておやりなさい! ヒャハハハハハハッ!」
カリストもツクヨミも、もはや何も言えない。女神の自棄酒が、ここまで質が悪いとは。
無駄に元気いっぱいのタコは、オオマガツヒの両手足に絡みつき、動きを完全に封じている。オオマガツヒは物理攻撃を諦め、黒い衝撃波のみで応戦する。だがそれも、ルキナの光で完全防御されてしまう。
しかし、これで『万事休す』とはならなかった。
オオマガツヒはすぐに気付く。レインには攻撃の手段がない。触手で締め付けると言っても、これはロドニーの体。レインには、この体を破壊することができないのだ。そして封じられるのは物理攻撃のみ。つまり、レインのことは無視して、海面上のヒハヤヒらとの戦いに専念しても何ら問題ないということになる。
オオマガツヒは海面に向かって暗黒の波動を放つ。
「おっと!」
黒い衝撃波をひらりと躱し、ベイカーはヒハヤヒの矢を射た。
海中への攻撃は、コニラヤの合図によって行われている。水面ギリギリの高さに青い蝶が出現したら、ヒハヤヒは即座にそれを射貫く。するとその射線上にあるオオマガツヒの急所に矢が当たるという仕掛けだ。狙える箇所が複数ある場合、蝶は十数頭が同時出現することがある。そんなときにはトニーとゴヤも炎の矢を放つ。
もちろん、オオマガツヒも大人しくやられてくれるわけではない。こちらの攻撃の数倍、数十倍の数の黒い矢が飛来している。ニケの聖火が迎え撃ち、ユヴェントゥスの盾が仲間を守る。それでも防ぎきれないものは、誰もが全力で回避、防御しているのだが――。
「っ!」
トニーが被弾した。最短距離、最短時間で攻撃できるようペガサスの高度を下げているため、彼だけは、先ほどから何発も直撃している。その都度ボナ・デアが治療しているので問題はない。ただ、すべての力を攻撃だけに割り振ったケルベロスの戦いぶりは、さすがのボナ・デアも驚きを通り越して呆れるほどだった。
「いったいなんですの⁉ この犬、ちゃんと生きる気あるのかしら⁉」
女神のボヤキに、ハンクは苦笑するよりほかにない。トニーはそういう男なのだ。こうと決めたら、絶対にその生き方を曲げない。たとえそれで死んだとしても、この男は誰を恨むでもなく、「これが俺の生きざまだ」と笑って死んでゆくのだろう。
(まったく……本当に手のかかる後輩ばかりだな、うちは……)
真っ直ぐすぎるケルベロスも、真面目すぎる王子も、人の話を聞かない音楽オタクも、たまに暴走する夢系腐男子も、幽霊とおしゃべりしている童貞男も――みんな個性的で、とても愉快な仲間たちだ。同輩のキールも、グレナシン副隊長も、ベイカー隊長も、今は何か化け物のようなものに乗っ取られているロドニーも、絶対に失えない、特務の仲間。
ならば自分は?
この世界で浴び続けた闇の影響だろうか。ハンクの心の中に、するりと何かが入り込んだ気がした。
自分は腕力ばかりが自慢で、これといった特技も、他の隊員のような個性もない。自他ともに認める『いつも後ろにいるでっかいの』というポジションなのだ。
オオマガツヒの足止め役は、みんなに大切にされているレインより、自分がやったほうが良かったのではないか。自分なら、万が一死んだとしても、誰も悲しまないだろうし――。
自分でも訳が分からなかった。
なぜ、急にこんなマイナス思考に陥ってしまったのか。
唐突に闇色に染まっていく心に戸惑う。
心も体も、ズシリと重く、動かしづらい。
救いを求めるように視線をさまよわせ、ハンクは気付いた。
コニラヤの蝶が増えている。
それはオオマガツヒが弱り、隙が増えたということなのだろう。攻撃するなら今が好機。自分が少し具合が悪いくらいで、このチャンスを無駄にするわけにはいかない。今は気を強く持って、トニーのサポートに専念すべき――そう考えた瞬間、心のどこかで、「そうだ、それでいい」と同意する何かの気配を感じた。
おかしい。
自分はまず何よりも、自分自身の判断を疑ってかかるタイプだ。
最終的には自分の心に従うとしても、そこに至るまでに必ず悩む。
悩んで、悩んで、悩み抜いて、それから決める。
そのせいでキールやベイカーから「もっと自分に自信を持て」と怒られるほどなのだ。
それがどうした? 「それでいい」だと?
今の声は絶対に、自分の心の声などではありえない。
ハンクはためらわなかった。
バッと顔を上げ、叫ぶ。
「みんな! 俺を撃て! 俺の中にマガツヒが潜り込んでいる!」
マガツヒは知らなかった。
ハンクは『ただ後ろにいる』わけではない。皆、ハンクを信頼しているからこそ彼に背中を預けるのだ。そしてハンクも、皆を深く理解しているからこそ、余計な言葉は発しない。
冷静沈着。常に一歩引いたところで仲間をフォローする、特務の最強バックアップ。
その彼が「俺を撃て」と言うのだ。誰も、その言葉を疑うことは無かった。
ベイカーの雷が、トニーの炎が、ゴヤの鬼火が。
それぞれの攻撃がハンクの胸に突き刺さった瞬間、空気が震えた。
世界そのものに充満していた闇の気配が、同時に声を上げたかのようだった。
断末魔の叫び。耳を劈くその声が止んだとき、空が崩れた。
ばらばらと崩れ落ちてくる空の断片は、まるで灰色のペンキである。あれだけ暗く立ち込めていた黒雲は、実はこんなにも薄っぺらな、被膜のようなものだったのだ。
落ちた空の断片が、一つ、また一つと、光の海に溶けてゆく。
心のペンキで塗りこめた灰色の空。その先に隠されていたものは、雲一つない、セレストブルーの空だった。
「……光が……」
天頂から差す透明な光に、世界に残っていた闇の欠片が浄化されていく。そしてすべての闇が消え失せたとき、光の海も消滅した。
再び姿を現した大地。そこに広がるのは、色鮮やかな花畑だった。
花畑に身を横たえるロドニーは、元の姿に戻っている。これまでの激しい戦闘で衣服は原形を留めていないが、下半身にヌルヌル絡みつくオオダコのおかげで、丸見えにはなっていない。
「よし! セーフ!」
「いや隊長、アレ絶対アウト。絵面が完全にそっち系雑誌のグラビア! それも袋綴じ系のあれッスよ!」
「タコなりのフレンドリーなハグだと信じよう!」
「いやいや、エロ触手にしか見えねえッス!」
「いいや! ハグだ! あれはただのハグ! 水中でナニがアレされてなにかと色々大変なことになっていたなんて、そんなの全部幻覚だ! 『神の眼』が見た幻覚! 第六感なんて信じない! 俺は何も信じないから!」
「隊長……ヒハヤヒさんの眼でナニが見えちゃってたんスか……」
同じく『神の眼』を持つグレナシンも、両手で顔を覆っていた。
「エグイわ……あの攻撃はエグイわよ……シーデビルって水中だとあんな……んもー、ガチでヤッバい。アタシ、あんなの食らったら十秒もたない……」
「ハンクのほうに逃げたとき、『ああ、やっぱり』って思ったよな……」
「ええ……足止めどころか主戦力になるなんて、聞いてないわよ……」
ショックから立ち直れない様子の神の器たちだが、現場を見ていない隊員たちも、薄々気づいている。ロドニーの全身に残る赤い痣は、触手で締め付けた痕でも吸盤で吸い付いた痕でもない。あれはキスマークだ。
「そりゃ、まあ、タコに迫られたら逃げるよな。よほどの触手プレイマニア以外は……」
「レイン……精神操作された影響だと信じたいが……いや、どうだろう……」
「怪しいところだな……」
「グレーゾーンってやつか」
「それも、限りなく黒に近いヤツだ……」
キールとハンクも、微妙な面持ちである。
「ところでハンク、お前、よく死んでないな?」
「死ぬわけがあるか。俺にはボナ・デアが付いていてくれる。彼女はとても素晴らしい女神だぞ」
「阿呆。ユヴェントゥスのほうがいい女神に決まってる。顔もスタイルも、美女コンテスト優勝者以上だからな! その辺の女がゴリラかオランウータンに見えるレベルだ!」
「あのなキール、そういう女性に優劣をつけるような失礼な言動は慎んだほうがいいと、前から何度も……」
「お前そんなんだからモテないんだぞ。自分の彼女には『お前が世界一の女だ』くらい言ってやれよ」
「か、彼女⁉ い、いや、その、ボナ・デアは女神であって、お、俺はただの人間だし、そういう関係では……っ!」
一瞬で茹蛸のように赤くなるハンクに、キールは意地悪く笑う。
「あれ? どうしたのかなぁ~? なんかお前、顔が赤いぞ~? んん~?」
女神たちも似たようなもので、ユヴェントゥスがニヤニヤしながらボナ・デアを小突いている。ボナ・デアはキャアキャア言いながら必死に否定しているが、誰がどう見ても、どちらもお似合いのカップルである。
何はともあれ、脅威は去った。一同はホッとした顔でロドニーのもとに降り立つ。しかし、ベイカーだけは天使たちのほうへと向かっていった。
「あちらと話をつけてくる。皆はそこにいてくれ」
天使らの戦いはマガツヒよりも先に終わっていた。残念ながら、こちらは大団円とはいかなかったらしい。
十二体の天使らに囲まれ、中央にツァドキエルとイオフィエルが倒れている。
その場の誰もが傷だらけだった。膝をつき、蹲り、地に伏し――それまでの戦闘の激しさを物語っていた。
「……浄化、出来なかったのか?」
ベイカーに声を掛けられ、天使らは悲しげに俯く。
ツァドキエルもイオフィエルも、どちらも絶命寸前だった。そしてイオフィエルの翼は、随分色は薄くなったものの、まだ白くはない。白に近い灰色。闇から救いきれなかった証拠である。
イオフィエルは、自分の顔を覗き込む男に名を尋ねる。
「……名は?」
「先ほど名乗ったはずだがな。俺は大和の軍神、タケミカヅチだ」
「いいや。神の名ではない。器の名だ」
「……サイト・ベイカーだ」
「サイト……『福音の御言葉』か。良い名をもらったな。とても古い言葉だ……」
「俺の名前など知って、どうする気だ?」
「我を食らえ」
「なに?」
「我を食らい、剣とせよ。我は世界の運命から隔絶された存在。このまま消滅すれば、天にも土にも還れぬ。だから……連れて行ってくれ。サイトの剣として、この先の未来へ」
「……食らえば、お前の自我は消滅し、能力だけが残る。それでもいいのか?」
「構わぬ。心があっても苦しいだけだ」
「別れを言いたい人間がいるのではないか?」
「いいや、いない。我の言葉を必要とする者など、どこにもいない」
「本当に? 少なくとも一人は、お前の名を口にしていたと思うのだが?」
「ああ、そうだ。そうだろうとも。だからこそ、頼む、サイト。早く我を食らってくれ。未だ消せない闇は、彼への恨みなのだ。なぜ、あのとき救ってくれなかったのかと……。今彼に会ったら、我は彼を呪ってしまう。もうこれ以上、彼を傷つけたくない……」
堕天使と化しても、イオフィエルは人間を攻撃しなかった。人間への優しさを忘れられなかった彼は、それと同じだけ、恨みも忘れられずにいたのだろう。
そしてそれは、人間のほうも同じこと。聖戦士たちはツクヨミの祝詞で罪の意識を洗われ、生前の姿に戻っていった。けれどもあの牧師だけは、イオフィエルに切られた腕を取り戻すことは無かった。
互いに、相手を思いすぎたのだ。
相手を大切に思うからこそ、恨みも、悲しみも、相手を傷つけてしまった罪の意識も、完全に消し去ることができずにいる。
察するに余りある、相反する感情の葛藤。
心を捨てたいと願うに至るまで、どれだけの苦しみがあったのか。ベイカーはもう、これ以上は何も聞くことはないと判断した。
「……分かった。では……」
ベイカーは魔剣を発動させる。
色の無い透明な光の剣。それをイオフィエルの胸の上に構え、最期を告げた。
「さらばだ、イオフィエル」
トンッ――と、軽く突き刺した。
これは光。物質的な抵抗は感じない。刺されたイオフィエルも、穏やかな顔のまま、静かに終わりの時を待つ。
光の刃に吸い上げられていく、天使としての存在のすべて。イオフィエルの能力を反映して、剣には少しずつ、少しずつ色がついていく。
その色は真珠色。角度によってほのかに色味を変える、不思議な光を放っている。
「これは……何属性の剣だ……?」
さっぱり分からない。
イオフィエルの体が消滅し、完全にベイカーの一部となったあとも、この剣の使い方が全く分からなかった。普通ならば、手にした瞬間に属性や効果を把握できるものなのだが――。
「あの……」
「ん?」
自分を取り囲む天使らが、真剣な面持ちで声を掛けてくる。
これはもしやと思いつつ、ベイカーは一応、何も気付いていないふりをする。
「なんだ?」
「私たちも、イオフィエル様と共にお連れ下さい」
「我らは元々、イオフィエル様の配下におりました」
「俺たちも、イオフィエル様と同じ未来に!」
「どうか、共に!」
「お願いします!」
「……そうか。それほど言うなら、仕方ない……」
必死に真面目な顔を保っているが、心の中ではタケ・ミカ・ヒハヤが万歳三唱をしていた。そして大和の軍神トリオは喜びのあまりトリノを胴上げしだす。神が自分の乗るべき輿を担いで「わっしょいわっしょい」叫んでいるのだから、なかなか酷いお祭り騒ぎである。
ベイカーは見事なポーカーフェイスで、十二体の天使を魔剣に変えていく。智天使に付き従っていただけあって、全員、その他の下級天使よりずっと強い力を持っていたようだ。思わぬ戦力増強に、軍神たちは謎の踊りを始める始末だ。
最後に一人残されたのは、もはや口を利くこともかなわぬツァドキエルである。
生命の樹の番人だった彼は、そもそも戦いの天使ではない。それでも無理に戦い続けた彼は、もう『死』がすぐ目の前に迫っていた。
ベイカーは彼の手を握り、確認する。
「このまま、隔絶された世界で朽ちるか? それとも共に行くか?」
ツァドキエルは、最期の力を振り絞ってベイカーの手を握り返した。
「……そうか。ならば行こう、次の世界へ……」
そうして手にしたツァドキエルの剣は、生命の樹の実と同じ、黄金色だった。
ベイカーがツァドキエルを魔剣に変えた直後である。
世界が消えた。
ほんの一瞬で空も大地も消え失せて、白一色の『無』の世界になってしまった。
「えっ⁉」
「これは……」
「なんスかここっ⁉」
全方位をくまなく見まわすが、特務部隊の面々と彼らに憑いた神以外、誰の姿も見当たらない。
聖戦士も、天使も、もうどこにもいなくて――。
「彼らは……どこに行った?」
呆然とするベイカーたちの耳に、フォルトゥーナの声が響く。
「急げ! もうこれ以上は接続を保っていられない! 早くそこから出ろ!」
「フォルトゥーナ⁉ 出ると言っても、どこから出ればいいのだ⁉」
「真上にある太陽だ! それが現実世界への出入り口になっている!」
一斉に上を見る。天地の区別なくすべてが真っ白な世界に、確かに、太陽だけは『別のもの』として存在している。だが、その高さはペガサスで飛べる高度とも思えない。
「クソ、あんな高さまでどうやって飛んだら……」
「早くしろ! あと一分ももたないぞ!」
「そんなにギリギリなのか⁉」
「サラ! お願いします!」
マルコの声に呼応して、マリンブルーの竜が出現する。サラを呼ぶと同時にマルコも《緊縛》の鎖を出現させ、神も人も関係なく、全員まとめて縛り上げている。サラはその鎖の端をくわえ、一気に天へと駆け上った。
ロケット打ち上げ時に匹敵する重力が掛かっているが、世界ごと消失することに比べたらずっとマシであろう。
特務部隊員らは肋骨と内臓に損傷を負いながらも、どうにか全員で生還を果たした。
結局、あれだけの戦いを経て戻ってきたにもかかわらず、医務室の時計はたったの十五分しか針を進めていなかった。
ボナ・デアの治療を受けて、彼らは何とか動ける状態にまで回復した。しかしロドニーだけは、マガツヒ化の影響でしばらくは目覚めそうにない。自然に回復するまで、このまま寝かせておくことになった。
人心地ついたところで、一同は、まずフォルトゥーナに説明を求めた。一連の事象を最初から最後まで、『外から客観的に』目撃できたのは彼女だけなのである。
フォルトゥーナは説明のため、胸の前で手を叩き、立体映像を創り出す。
「はじめに言っておこう。あの青い蝶は、出来損ないの神ではなかった。青龍と白虎が残した『検知器』だ」
宙に浮かんだ薄水色の卵。その卵の周りに無数の蝶が飛び、古代呪物めいたアイテムが点在している。フォルトゥーナははじめに『黄身無し卵』の話をし、それから蝶とブレスレットの説明をした。
蝶は自ら適合者を探すためのもの。触れた者が適合者なら魂を卵の内側に送り込み、適合の可能性がある者には『予備』として鱗粉を残していく。
ブレスレットは罠のように設置しておくもの。手にした者が適合者なら体に異変が起こり、そうでないなら何も起こらない。
この説明に、やはり質問が出た。
「はいはーい! 『卵の黄身』の代わりになりそうな人を感知するセンサーなら、なんですぐにマルコのところに来なかったの? ずっと中央にいたのに」
チョコの問いに、フォルトゥーナは首を横に振る。
「それは分からない。ある特定の条件を満たす者に反応するとしたら、青年は今朝まで、その条件を満たしていなかったということだろう。そしてそれは、他の誰もが同じだった。だから蝶は当て所なく彷徨っていたのだと思う」
「あら、だとするとあの蝶々、コニーちゃんとサラちゃんを間違えてたんじゃなくて……」
「『次の世界』へとつながる可能性を持つ人間を探していたのだと思う。そして選ばれたのが……」
指差されたレインは、首を傾げる。
「私にはコニラヤさんがいますよ?」
「そう、他の神の先約があった。だから蝶は諦めて、二番目に可能性がある青年に乗り換えた」
この言葉にマルコは頷く。
「はい。本命が私でないことはすぐにわかりました。あの蝶が抱えていた『絶望』……おそらくは白虎の感情でしょうけれど……あの重さは、とても私が受け止めきれる大きさではありませんでしたし……咄嗟にゲンちゃんとサラが肩代わりしてくれましたが……」
「二柱かいなければ、青年は死亡していただろうな。ここで玄武とサラがカバーに入り、回らない歯車を強引に取り込もうとした。それがきっかけとなって、青年は『卵』の中へ。そして同時にもう一つ、別の運命も繋がった」
立体映像に映し出されたのはコニラヤとツクヨミである。器への『異物』の侵入を防ぐために顕現したコニラヤは、自分と同じ属性の神と対面した。そして自分たちが同じ敵、『月天使ザラキエル』に敗北したと知った。
立体映像のコニラヤはアイボリーブラックの歯車。一切の光沢をもたない、マットな質感をしている。同じ黒でも、ツクヨミの歯車は気品を感じさせる漆器のような光沢。しかしたった一つだけ、どちらでもない歯車が混ざっている。やはり黒だが、妙にギラギラとしたラメ入りの歯車は――。
それを見た瞬間、ツクヨミは非常に嫌そうな顔をした。
「やっだわー、もーっ! これ、もしかしなくてもザラキエルでしょ~⁉」
「ああ。其方らが迷い込んだあの世界、おそらくこの歯車の影響だな。遠い昔に聞いた話では、ザラキエルには創造主の代理人として『天使を堕天させる』という役目もあるらしい。汚れ仕事ばかり任されて嫌になるとぼやかれたことがある」
「あら、もしかしてアンタたち、知り合い?」
「ご存知ないなら、ローマ帝国の興亡の経緯を説明しようか? しばらくの間、同時に信仰されていたこともあるのだが?」
「ですよねー。あーもう、だからアタシあっちの勢力って嫌なのよねー。顔なじみ同士で食らい合ってたりしてー」
「大和と違って地続きなのだ、仕方があるまい。それに、天使は悪い奴らではないぞ。真面目すぎて融通の利かない連中ではあるが……」
「そーなのよねー。天使って、大和の神みたいにフリーダムな性格の奴いないのよねー。すんごくつまんないのばっかりでぇ~」
ここでフォルトゥーナは、堕天使を救済する循環システムについて説明した。そのシステムから外れてしまったがゆえに、運命の輪から弾き出されたあの世界のことも。
「神の名は呪文のようなものだ。信仰心をもって唱えれば、それだけで身を守る盾となる。それは天使も同じこと。さて、そんな天使の名を、二柱の神が、同じ思いを込めて声に出したら?」
「はいごめんなさーい。アタシやっちゃいましたー」
「『終わりを告げる者』としてザラキエルの名を口にした瞬間から、あの世界との接続は始まっていた。そして全員分の歯車を連結させた結果、本来まったくの別物であった青年らの運命と、堕天使らの運命が繋がり、連結状態だった全員がまとめて飛ばされ……」
立体映像の中では、マルコのいた『卵の世界』と堕天使らの『隔絶された世界』、現実世界とが複雑に絡み合っていく。
だが、何かがおかしい。
現実世界のほうにも数種の歯車が残っている。
ベイカーはそれを指差して尋ねた。
「なあ、これは誰の歯車だ?」
「紫色はゼウス様、あとは取り巻きの精霊たちだな」
「……は?」
「だから、ゼウス様だ」
「……そんな有名すぎる神が、どこにいるって?」
「定時で退勤するまで青年の手当をしていたが?」
「定時……まで?」
マルコの手当をしていた、という部分をよく考え、ベイカーは小声で尋ねる。
「……まさか、ドクター?」
「看護婦たちにも、それぞれ精霊がついているぞ?」
「本当に?」
「私がお前に嘘をついてどうする」
「想定外の事態だ!」
「気付いていなかったのか? あちらはお前たちの存在に気付いて、それとなくご配慮くださっているが?」
「本当に⁉ だったら、なぜ名乗り出てくれないのだ⁉」
「サイト、よく考えてみろ。かつては『世界の主神』とされていたお方が、人間の都合でローマの神に習合され、ついには人々の信仰を失ってこちらに流されたのだぞ? いまさら『我はオリュンポス十二神の長、ゼウスであるぞ!』だなんて恥ずかしいセリフが言えるか?」
「言えんな。そんな恥ずかしいセリフが言えるのは、過去の栄光が忘れられない馬鹿な変態だけだ」
「だろう? どこかの馬鹿な変態以外、絶対に言わない。それでもあのお方はこっそり力をお貸しくださるようだから、こちらも、可能な限りさりげなく接するべきだと思う」
「分かった。さりげなく、だな?」
「くれぐれも『ゼウスさーん』なんて気さくに声を掛けるなよ。皆も、分かったな?」
フォルトゥーナの鋭い眼光に、一同無言で頷く。
「あと一つ、皆に大切な話をしておきたい」
「なんだ?」
「タケミカヅチが天使を食らったことで、我々の運命と『あちら』の運命とが完全に繋がった。世界のホワイトアウトは天使長ミカエルの介入によるものだ。脱出までの猶予がほぼ無かったことからも、だいたい分かると思うが……天使長殿はひどくご立腹のご様子だ」
「本人たちが『食え』と言うから食ったのに……」
「ああ、それは天使長殿もお分かりだ。だからこそ、猶予を下さったのだろう。かろうじて逃れることは出来るが、ほどほどに痛い目を見るしかない絶妙な時限設定で」
「意地の悪い奴だな」
「まあそう言うな。ミカエルの同胞を闇堕ちの苦痛から救ったことも、その手段として食らってしまったことも、どちらも事実なのだから」
「どうもありがとうこのクソ野郎、死なない程度に苦しみやがれ……という熱烈なメッセージを感じるな」
「理知的で聡明な天使長殿だから、この程度で済んだのだぞ? 他の天使と遭遇したら、即時交戦状態に突入すると思え。サイトだけではなく、ここにいる全員、人も、神も、精霊も神獣も、すべてがその対象だ。サイトの仲間という時点で、彼らの怒りの矛先が向けられる可能性がある。これから先、天使にだけは絶対に近付くな」
「だそうだ。みんな、羽の生えたやつに遭遇したらとにかく逃げろ。いいな?」
一同、神妙な面持ちで頷く。
ああする以外に、イオフィエルを救う方法は無かった。その事実を頭で理解できたとしても、心では素直に受け入れることはできないだろう。結果的に彼らは仲間を失ったのだ。別れを告げることも出来ぬまま他の神族に『食われた』という事実は、天使たちの心情に少なからず影響を与えているはずである。
重苦しい空気の中、マルコが遠慮がちに手を挙げた。
「フォルトゥーナさん。あの世界にいた他の天使たちと、聖戦士の皆さんはどうしたのでしょうか? 世界と一緒に、消されてしまったのでしょうか……?」
フォルトゥーナは優しい顔で首を横に振る。
「天使も人間も、天使長殿に回収され、創造主の下へと召された。皆、今は苦しみの無い場所にいる」
「そう……ですか。良かった。では、彼らは救われたのですね」
「ああ。彼らはもう『隔絶された世界』の住人ではない。運命の輪の中に戻されたよ」
その言葉に、心底嬉しそうに微笑むマルコ。そんなマルコの様子に、誰もが勇気づけられた。
現実世界ではたった十五分の出来事。そのわずかな時間で、確かに自分たちは、彼らを救えたのだ。あの世界のことを知らない『外の天使たち』が自分たちを憎み、嫌ったとしても、あの場で起こった『事実』は変わらない。
特務のムードメイカー、ゴヤが明るい声で言う。
「ま、世の中なんてそんなもんッスよ! 出会ってすぐ仲良くできる奴も、そうじゃない奴もいるんスから! 今すぐは無理でも、そのうち仲良くできますって! 明日は明日の風が吹くってやつッスね!」
このセリフに、マルコは「あっ!」と声を上げる。
「ゴヤッチ! サラとゲンちゃんに変な言葉を教えているのはゴヤッチでしょう⁉ なんですか『養鶏場コント』って! うちの子たちに妙な知識ばかり与えないでください!」
「ええっ⁉ なんで知って……ちょっとゲンちゃん! 内緒って言ったじゃないッスか⁉」
「えへへ、ごめんねゴヤッチ。マルコに言っちゃった……」
「だいたいゴヤッチは就業規則を何だと思っているのですか! この前オフィスに連絡しても誰も通信に出なかったのは、ラジオコントを聴いていたからですね⁉」
「あーっ! ごめん! ごめんなさーい! だからマルちゃん、やめて! ここでそれは……」
いまさら慌ててみても手遅れである。ゴヤの両肩を、ベイカーとグレナシンがガッシリ掴んでいる。
「お前、何日か前も内線に出なかったよな? 本当に便所だったのか? ん?」
「ちょお~っとオネエサンたちに詳しいお話聞かせてもらえるかしらぁ~ん?」
「や、その、えっと……じゃあチョコはどうなんスかぁ~! あいつも、いつもヘッドホンして……」
「内線には絶対に出る。総務からもチョコ宛ての苦情は来ていない」
「あの子、ああ見えてやることはちゃんとやってるのよ」
「規則違反に加えて言い訳、仲間の揚げ足取り。懲罰対象だな」
「坊主とお尻百叩きと背中に張り紙、どれがいいかしら?」
「ボ、ボボ、ボウズ以外で! ここまで伸ばすの超時間かかったんスよ!」
「あらそう? じゃあ張り紙一週間の刑でいこうかしら」
「あれが一番堪えるからな、精神的に」
隊長、副隊長に必死に平謝りしているゴヤ。「だからやめろと言ったのに」とあきれるキール、ハンク。興味が無さそうなトニーに、指をさして馬鹿笑いしているチョコ。そのチョコを「笑いすぎですよ!」といさめるレイン。
いつもの光景に、つい数秒前まで怒っていたマルコも思わず吹き出した。
つられて全員笑い出す。
笑いの大合唱に包まれた医務室。問題はすべて解決済み。誰か一人残して、彼らは宿舎に戻ってもよかった。けれども、誰一人としてこの場を離れようとはしない。
誰かが言い出したわけではない。ただ、全員で待ちたいと思ったのだ。
この輪の中にいるべき大切な仲間、ロドニーの目覚めを。




