そらのそこのくに せかいのおわり 〈Vol,05 / Chapter 06〉
医務室のベッドの上で、マルコは必死に戦っていた。
彼の戦場は、不完全な神の、その精神世界の中だった。
「お願いします! 答えてください! 貴方は……貴方の本体はどこです⁉ 貴方はいったい、どこにいるというのですか⁉」
青龍の卵の中に似た、青と白の世界。ただしそれは、海と白砂ではない。
そこに広がるのは、抜けるような青空と、新雪の平原である。
青龍と同じだった。いくら呼んでも誰も答えないし、何もない。けれどもここは、青龍の世界とは明らかに異なっていた。
ここには音が無い。
波の音は聞こえない。風もなく、自分の声が反響する物もない。ふと口をつぐめば、そこにあるのは完全なる無音の世界。マルコの心身に流れ込むのは、気が狂うような虚無感と、身を切るような寒さである。
孤独の海と、虚無の雪原。いずれが過酷かと問われれば、こちらだと答えるに決まっている。
一切の生物を拒むような、美しすぎる極寒の世界。
こんな場所で、人間が活動していられるはずもない。マルコの体はすっかり冷え切って、もう、手足の感覚すらなくなっていた。
「……お願いします。答えて……答えて、ください……」
青龍のときは、何を望み、何を求めて卵の中に閉じこもっていたのか、マルコにも理解できた。相手の気持ちを理解して、呼びかけて――そして青龍は、それに答えてくれた。だが、この相手はそのきっかけさえつかめない。そもそも、この神に心があるのかも分からない。いや、心以前に、生まれた時点から『不完全』だったのだ。もしかしたら、他の神と同じような体も持っていないのかもしれない。
「……おねがい、します……」
この神に、声は届かないのだろうか。聞き取る耳が無いのか、それとも、聞こえてはいても、声を発する手段を持たないのか。
この相手と、コミュニケーションを取ることは不可能なのかもしれない。そう考え始めていたマルコだが、それでも必死に呼びかけを続けた。
あまりの寒さに唇が割れた。
自分の吐息が目の前で凍る。
まつ毛や前髪に氷の粒が付着する。
寒すぎて、全身が痛い。
ついに立っていられなくなって、マルコはその場にうずくまる。
もう駄目だと折れかけた心で、マルコは俯き――その瞬間に気付いた。
青龍の世界と、違う。
ハッとした顔で真上を見上げる。
そこに輝くのは太陽である。
もう一度自分の足元を見ると、そこには確かに、黒々と、はっきりとした影がある。
光がある。闇もある。大きく開けた空も、広大な地面もある。今は凍っているが、ここには豊かな水もある。世界に必要なものはおおむね揃っているのだ。ここに不足しているものは何かと考えて、すぐに思い至った。
それは熱である。
マルコは魔法を使った。
ここは神の精神世界。人間の魔法など使用できないものと思い込んでいたが、意外にも、マルコの魔法は発動した。
火炎系魔法の初歩中の初歩、《火種》。マルコはそれを、恐る恐る、足元の雪に近付ける。
「あっ! 溶けた!」
この世界には、現実世界と同等の物理法則が作用している。それならば、人間のマルコでも『世界を作り替える』ことは可能なはずである。
熱の無い世界に、熱を生み出すことができれば――マルコは自身が使用可能な魔法について考える。
炎の魔法は使えるが、中級まで。火炎放射器のような使い方も可能だとは思うが、消耗が激しい。
水の魔法で雪を解かそうかとも思ったが、溶けるどころか、氷がより強固になるだけかもしれない。
風や土、回復、防御の魔法ははじめから役に立ちそうにない。
マルコはもう一度空を見上げ、小さく頷く。
「よし……《魔鏡の迷宮》、発動!」
魔法を撥ね返す防御系魔法、《魔鏡》。これはその魔鏡を同時に六百六十六枚展開する高難度魔法である。
魔鏡は術者の調整次第で平面にも曲面にもできる。うまく操作すれば、厚みや反射角も自在に変えることも可能だ。術者の腕次第でいくらでも使い方をアレンジできる、『やりこみ要素』の高い魔法なのだ。
しかし何よりも肝心なことは、この魔鏡が『透明である』ということ。
マルコが思い出したのは、子供のころに習った凸レンズの特性である。虫眼鏡で光を集めて火をつける実験。それをマルコは、魔鏡で再現しようというのだ。
この世界の太陽は、あまりにも弱々しい。そのままではまったく熱を感じられないほどだ。だがそんな光でも、一点に集束させれば、少しは熱源として使えるのではないか。マルコはそう考えたのだが――。
「うわ! あっ、あつ……っ!」
想像以上である。自分のすぐ隣の地面に光を集めたら、雪が解け、土がむき出しになった。光を照射した箇所は、ほんの一秒足らずですっかり焼け焦げてしまった。レーザー兵器級の破壊力である。
「さ、さすがに六百六十六枚は、少々やりすぎましたね……」
もしもここにロドニーがいたら、「あたりまえだっつーの!」とツッコミを入れているところである。
マルコは魔鏡の数と角度を調整し、もっと小分けに、広い範囲の雪を同時に溶解していく。この世界に風はない。雪さえなくなってしまえば、寒さは幾分か和らぐはずである。
開始から五分足らずで、周囲三十メートルほどの雪は消すことができた。すると、剥き出しの土の一部がもごもごと動いている。
「あっ!」
ようやくこの世界の神に出会えた!
そう思って掘り起こして、マルコは素っ頓狂な声を上げてしまった。
「ええっ⁉ ゲ、ゲンちゃん⁉ なんでここに⁉」
玄武は体を震わせて土を払いながら、マルコの問いに答える。
「フォルトゥーナの歯車でしっかり繋がってたから、一緒に入れたみたい。でも、ボクは土のあるところにしか顕現できないから。マルコ、この辺、穴掘って! お池作ってあげないと、サラが顕現できないよ!」
「あ、はい!」
マルコは《緊縛》の鎖を操り、あっという間に直径・深さともに一メートルほどの穴を掘って見せた。
先ほど溶かした雪のおかげで、土中の水分量は飽和状態にある。穴を掘っただけでどんどん水が染み出し、あっという間に小さな池が出来上がってしまった。
しばらくして泥が沈み、水が澄んできた。すると突然、水中にサラが出現した。
マルコを見て口をパクパクさせている。音にはならないが、「ありがとう」と言っているのだと理解できた。
「いえ、どういたしまして。ええと……二人が来て下さったことはとても心強いのですが……これから、どうしたらいいと思いますか?」
「えー、分かんないよそんなのー。マルコはどうしたいの? 何しようとしてたの?」
「私は……」
マルコは広大な雪原と剥き出しになった土の地面を見て、少し考えてから答えた。
「こんなに寒くて寂しい世界は嫌なのです。もっと暖かくて、木や草花が生えていて……生き物の気配で溢れた、賑やかな世界にしたいと思いまして……そう、たとえば……」
「たとえば?」
「ゲンちゃんの心の中で見た、最高に綺麗だったころの地球のような」
マルコの言葉に、玄武は嬉しそうに目を細めて頷いた。
「いいよ! やろう! 見ててよ! これでもボク、大陸を創ったカミサマなんだから!」
サラはよくわかっていない様子だが、マルコの次の言葉でその気になった。
「きれいな湖と、たくさんのお魚、水草や貝や、カニやエビも欲しいと思います!」
サラはピチャンと跳ねたあと、池の中をくるくると泳ぎ回り、水草や小魚を創り出していく。
「ええっ⁉ す、すごい! すごいですね、サラ! もうメダカが⁉」
「あーっ! ボクだって負けないもんっ!」
玄武がのこのこと歩いていくと、その足跡から、次々と草花が芽生えていく。
「わ! 可愛い! ちっちゃい芽がいっぱい……」
「おおきくな~れ! おおきくな~れ!」
玄武がそう言うたび、芽はぐんぐん成長し、茎を伸ばし、葉を茂らせ、蕾をつけていった。そしてその花が一斉に開花し、種をつけ――。
「……うわぁ……」
一つの草から数十、数百の種子が落ち、次の世代につながっていく。代を重ねるごとに少しずつ進化し、枝分かれし、異なる種となっていき――大きな木になるものもあった。色とりどりの花を咲かせるものもあった。甘い香りの実をつけるものも、奇妙な形状の蔓を這わせていくものも――ありとあらゆる植物に、あっという間に進化する。まるで世界の誕生を早回しで見ているような、不思議な光景である。
植物の生命活動により、地表面は少しずつ暖かくなっていく。雪原は徐々に草原へ、草原は林へ、林はさらに密度と高さを増して巨大な森へ。
それと同時に、サラもどんどん世界を作り変えていった。
雪解け水が地面を侵食し、高低差を作り、低地に溜まって湖になった。地下で地面を侵食していた水は大地を次々と陥没させ、小さな池を量産していく。
すべての池と湖から魚類が、両生類が、爬虫類が発生していく。
マルコが近くの池を覗き込むと、タガメのような生き物と目が合った。
「昆虫もいるのですね!」
青い金魚のような魚が、「どうだすごいだろう!」と胸を張っている。
「あれ? サラも、ちょっと育っていませんか?」
言われて初めて気が付いたらしい。サラはクルクルと回り、自分のサイズを確かめている。
「あ! ホントだ! サラ、おっきくなってる!」
玄武に言われ、サラは嬉しそうにピチャンピチャンと跳ねる。
実に愛らしいカミサマたちに、マルコの表情も自然と柔らかくなっていく。
「二人ともすごいですよ! こんな素敵な世界を、あっという間に創ってしまうなんて!」
「へへんっ! なんたって、二度目だもんね!」
サラも得意げな様子である。だが、マルコは本来の目的を忘れているわけではない。
「では、環境も整ったことですし……改めて、この世界の『神』を御呼びしましょうか?」
「でも……その子、名前が無いんだよね?」
「はい。ですから、どう呼びかけたら良いものか……?」
「ん~……あのさぁ、もしかして、そのカミサマ、卵の中身が無かったんじゃないかな?」
「……中身?」
「うん。たまに、鳥の卵でもあるんでしょ? 黄身が無くて、殻と白身だけの」
「え⁉ そんな卵があるのですか? 見たことがありませんが……」
「マルコが見たことある卵って、食用として売ってるやつでしょ? 中身が無いのは売り物にならなくて、出荷場の検品ではじかれてるんだよ?」
「出荷場の検品……ゲンちゃん、いつの間にそんな単語を……」
「オフィスでゴヤッチと一緒のとき、ずっとラジオ聴いてるの。ウィル&チャンプマンってお笑いコンビの、養鶏場コントで覚えたんだよ! 中身がないヤツをタダでもらってきて、超レア卵って言って貴族に高値で売るの! すごく面白いんだよ!」
「養鶏場コント……ゴヤッチ、また勤務時間中にラジオコントを……規則で禁止されているのに……」
子供が他所でくだらない言葉を覚えてしまったときの親の気持ちとは、このようなものであろうか。妙な脱力感によろけながらも、マルコは話の筋を戻す。
「あの、中身が無いと思った根拠は……?」
「えーっとね、ここ、カミサマの気配が無いの」
「え?」
「誰もいないなー、ってわかるの。だから、もしかしたら……あの蝶々自体はカミサマとかじゃなくて、青龍と白虎が後から作った別のモノかも。中身の入ってない卵だけど、諦めきれなくて……」
「と、すると……あの蝶は卵を……この世界を守るための、警備兵でしょうか?」
「んー……たぶん、違うかも」
「違う?」
「うん、違うと思う。白虎は、このままじゃ生まれないってわかってたはずだもん。だから、守っても意味がない。卵自体にはカミサマの気配がないから、誰にも見つけられないし……」
「ならば、なぜ……?」
「生まれるようにしたかったんだと思う。自分の代わりに、新しい命を吹き込んでくれる誰かを探そうとして……それで、蝶々を用意してたんじゃないかな?」
「新しい命が生まれるように……? しかし、この卵には中身が……」
何もない――そう言おうとして、ハッとした。
今、目の前にあふれる豊かな緑。飛び交う小さな虫、泳ぐ魚、地を這う爬虫類――『何もない』とは言えない。この世界には今、人類出現前、生物進化の過渡期のすべてが詰まっている。
「……私、ひょっとして……」
この世界に決定的に足りないもの、『熱』を見つけて、与えてしまった。
それが命を吹き込むことになるのなら――。
「白虎は絶望してたみたいだし……たぶん、もう、新しい命なんて何もイメージできなかったんだよ。青龍が卵を……『命の海』を用意してくれても、中身を入れてあげることができなかったんだと思う。でも今、キミがそれを代行した。それって、どういうことだかわかる?」
マルコはごくりと唾をのむ。
自分はとんでもないことをした。これはおそらく、人がおこなってはいけない領域の所業だ。
「私は……何か、とてもまずいことをした気がします……」
蒼褪めるマルコに、玄武はゆっくり首を振ってみせる。
「全然。まずくないし、間違ってないよ。マルコ、キミがやったのは、『朱雀』と『白虎』がやるはずだったこと。もうこの世にいないカミサマの代行。やっぱりそうだ。これで証明された。マルコ、キミは、システムの更新ができる」
「システムの更新……ですか?」
「うん。オオカミナオシは修正と削除しかできない。世界の最初からずっと、要らないものを消し続けてる。でも消しっぱなしじゃ、どんどん足りなくなっていっちゃう。でしょ?」
「え、ええ……そうですね。古くなった備品を捨てたら、代わりの物を買い足さないと仕事ができませんし……そういう理解で合っているでしょうか?」
「うん、そうそう、そんな感じ。多分マルコは、その、代わりの物を用意できる人なんだと思う」
「えっ⁉ だって、その……神様ですよね⁉」
「うん、神様だよ」
「どこで調達するというのです⁉」
「どこだろう? ケースバイケースっていうヤツだと思う。大丈夫、明日は明日の風が吹くってやつさ、兄弟!」
「……その言葉も、ウィル&チャンプマンですか?」
「うん! ゴヤッチに使い方教えてもらったの! あってるでしょ?」
「ええ、間違ってはいませんが、勤務時間中のラジオコントは……あー、もう……こうなったら、私も一度聴いてみようかな……」
真面目な王子を投げやりにさせるという驚異的な破壊力を発揮した玄武は、マルコの足の甲に前足を乗せる。『抱っこ』を要求するサインである。
マルコが玄武を抱き上げると、足元の池でサラもピチョピチョと水音を立て始めた。
「サラも抱っこだって!」
「え、抱っこ、と言われましても……」
魚を水から出して大丈夫なのかと心配しかけたが、よくよく考えてみれば、これは魚ではなく神である。マルコは左手でサラを掬い上げ、そのまま胸元まで持ち上げる。
花嫁も迎えていないのに、すっかりパパのような気分になってしまう。
「マルコ、宣言して。この世界の所有権は~、って言った後に名前を言って、自分に所有権があることを言霊で示して。多分それで、自由に出入りできるようになるよ。ボクが生まれたときもそうだったから」
「あの、良いのでしょうか。私は人間なのに……」
「いいんだよ。だってここ、所有者いないし」
「は、はあ……では……」
マルコは呼吸を整えてから、はっきりと宣言する。
「この世界の所有権は、私、マルコ・ファレル・アスタルテに帰属するものとする!」
その瞬間、世界が光った。
「えっ⁉」
「わあ!」
天頂の太陽から降り注ぐ、透明な光。
眩しいのに、目は痛くない。柔らかく世界を包むその光の中で、マルコは確かに、何かの声を聞いた。
救え。それが其方の『役割』だ――。
一瞬のホワイトアウトの後、マルコは自分が別の場所に飛ばされたことに気付いた。
「ここは……?」
澱んだ大気に満たされた、薄暗い世界。そこは今まさにベイカーらが戦闘中の、あの世界であった。
ただし、場所はずいぶんと離れている。
マルコが出現したのは、ベイカーらが見た廃墟のビルの中。その最上階のエレベーターホールに立っている。
ビルの中心部分であるため、窓はひとつもない。本来ならば真っ暗で何も見えないはずなのだが――。
「……私、ひょっとして光ってません?」
右手で抱いた玄武、左手に乗せたサラが同時に頷いた。
「マルコも主さまから役割をもらったんだよ。人間なのにもらえるなんて、すごく珍しいと思う!」
「そうなのですか? ところで、ここはどこでしょうね……?」
マルコは恐る恐る、廊下を進んでいく。せめて外の状況が分かる場所まで出たいと思ったのだが、残念ながら、どの扉も鍵がかかっていた。
「どこにも行けないようですね……」
「あ、あそこ! ドアないよ!」
そう言って玄武が指し示した場所に足を踏み入れてみるも――。
「……トイレですね」
「うん! 別のとこ行こう!」
玄武はそう言うが、マルコは何かが引っ掛かった。少し無理のある体勢になるが、右腕で玄武をしっかりと抱え、左手の手のひらから右手の手のひらへサラを乗せ換える。
「あれ? どうしたの?」
「いえ、洗面台が妙に綺麗だと思いまして……」
廊下にもトイレの床にも砂埃のようなものが積もっている。一見して使用されていない建物のようなのに、洗面台の内側だけは埃がない。頻繁に水を流している様子が見て取れる。
左手で蛇口をひねってみると、水が出た。しかしこの水は、どことなく黒く、何かに汚染されているような嫌なにおいがする。
「……やはり、ここは誰かいますね……」
「誰か? でも、人間もカミサマも、何の気配もないけど……」
「サラも、何も感じませんか?」
手のひらのサラは、小刻みに頷いている。
マルコは首を傾げながら辺りを見回す。
自国の物とは多少形状が異なるが、小用便器と個室がそれぞれ五つずつ。男子トイレでこれだけの数があるということは、数十人規模の職場か学校である。それが廃屋同然の状態になっているのに、手洗い場だけ、ごく最近使用した形跡がある。普通に考えられる可能性は、管理人がたまに見回りに来るか、ホームレスが勝手に住み着いているかだが――。
「まさか、廃屋で行き倒れたホームレスの人命救助が使命ではありませんよね……?」
「え? なにが? マルコ、主さまになんて言われたの?」
「あれ? 聞こえていなかったのですか?」
「うん、何にも」
「ええと……救え。それが其方の『役割』だ……と、告げられました」
「そうなの? 救うって……あれ? じゃあ、システム更新じゃないのかな? でも、そんな気がするんだけど……?」
ウンウン唸って考え込んでいる玄武を優しく撫でて、マルコはトイレを出た。
すべての扉が開かない以上、どこかへ進むには、少々荒っぽい手段に訴えるしかない。
「こういうのは、ロドニーさんの得意技なんですが……」
おそらく一番大きな部屋に通じているであろう、立派な二枚扉。マルコはその扉の前で弱めの《衝撃波》を放つ。
魔法防御が施されていない扉は、いともたやすく弾け飛んだ。
「……ん?」
てっきりオフィスか学校だと思っていたのに、そこに広がっている空間は予想と違っていた。
「……ここは……温室……でしょうか?」
窓から差し込む薄暗い光に、植物のシルエットが浮き上がっている。マルコはそれを、逆光だから黒く見えているのだと思ってしまった。
しかしそうでないことは、室内に足を踏み入れてすぐ理解した。
「……幹も、葉も、真っ黒な植物……?」
「マルコ! これ、触っちゃだめだよ! なんか、すごく嫌な感じがする!」
「はい……私も、そう思います……」
とても大きな部屋だった。学校の教室だったら、一体いくつ納まってしまうだろう。壁の無いオープンな空間に、真っ黒な植物が植えられたプランターが整然と並ぶ。
キョロキョロと室内を見回し、マルコは金属製のジョウロを見つけた。近づいてみると、ジョウロの中にはほんの少し、水が残っていた。
「……なるほど。水道は、このために……」
ジョウロの置かれた床は、湿っているのがはっきりと分かる。おそらく、これがこの場所に置かれてからそんなに時間は経過していない。
「勝手にお邪魔してしまい、申し訳ありません! どなたか、いらっしゃいませんか?」
廊下を進んでいた時にも、散々声を掛けた。ノックもしたし、扉の横の呼び鈴らしきボタンも一通り押した。それでも誰も答えなかったのだ。留守だろうとは思っていたが、マルコは一応、声を掛けてみた。
あくまでも一応、だ。答えなど、期待していなかったのに――。
「やあ。いらっしゃい……」
「!」
マルコは驚きのあまり、心臓が止まったかと思った。
玄武とサラも、大慌てで周りを見回している。しかし、声の主がどこにいるのか分からない。
複数個所から同時に声がした。それだけは間違いない。
「あの……失礼ですが、貴方は、どちらに……?」
もう一度呼びかけると、「ここだよ」と返事があった。今度ははっきりと、声の発生源を掴むことができた。
声がするのは、プランターの中だ。
薄暗くて、木の根元までよく見えていなかった。マルコはまさかと思いつつも、恐々と覗き込む。
「……ひっ⁉」
そこにあったのは人の頭部だった。
腐ってはいない。たった今切断されたばかりのような生首が、眼窩から黒い植物を生やしている。
その生首たちが、胡乱な表情で口を利く。
「君は、誰だい? 君も聖戦士? 誰と一緒に堕ちたの? 名前は?」
「あ、あの……マルコ・ファレルと申します……」
「マルコ? いい名前だね。聖書記者の聖マルコと同じ名前だ」
すべてのプランターから、それぞれ異なる声で全く同時に声が聞こえる。
プランター一つに一つずつ人の生首が収められていて、それらを同時に操作している何者かがいるのだろう。
「その……貴方は……?」
問われた相手は、のんびりとした口調で答える。
「ツァドキエル。生命の樹の番人さ」
「生命の……樹?」
「ああ、そうだよ。僕は今も昔も、ずっと生命の樹の番人。僕は自分の仕事に誇りを持っているからね。君は見たところ、まだ命を持っているようだね? 一緒に堕ちてきた天使はどこだい?」
「……いえ、私は、天使と一緒にここに来たわけでは……」
「おや? ひとりかい? それはずいぶんと悲しいね。みんな、自分の一番好きな人間のところに行って道連れにするのに。人間だけが先に堕ちてしまうなんて……」
「あの……違います。私は、そのような事情で来たわけではありません。私は創造主から『役割』を与えられ、ここに来ました。創造主は……」
私に「救え」と告げられました――そう続けようとした。だが、二回目に創造主と口にしたとき、マルコの体は後方に弾き飛ばされていた。
「創造主⁉ 役割⁉ くそったれ! ああ! 最悪だ! 聞きたくもない! 死ね! お前もすぐに死ね! そして僕の楽園の一部になれぇぇぇーっ!」
目の前に迫る黒い影に対し、マルコは必死で防壁を張る。玄武もマルコを守るように光を放つが、玄武の光は黒に近い濃緑色。闇と創世、雨と地と癒しと防御という、少々特殊な組み合わせの属性を持っている。堕天使の攻撃を退けるには、圧倒的に『明るさ』が足りない。
「うぐっ……くっ……」
防壁の上から殴られているのに、人間同士の戦いで直に殴られるのと変わらない打撃を受けていた。それも、人間の感覚器官では知覚不可能な速度の連打である。防壁を張るために突き出した両腕は、殴られ過ぎて感覚をなくし始めている。
「マルコ! ボクとの接続を切って! サラならもっときれいに光れるから!」
「分かりました! では……玄武、接続解除! サラとの接続を確立する!」
マルコの宣言と同時に、室内に青い閃光が奔った。
この光に、今度は堕天使が弾き飛ばされる。生い茂る黒い植物をバキバキとへし折りながら、優に十メートルは飛んだだろうか。その間にサラは優美な竜の姿になり、マルコに絡みつくように光の防御網を構築していく。
「サラ! プランターの中に光を! まずはあの亡骸を浄化します!」
人の死体をもてあそぶなど、到底許されることではない。マルコはなにより、生首にされた人々の尊厳を取り戻したいと思った。
死者への救済。この思いに呼応して、マルコの体から透明な光が溢れ出た。そしてそれはサラへと流れ込み、サラの力を数倍に引き上げる。
竜が啼く。
人の耳には聞こえない超音波に、黒い樹は共振し、枝葉の先からボロボロと崩壊していった。
そしてその根元、プランターの中には、サラの周囲から湧き出る青い光の球体が投げ込まれていく。サラが体をくねらせるたびに、光の玉がポンポンと弾き飛ばされ――。
「やめろ! やめてくれ! 僕の……僕の楽園を壊さないでくれ! 僕に、もう一度楽園の終わりを見せる気か! ここは僕の……僕の……うわあああぁぁぁーーーっ!」
起き上がった堕天使が、マルコに向かって突進してきた。
全身を黒い霧で隠したその姿に、マルコは恐怖を覚えなかった。
感じたものは哀れみである。
「《緊縛》!」
対人魔法で堕天使を縛れるものだろうか。自分でも疑問に思いながらの発動だったが、出現した鎖も、マルコ本人と同じ透明な光で覆われていた。
鎖は霧の向こうの本体に絡みつき、きつく締めあげる。
「ギャアアアアアァァァァァーッ!」
光に触れた箇所から、少しずつ闇が中和されていくようだ。だがマルコ本人には、堕天使を一気に浄化してやれるだけの力がない。堕天使の動きを封じて、闇を薄めて、あとのことはサラに任せる。そういう戦い方しかできない。
「サラ、ごめんなさい。私には、あなたを頼ることしかできません」
青い球体を飛ばしながら、サラは爪の先で、マルコの後頭部をコツンと叩く。
水臭いことは言いっこなしだぜ、兄弟!
マルコの体内の水分を振動させて、文字通り言葉を『響かせる』。このコミュニケーション方法は、水を統べるサラ特有のものである。
「あの……サラ? もしや、それもウィル&チャンプマン……」
サラはもう一度、マルコに触れる。
言葉、いっぱい覚えたよ! すごいでしょ!
「あ、はい。すごい……とは思いますが……」
その優美な姿で中年男性の口調を真似るのだけはやめてくれ、と思ったマルコである。
鼓膜でも脳でもなく、体いっぱいに響く柔らかな声。サラはこれを、プランターの中の生首にも送り込んでいた。
「サラ? あの人たちは、もう首を斬られて……」
死者に声は届かない。そう教えようとしたマルコだが、サラは首を横に振る。
「え?」
届いている。
サラの声は、確かに聖戦士たちのもとにまで届けられていた。
グレナシンとレインとチョコが防御陣を張った内側で、何もできずに守られるだけの、無力な彼らの魂に。
それまでじっとしているだけだった彼らは、唐突に顔を上げた。
全員が一斉に、あのビルのほうを振り向く。
「……解放……された?」
「ツァドキエルの『根』が……枯れた?」
「この声は誰? 主でも、天使でもないのに……」
「聞こえる……すごく、綺麗な声……」
「戻れるの? 元の、私に……」
聖戦士たちの霊体が、一人、また一人と光を纏っていく。マルコと同じ、色の無い透明な光。
突然の展開に驚く三人と三柱であったが、透明な光を見たツクヨミは、思わず独り言を漏らした。
「まさか……全員が、天皇家クラスの依り代……?」
コニラヤとヤム・カァシュも、それぞれの王国の、最高位のシャーマンを思い出していた。
「……なつかしい……この、ひかり……」
「んだなぁ。おらの声、ちゃんと聞いてくれたんは、あのお人だけだったからにー……」
神が神として存在するために最も必要なもの、それは『信者』の存在だ。その中でも、神に縋りつくばかりではなく、自ら立ち上がることを選んだ者は別格だった。彼らは与えられた加護によって己を磨き、より洗練された『信仰』を神に返してくれる。力が高まった神は新たな『光』を得て、人間にさらなる加護を与えてゆく。どこの神にとっても、最高位のシャーマンは互いに能力を高め合っていける、最高のパートナーだったのだ。
今は堕天使と化したあの天使らにとっては、この人々が『最高のパートナー』であったのだろう。
ツクヨミ、コニラヤ、ヤム・カァシュは、三人がかりで張った防御結界の外に目をやった。
そこでは今、天使と堕天使が戦っている。
ゴヤの《鬼火》で浄化された天使は、ただ闇を消されただけである。体内には活動できるだけのエネルギーがない。一歩も動けないまま、ただじっとうずくまっている。
しかし、ハンクとボナ・デアによって浄化された天使は別だ。ボナ・デアは癒しの女神。女神の光で浄化された九十九体の天使たちは、闇の消滅と同時に完全回復していた。この世界に残る堕天使は彼らとほぼ同数。天使たちは、迷わず堕天使たちに向かっていった。
光の弓、光の剣、光の杖、光の鞭――手にした武器だけでは、それぞれの天使が何を司っていたのかは分からない。だが、これだけは分かる。
彼らは、いまだ闇の中にある仲間を救おうとしている。
闇の矢を、闇の刃を、闇の触手を掻い潜り、堕天使の心に必死に呼びかけている。
「……おら、応援するだ!」
突然宣言したトウモロコシの神に、攻撃能力を持たない月の神二柱が尋ねる。
「おうえん、なにする?」
「闇じゃ闇は祓えないし、トウモロコシじゃおやつにしかならないわよ?」
「んだ! だから、おら、歌うだ! 畑男の仕事歌、人間を元気にする歌だ! あの人たちさ元気にすたら、相方の天使さんも、もっと強くなるにちげえねえだ!」
「あ! そっか! そうよね! それだったらアタシも邪気払いの清めの祝詞、読み上げられるわ!」
「うたえないけど、ぼうへき、いじ、できる。ふたりとも、ぜんりょく、だす」
「ありがとコニーちゃん! やるわよヤムちゃん!」
「んだす!」
ツクヨミは不意に気配を変えた。
あたりにふわりと漂う月桂樹の香り。爽やかなその香りの中で、凛とした声で祝詞を読み上げ始める。
声でありながら、言葉と認識できない不思議な節回し。歌のようでいて、歌ではない。はるか古代の大和の言霊による、静かで、それでいて雄々しい邪気祓いの祝詞。
効果は絶大だった。
死したその瞬間の姿の聖戦士たちが、一人、また一人と、本来の健康な姿に戻っていく。
彼らは霊体。心の内に抱えた負い目や罪の意識が、彼ら自身の姿かたちを作り出している。ツクヨミの祝詞は、彼らの心に巣食うそれらの『邪気』を祓い清めていった。
「負けてらんねえっぺヨォ!」
ヤム・カァシュはチョコの体からスポンと抜け出し、顔を見合わせ頷き合う。
同時に歌い出した仕事歌は、手拍子と声だけで演奏される、最もシンプルな音楽である。どこの国の音楽と言われても納得してしまいそうな、単調で、それでいて懐かしいメロディー。これは人類が初めて農耕を開始したころから脈々と歌い継がれてきた、『音楽』のアーキタイプだった。
記憶領域を共有する依り代と神は、完全なシンクロニティを見せた。二人がかりでひとつの旋律を、少しのズレもなく歌い上げる。
この『懐かしい歌』は、聖戦士たちに『光』をもたらしていた。
彼らは長く闇の世界に囚われて、その目からは、すっかり希望の光が失われていた。だがヤム・カァシュの歌を聞くうち、少しずつ勇気が湧いてきたようだ。
両腕の無い牧師が立ち上がって呼びかけた。
「祈りましょう! 祈れば、きっと……いいえ! 必ず! 私たちは、すべての闇に打ち勝てるでしょう!」
牧師の声を聞き、聖戦士たちは十字を切り、胸の前で手を組み合わせていく。だが、一人の女性が言った。
「違う! そうじゃない! 一人で祈っても、私たちは彼らを救えなかった! 結局ここに堕ちてしまったわ! だけど今は、聖戦士たちがこんなに大勢、みんなで一緒にいるのよ⁉ 重ね合わせるべきものは、自分の右手と左手じゃない! 自分の右手と、隣人の左手! 隣人の右手と、自分の左手! 今こそ、みんなで手を取り合うべき時なのよ!」
誰もがハッとした顔で、自分の手を見た。そしておずおずと手を伸ばし、隣にいる人と手を取り合っていく。
手を繋いだ瞬間、誰もが驚き、その目を見張る。
触れ合う手と手の温もりを、自分はいつから忘れていたのだろうと。
巨大な一つの輪ができた。その中心で、牧師は聖書の言葉を唱え続ける。聖書に記された言葉は、彼らを導く『光』となる。彼らは忘れかけていた勇気、優しさ、愛、希望――ありとあらゆる『心』を思い出し、取り戻していった。
彼らの心は――心が放つ『光』は、やがてひとつに繋がれた。
一人一人では小さな光だったものが、今や大天使にも匹敵するほど大きく、眩しいものとなっていた。
それを見ていたコニラヤは、防壁を維持しつつ、大量の蝶を生み出していく。
ツクヨミとヤム・カァシュにばかり良い格好をさせてはおけない。この辺で少しは役に立っておかねば、自分の存在を知る唯一のシーデビル、レインの信仰心がゼロになってしまう。
蝶は聖戦士らの光の中に飛び込んでいく。そしてもう一度宙に舞い上がったとき、その翅には、透明な光を纏っていた。
「きづけ、てんしたち! みんな、ひとりじゃ、ない!」
コニラヤの声と同時に、蝶は天使めがけて飛んでいく。
青い蝶が戦場に舞う。
サファイアのような光の蝶。それが天使に触れるたび、天使は一人、また一人と涙を流し始めた。そしてこれまで別々に戦っていた天使たちは、突然連携を始める。
力を合わせる。
たったそれだけのことを忘れてしまうほど、この闇の世界は病んだ空気で満たされていたのだ。
キールとハンクはペガサスに跨り、負傷した天使を見つけては治療して回っていた。その彼らのもとにも、コニラヤの蝶が届く。
「じょうきょう、かわった。マルコ、このせかいに、きている。いま、ひとりで、たたかっている」
「なに? どこだ?」
「あの、たてもの」
キールの指先で、蝶は小さな脚をチョイチョイと動かし、遠くのビルを指し示す。
「あの廃墟か! よし、分かった! すぐに応援に……」
「だめ!」
「……なに?」
「とべないひとのぶん、ペガサスつくって! たぶん、すぐにはじまる……あ!」
「おっ⁉」
予想外の事態に、キールは棒立ちになった。
巨大なビルの最上階から、ドッと水が噴き出したのだ。
真横に噴出して、しばらくそのまま、まっすぐ水平に突き進むすさまじい水圧。そしてそれが一瞬ではなく、ずっと続くという恐ろしい水量。物理法則を完全に無視したその現象に、キールもハンクも反応できない。
「えーと……ユヴェントゥス、あれ、なんだと思う?」
「噴水……では、なさそうですわね?」
「ボナ・デア? ああいうの、見たことありますか?」
「いいえ……何かしら……」
女神たちまで目が点になっている。
コニラヤの蝶はせわしなく飛び回り、逃げろ逃げろと急き立てる。
何から、なぜ逃げねばならないのかは、その数秒後に判明した。
はるか遠くからこちらに迫りくる黒い壁――それは津波である。
「わあああぁぁぁーっ! 逃げるぞハンク!」
「キール! ゴヤとトニーの分のペガサス!」
「分かってる!」
キールは念のため、隊員全員分のペガサスを出現させた。それぞれのもとにペガサスを飛ばし、二人と二柱は一目散に駆け出した。
はるか遠くにあって、それでもなお『大津波』と認識できるのだ。あの波は、おそらく五十メートルを超えている。
「みんなにも知らせないと……」
「ちょうちょ、とばした!」
「そうか! なら大丈夫だろうが……ロドニーはどうする⁉」
ハンクに尋ねると、ハンクも困った顔で返す。
「あの状態だぞ。近づけない」
「まあ……犬っころのことだから、死ぬわけないだろうが……」
ペガサスで飛ぶ二人からは、その戦場の様子がよく見えた。
ベイカーらの『ペンタクル・ホーリィ・フレイム』とやらが直撃した巨大クレーター。直径百メートルを超える大穴の中心で、悪魔と邪神の戦いは続いている。
これだけの衝撃を受けて、彼らはほぼ無傷。外野からの攻撃を受けたことすら気にしていない様子で、とにかく目の前の『敵』を倒そうとしている。人間には知覚不可能な速度で拳と黒い衝撃波が繰り出されていた。
ぐんぐん高度を上げていく途中で、特務部隊はようやく合流することができた。
「すまないな、キール、俺の分まで用意してもらって」
そう言うベイカーの背には自前の翼が生えているが、キールの予想通り、皮膜状の翼にはいくつも穴が開いていた。
「天使も堕天使も、遠慮なくバンバン矢を射ちやがるからな。流れ矢の一本や二本、当たっていると思ったんだ」
他の仲間のほうに目をやると、ベイカーのみならず、ほぼ全員がどこかに何かを被弾していた。完全に無傷なのはキールとハンクだけである。
「ん?」
順に見ていくと、何か妙なものが目に入った。
「おいトニー? お前それ、乗りづらくないか……?」
純白のペガサスの背に、犬が三頭、窮屈そうに座っている。それは見るからに無理な姿勢なのだが――。
「先輩! 駄目ッス! ツッコミ禁止!」
「あ?」
「なんかわかんねーんスけど、この世界、一度変身すると人に戻れなくなるみたいなんス!」
「は? じゃあ、サイトが穴の開いた翼仕舞わないのも……」
「ああ、仕舞わないのではなく、仕舞えないのだ。空気抵抗があって動きづらいのに……」
そう言うベイカーの視線は、キールではなくロドニーのほうに向けられている。
変身したら戻れない。それなら、ロドニーは?
隊員らが同じ疑問を抱いたとき、ようやく最後の一人、マルコが合流した。
「皆さん、ご無事で!」
マルコは純白の翼を生やした天使に抱きかかえられている。この天使はこれまでに相手にした堕天使たちより、翼も体もずっと大きい。
「あ、ご紹介します! こちらは天使のツァドキエルさんです! ツァドキエルさん、あちらが私の仲間で……」
一人ずつ名前を紹介しようとしたが、ベイカーが止める。
「すまないが、今は非常事態だ。まずはあの津波から身を守らないと……」
「あ、ご心配は無用です! あれを創り出しているのはサラですので。この高さにいれば、巻き込まれることはありません」
「なに? 何の目的で津波なんて……」
「大掃除です。この世界は何もかもが闇に覆われていて、水も、空も、土も、このままでは使い物になりません。ですから一度、綺麗に洗い流して、それから再生するそうです」
「再生だと? 何のために?」
「この世界の中核、イオフィエルを救済するためです」
マルコが指差す相手は、ロドニーと戦っているあの悪魔だ。
四枚の翼、四つの顔、四本の腕をもつ智天使イオフィエル。人間たちの文献にはそう記されているが、ベイカーらは今、その不思議な記述の意味を目の当たりにしている。
二体に分身し、頭の後ろ側にも顔がある。
一体につき頭二つ、翼二枚、腕二本。
それが二体で、『四枚の翼、四つの顔、四本の腕』となる。
智天使とは、ケルベロスのような『分身』という特技を持つ天使であったらしい。
その上位天使が、今、堕天使からさらなる進化を遂げて魔王のような姿となっている。
二対一で互角に渡り合っているロドニーは、マガツヒから進化してオオマガツヒに。
この戦い、もはや次元が違いすぎて、人間はおろか他の神々でさえ介入できない事態に発展してしまった。
「あれを救済? できるのか、そんなこと。あそこまで堕ちてしまっていては、もう殺すしか……」
「いいえ! 救えます! まず、先に世界を丸ごと浄化します! 光に包まれた世界では、闇の力はぐっと弱まりますから! それから天使たちに呼びかけてもらえれば……」
「ふむ……弱らせてから、か。それなら悪魔は天使に任せて、俺たちはロドニーのほうを何とかしないとな」
マルコから詳しい話を聞き、特務部隊はさっそく作戦を立てていく。
こちらの主砲はベイカー。援護射撃としてトニーとゴヤ。ハンクとキールは女神の能力を活かして、それぞれトニーとゴヤをサポートする。マルコは世界の浄化・再生に専念し、グレナシンとチョコは邪気祓いと豊作祈願でマルコを後押しする。
残るレインはと、担当を割り振ろうとしたときである。
「私が先輩の動きを停めます。私ごと攻撃してください」
「レイン⁉ お前、何を言っているんだ? これから先の攻撃は、ただの電撃ではないのだぞ?」
「承知の上です。大丈夫ですよ。隊長もご存知でしょう? 私、体は簡単に作り直せますから」
「しかし……」
神vs神の戦いである。物理的に破壊されて平気だとしても、邪神の闇や軍神の魔剣、女神の聖火を受けて無事でいられるものだろうか。
「……確かに誰かが足止めせねば、あれに攻撃を当てることは難しいだろうが……」
誰もが決断できずにいた。仲間もろとも攻撃するなど、絶対にやりたくない、やってはいけない禁じ手である。だが、彼らにはもう考える時間は無かった。
津波の到達。それと同時に始まる、聖戦士たちの光の開放。
彼らにはサラが直接作戦を伝えている。もとより霊体だけの存在。津波に呑まれたとしても、彼らは水に押し流されることも溺れることもない。
一瞬にして水深五十メートルの海底と化したその場所で、自分たちの『光』を水の流れに乗せていく。その様はまるで、サンゴの産卵のようだった。光の粒は波に乗り、一気に拡散する。土と空の色を映して真っ黒だった水は、見る間に光の大波となった。
「おお! 壮観だな!」
「あらまー綺麗ねー」
「うっわ! スッゲ! ヤッベ! パネェッス!」
「素敵……ああ、こんな海なら、泡になって消えてもいい……人魚姫になりたい……」
「待てレイン! お前本当に消えたりしないよな⁉ バッドエンド系の恋愛小説みたいなのはやめろよ!」
「悲劇のヒロインごっこは殉職しないレベルで頼むぞ!」
いつも通りのレインの発言と、キールとハンクのお決まりのツッコミ。この声を聞いた瞬間、彼らは、自分の気持ちがふっと緩むのを感じた。
どうも自分たちは、必要以上に力み過ぎていたらしい。
眉間に寄った皺を指先で伸ばしながら、ベイカーはひょいと肩を上げ、おどけて見せる。
「ま、アレだな。緊張感が無いくらいが、一番『ウチらしい』か」
「そーッスね! ロドニー先輩だったら、『顔が不景気』つって俺かチョコのほっぺた伸ばしてるとこッスよ!」
「いや、先輩だったらいきなり脇腹くすぐるほうじゃね?」
「あー、かも。それでも笑わなかったら首固めかな?」
「冗談で技掛けてくるとマジ痛いんだよなー」
「なんたって人狼だからね。手加減しても鬼強」
「そうだな。あいつの冗談は加減が甘い。俺もちょくちょく痣になっている」
「え、隊長もッスか?」
「ああ。向こうは軽く小突いたつもりなのだろうが……まったく、あいつには痛い目を見せられてばかりだな」
「ッスね! けど、やっぱ、ロドニー先輩がいなきゃ『ウチ』じゃねえッス!」
「ああ、そうだな。早く元に戻してやろう!」
「ったく、先輩ってばホ~ント世話の焼ける人だなぁ~」
「そーよねぇ、ロドニーちゃん、実はけっこう問題児よねー?」
「ま、そういう駄目な犬っころほど可愛いもんですよ、副隊長」
「キールの言う通り。リビングにはちょっとおバカでモフモフなマスコットが必要不可欠だな」
「えっ! ハンクさんまでペット扱いですか⁉ ロドニーさんは、私の、大切な友人ですよ!」
「おいヘボ王子! お前だけの物みたいに言うなよ!」
「そんなつもりで発言したわけではありません!」
「いいや! そう聞こえた!」
「曲解はやめてください!」
「おいやめろ、マルコ、トニー、ここで揉めるな! レイン、すまないな。頼んだぞ」
「はい! お任せください!」
レインは敬礼し、ペガサスの背を蹴った。
ふわりと宙に舞い、重力に身を任せる。
ゆらりと揺らぐレインの姿は、水面に到達するまでに、巨大なタコへと変じていた。




