そらのそこのくに せかいのおわり 〈Vol,05 / Chapter 05〉
荒廃した大地と、汚染された空気。灰色に霞む、はるか遠くのメトロポリタン。しかしその建造物群に、明かりはともされていない。不鮮明な視界でもわかる。あの町は、既に滅んだ街である。
空を見上げても、太陽は見えない。分厚い雲のせいだろうか。それとも、この黄色みがかった、澱んだ空気のせいだろうか。今は夜ではないのだろう。おそらく昼だ。だが、世界はどうしようもなく薄暗い。
「ん……ちょっと、やぁねえ、なんなの、ここ……?」
頭を振りながら、ゆっくりと体を起こすグレナシン。続いて他の隊員たちも起き上がっていくが、誰もが唐突な環境の変化に戸惑っている。
最初に目を覚ましたゴヤが、必死の形相で叫ぶ。
「動いちゃ駄目ッス! ここ、囲まれてるッスよ!」
その声で気づいた。
ゴヤは今、仲間たちを守るために対霊防御陣を発動させている。そしてその手には魔導式短銃。荘厳な声明は《サンスクリプター》が発動状態であることを示す。
本来ならば霊など見えない他の隊員たちにも、《サンスクリプター》の有効範囲内であればそれが見える。徐々に近づいてくる霊の気配と、鮮明になっていく姿。
誰もいない大地が、本当は、死霊のさ迷う地獄のような場所であったと分かる。
体がとろけた人、真っ黒に焼け焦げた人、赤く腫れあがった人、手足が千切れた人――一目見て分かる。この人々は、何らかの戦闘行為で命を落としている。そして、その日の姿のままさ迷っているのだろう。
防御陣に群がるように集まってくる、おびただしい数の死霊たち。その数、優に三百を超える。遠く離れた場所からも、続々集まってきているようだ。
「なんだ? 俺たちは、いったいどこに飛ばされたんだ?」
「この人たちの服装……遠くのほうにあるビルとかも、これ、地球よね?」
「ああ、そのようだな。なあゴヤ、この状態で何分もつ?」
「三十分くらいはいけそうッスけど……防壁張ってるだけでイッパイイッパイなんスよ。幽霊さんたち追い払うほどの余裕はねえッス」
「大丈夫だ、それは任せてもらおう。ロドニー」
「はい!」
ベイカーとロドニーは魔導式短銃を抜き、《サンスクリプター》をセットした。
二人は魔弾を乱れ撃ちする。どこに撃っても必ず当たる。そのくらい、全方位を取り囲まれているのだ。
だが、二人は十秒も経たないうちに発砲をやめる。
霊たちの様子がおかしい。
誰もフリーズ状態にならない。それなのに、誰もが両手を上げ、降伏の意思を示している。はじめから、彼らに敵意は無かったらしい。
「……大和の言葉は通じるかな?」
ベイカーはネーディルランド語と日本語で話しかけてみるが、まったく通じていない。
「アタシ、外地の言葉ならちょっといけるわよ?」
ツクヨミが中国語と朝鮮語で話しかけてみるが、この言語でも通じないらしい。
「駄目だわ。てゆーかあのビル、ちょっとアメリカっぽくない?」
「そう言われると、どこかで見たような気も……誰か英語話せるか?」
他の神々に尋ねると、ヤム・カァシュが手を挙げている。昨日までメキシコにいただけあって、隣国の言葉も覚えているようだ。なかなか頼もしい神である。
ヤム・カァシュが英語で呼びかけると、死霊たちは再び防御陣のほうに殺到した。全員が一斉に話すので非常に聞き取りづらいのだが、彼らは『運命』から除外された人々であるという。
「どういうことだ? なぜ、人間がそれを自覚できる? ただの人間にそんなことは不可能だ」
「ってゆーかさー、そもそも、ここって何なの? ちょっとヤムちゃん、その辺聞いてみて!」
「はい~」
ヤム・カァシュは比較的話が通じそうな女性を選び、ここは何かと質問した。すると女性は、はっきりとこう答えた。
「ここは聖戦士の墓場。世界の矛盾に気付いて、変えようとして、失敗した者の行きつく先」
「世界の矛盾? というと……法や政策の不備のことか?」
「いいえ。もっと根本的なシステムよ。人間なんかじゃ、絶対に到達できない領域のもの。貴方たちは、それと接触している。だから、私は貴方たちと話がしたい」
「……貴女は、人の身でありながら、神の存在に気付いてしまったのか……?」
時々、桁外れに『勘のいい人間』が生まれることがある。トニーとゴヤがまさにそのタイプなのだが、神の器でもないのに神の姿を見て、死霊や精霊と触れ合うことができる。太古の昔であれば、そういった能力者は巫女やシャーマン、預言者として、神と人との橋渡しをしていたものだが――。
「貴女の能力は、現代では精神疾患扱いされるだけだろう? 隠さなかったのか?」
「はじめは隠していたけれど……それが辛くなって、勇気を出して話してみた。でも、誰も信じてくれなかったわ。私はみんなを救いたくて、必死に戦っていたのに……ショックだった。正直、生まれてはじめて絶望した」
「貴女は、それでも戦い続けたのか?」
「ええ、そう。そして、最期にはここに堕ちたの。ここは、ここにいる人たちの『最悪の結末』の集合体。『運命』から零れ落ちた、どこにもつながらない未来よ……」
ベイカーらは顔を見合わせた。
どこにもつながらない歯車。その歯車を強引に回すことで、自分たちは、とんでもない世界に迷い込んでしまったらしい。
「あー……ということは、貴女方は、この世界からの脱出法なんかは……」
「知っていたら、とっくに戻っているわ。元の、家族も友達もいる、あの世界に……」
「つまり、俺たちがこの世界からの脱出法を突き止めようとするならば、貴女方は協力してくれるのかな?」
ベイカーの言葉をヤム・カァシュが訳すと、そこにいた全員がいっせいに頷いた。
地球の特殊能力者三百余名。既に死亡して霊体のみになってはいるが、数と質において非常に頼もしい味方を獲得できたようだ。
「よし、わかった。ではまず……この世界のマッピングと、環境調査だな!」
方向性さえ決まれば、あとの行動は早い。それがサイト・ベイカー率いる特務部隊の最大のウリである。超常現象の真っただ中でも、彼らは動じることなく行動を開始した。
隊員たちがマップを作成している間、ベイカーとヤム・カァシュは人々から話を聞いていた。どうやらこの場所は、ロサンゼルスとサンフランシスコとサンディエゴが混在した『現実にはありえない街』であるらしい。一番古い人はアメリカが独立戦争をやっていた時代からここにいるという。
この場の全員の共通点は二つ。アメリカ人であることと、キリスト教徒であること。
誰もがある日『天使の声』を聴き、家族を、国を守るため、『悪しきもの』と戦っていたのだという。
「その、悪しきものとは?」
見るからに聖職者と分かる黒服の老人は、ベイカーの問いに淡々と答える。
「悪魔です」
「悪魔? それは具体的にどのような敵だ?」
「漆黒の翼を持つ者でした。全身が黒い霧に覆われていて、顔はよく見えません。私は神に祈り、それから悪魔に呼びかけました。正しき光に導かれ、悔い改めよと。それで悪魔は苦しみ、消えるのですが……」
「その悪魔に、ここに引き摺りこまれたのですか?」
「ええ……結果的には、そうなりました。ですが私は、後悔はしていません。ここに堕ちたのも、それが私の運命だったのでしょう。けれども……叶うことならば、もう一度、皆に青空を見せてやりたいのです……」
「青空、か……」
澱んで黄ばんだ空の色。分厚い雲にはわずかな切れ間もなく、重苦しく全天を覆う。
ベイカーは――ベイカーの内にいるタケミカヅチは、超特大の溜息を吐いた。
(サイト、この牧師が戦った相手は堕天使だ。天使は我々大和の神々と同格の存在。創造主に与えられた役割に従って人を導き、加護を与え、ときに罰する者。我らと同じく、彼らも絶望の果てに堕ちる)
(ならば、不要になれば異界送りにも?)
(いいや。天使は我らと違い、創造主に従順で生真面目だからな。『不要だ』と告げられた瞬間に存在意義を見失って、絶望の闇に堕ちるのさ)
(……それを、何も知らない人間たちに始末させるのか……?)
(無垢な心の人間でなければ、堕ちた者の心に言葉を届けることは出来ないからな)
(だが、それで失敗して、堕天使もろともここに堕ちるのなら……創造主は彼らを……天使と信徒を、使い捨てにしているのか?)
(いや、そうじゃない。いいか、よく聞けサイト。創造主は誰も見捨てたりしない。普通だったら堕天使は、信徒らの清らかな言葉に心洗われ、堕ちたことを恥じ、悔いる。そして自ら創造主のもとに帰っていくんだ)
(帰って、どうなる?)
(リセットされる。『光』を失った体に新たな光と役割を注がれ、これまでとは別の能力を持った天使として生まれ変わらせてもらえるのさ。だが、この世界は異常だ。本来あるべき理から外れている。おそらく、こんな世界が生まれた原因がどこかにあると思うのだが……)
(……いや、ちょっと待て? さっきの女性は、ここを聖戦士の墓場と言ったな? 世界の矛盾に気付いて変えようとした、とも。彼女らが『天使の声』を聴いて聖戦士になったのなら……まさか、ここにいる人は全員……)
ベイカーは眉間にしわを寄せた。頭に浮かんだのは、この状況における『最悪の可能性』である。
「あの、すみませんが、もう一度確認させてください。貴方が戦った相手は、本当に『悪魔』ですか? 黒い霧に覆われた顔は……本当に見えなかったのですか?」
牧師は目を閉じてうつむいた。
それが答えだ。
そう、彼らは気付いたのだ。自分が戦うべき相手が、かつて自分を導き、加護を与えた天使たちであると。いつ、どの段階で気づいたかは人によるだろう。だが、誰もが気付いて変えようとしてしまった。
堕ちた天使を救済する、この循環システムを。
彼らは、そんなシステムが組まれているとは知らされていない。つい今しがたベイカーが思ったことと同じ疑念を抱いてしまった。
主は我々を使い捨てるつもりか、と。
そして彼らは、行動を起こした。
「私は……私は大変なことをしてしまいました。彼を救いたい一心で、彼に手を伸ばし……」
そう言う牧師の両腕は、肘の上あたりでスパッと切断されている。
「この腕は、イオフィエルに切られたものです。私は痛みと恐怖の中、神を呪う言葉を口にしてしまいました。そしてそれは、闇に呑まれつつあったイオフィエルにも届いてしまった。私は、彼の心を救う役割を与えられていたのに……」
ベイカーは黙って首を横に振る。
人間たちは悪くない。ただ、救済システムの存在を知らなかったのだ。
彼はこれまでに倒した悪魔、すなわち、苦しみながら消えていった堕天使たちが、完全消滅したものと思っていた。だからこそ、目の前にいる天使イオフィエルだけは消滅させまいと、必死にその手を差し伸べて――。
「私が……私が彼を、本物の闇へと突き落としてしまいました……。いくら懺悔しても、この罪は許されません……」
「……なるほど。よくわかりました。つまり、この空間は……」
天使と人との、『最悪の結末』の集合体。
生身の人間が、堕天使の『闇』に触れて無事でいられるわけがない。ある者は堕天使の黒い炎に焼かれ、ある者は鋭い爪で引き裂かれ、ある者は毒で肌が爛れ――そして死んだ。天使が人を殺したことで、救済の道は断たれた。殺された人間もろとも、循環システムから外れてしまったのだ。
彼らはその日、そのときの姿のまま、今なおここでさ迷い続けている。
何もかもが、堕ちたその日のままの世界。
そう、つまりここには、天使も堕ちているはずなのだ。
「その……イオフィエルという天使は、今、どこに?」
「彼は……彼の体は、腐って、土に還ってしまいました……」
「土に?」
ベイカーは顔を引きつらせながら足元を見る。
ここにいる人間は三百名以上。それぞれが天使を救い損ねて共に堕ちたのなら――。
「……堕天使が三百体、か……」
堕天使が素直に朽ち果ててくれるとは思えない。何か刺激を与えれば、平然と蘇ってくるに違いない。そうなれば、ベイカーらとの衝突は必至である。なぜならこちらには、『堕ちたもの』を食らうためだけに創られた神がいるのだから――。
(まずいぞタケミカヅチ! オオカミが一度に三百体もの堕天使を食らえば……)
(ああ、『器』の限界を超える。オオヤソマガツヒが出現するぞ!)
(すぐにロドニーを呼び戻して……)
そう考えたベイカーだが、そのときにはもう、ロドニーは『それ』に出会っていた。
ロドニーだけではない。手分けしてマッピングしていた隊員らは、それぞれ異なる堕天使たちと遭遇していたのだ。
ベイカーのもとに、ゴウッという音と衝撃波が届く。反射的に振り向いたベイカーは、赤々と燃え上がる火柱を目撃した。
「トニー⁉」
立ち上がりかけたところに、別方向から地響きにも似たズンという音が。見れば、巨大な氷の柱が出現している。
「ハンクもか!」
数秒と間を置かず、他の隊員らも次々と交戦状態に突入していく。
澱んだ空気に視界が遮られているが、遠くで青白く発光しているのはゴヤの《鬼火》であろう。降り注ぐ隕石はグレナシンの《墜星》。小刻みに聞こえる炸裂音はロドニーの真空波で、軍馬の駆ける足音はキールの騎乗するゴーレムホース。四方八方に岩石が放り投げられているのは、レインの触手によるものである。
何者も出現していないのはこの場所だけのようだ。しかし、だとすると妙である。ヤム・カァシュの依り代になっているチョコは、はじめからずっとベイカーの隣にいる。人間の気配を察知して襲い掛かるのならば、二人が一か所に集まっているこの場所が最初に襲われそうなものだが――。
(まさか……天使たちは、堕ちてなお自我を保っている……?)
この思い付きが正しいかどうかは、自分自身の身で確かめねばならない。
「チョコ! その牧師の傍を離れるな! 他の皆さんも、この場所から絶対に動かないでください!」
ベイカーは駆け出す。
「魔剣発動! 《麒麟》、《燭陰》!」
右手に紫電の雷剣、左手にオーロラの鞭。一番戦いやすい組み合わせで魔剣を発動させた、その一瞬後。
「!」
足元の地面から、何かが飛び出してきた。
それが何か認識するより早く、ベイカーの体は反射的に剣を振るっている。
ガンッと鈍い手ごたえは、重武装兵を攻撃したときと似ていた。
「くっ……⁉」
「……シネ……」
真っ黒な霧の塊が、赤い口でニタリと嗤う。
同時に体に感じる衝撃波。咄嗟に張った魔法障壁で、攻撃そのものは防ぎ切った。しかし、重い。この堕天使が放つ絶望の闇があまりに重すぎて、近くにいるだけで心身を蝕まれていく気がした。
「シネ、シネ、シネ……ミンナ、シネ……」
無機質な機械音声のようだった。呪いの言葉が吐き出されるたび、黒い衝撃波が発生する。ベイカーはそれを躱しながら、慎重に相手の能力を分析する。
黒く染まってはいるが、この堕天使は二対四枚の翼を持っている。元の位はそれなりに高かったはずだ。これが全力とは考えづらい。
攻撃のパターンは単調。思考能力が無いのか、こちらの油断を誘っているのか。ベイカーは『乗せられたフリ』をして、あえて突っ込んでみることにした。
オーロラの鞭で衝撃波を払い除け、一気に踏み込み距離を詰める。中段に構えた雷剣で堕天使の胴を一突きにしようとしたのだが――。
「シネ!」
突き込まれた切っ先を躱しながらのカウンター攻撃。黒い霧に覆われて判然としないその武器は、形状から察するにペンのような筆記具である。
ベイカーは避けないし、止まらない。中段突きへのカウンターは、同じく中段からやや下方までのごく限られた範囲となる。それ以外の部位を狙うには、堕天使の構えは不十分だった。ベイカーは相手のカウンターを中段と予測し、上着の内側に仕込んだ防御呪符を発動させていた。
ペンと、それを持つ指、手首がグシャリと折れる音がした。
「アアアアアァァァァァーーーッ!」
「!」
痛覚がある。やはり、死んだのは人間だけなのだ。天使たちは堕天してもなお自我を持ち、生き続けている。
苦しむ堕天使を《燭陰》のオーロラで拘束し、その首に雷剣を突き付ける。その状態で名前を尋ねると、堕天使はチラリと――本当にチラと一瞬、死霊たちの集まるほうを見た。
そして、唸り声をあげて下を向く。
「……名乗りたくないか。そうか。そうだよな。正気を失ったフリをしても、彼らに危害を与えないよう、衝撃波を撃つ方向を調整していたものな?」
「……貴様は、なんだ……?」
「お、やはり普通に話せるのだな? 俺は大和の神タケミカヅチ。お前たちと同じく運命から除外された者を救おうとしていて、何かの間違いでここに飛ばされた」
「救う……だと? 我らを食らいに来たのではないのか……?」
「堕ちた天使なんか不味くて食えるか。元の能力に関係なく、闇の剣にしかならないのに」
「食ったことがあるのか?」
「お前らのところの天使ではない。別の神族だ。人間の戦争を手伝ったときに、四体ほどな」
「……戦争に使われたのに、貴様は、なぜ堕ちなかった?」
「うん? いや、俺はそもそも、軍神として創られた神だが……ああ、そうか。お前は、戦闘用ではない天使なのだな?」
「我は……エデンの園の管理者だった」
「エデンの園……というと、あの、農業試験場と水産試験場と畜産試験場を足して割らなかったような……あれか? あそこは、創造主以外の者も出入りできたのか?」
「我とツァドキエルのみが主の許しを得た。我は楽園の管理を任されていたのに……システムは廃止された。我は不要になった……」
「まあ、当然ではあるな。人間は進化して、自分たちで遺伝子組み換えやクローニングまでできるようになった。今や、その気になれば新種の生物も創りだせるようなレベルだ。これからの時代に必要なのは科学研究をサポートする学問の天使のほうだろうし……お前は、そんな理由で堕ちたのか? 堕天するには軽すぎるぞ?」
「違う! 貴様の言うとおり、主は我に、人間の研究を手伝う役割を与え給うた。我は主の御心のままに、日々その役割を果たしていた。だが、我が加護を与えていた人間の研究は……彼女が見つけたエネルギーは……あれは平和のために使われるべきものだったのに……彼女の研究をもとに軍が造り上げたものは、恐ろしい兵器だった……あんなに、人が死ぬなんて……」
「ああ、なるほど。それでお前は、罪悪感から堕ちた、と……」
「貴様は、なぜ堕ちない? 戦とは、人を殺すものだろう? 他の神や天使まで食らって……なぜ、堕ちずに笑っていられる?」
「なぜだと? そんなもの、決まっているだろう。大好きだからさ。剣と剣とが打ち交わされるあの音、感触……命を懸けた人間の、魂の光の美しさと言ったら……ああ、銃撃や砲撃も、最高に愉しいな。照準を合わせてトリガーを引くあの瞬間……あれはいい。引き絞った弓から矢を放つのとは、また違った快感がある。知っているか? 敵国の兵を殺せば殺すほど、士気が高まっていく戦場の空気を。昂った兵士たちのあの目、あの顔……鼓動と、血の巡る音と言ったら! あれこそ世界最高の交響曲さ! あれを聴くためだけに軍神をやっているようなものだ! オチる? 何を馬鹿な! 戦場以外の、どこで絶頂までイケるというのだ?」
タケミカヅチだけではない。軍神、戦女神、勝神とされる神々は、いずこの神族であれこのような性質の持ち主である。敵対する勢力を蹂躙し、そこにある土地を、富を、人的資源を得て支配する。彼らはそのためだけに創られた神であり、自国の領土と民、文化を存続させるためには必要不可欠な『役割』を持つ者である。
ただし、天使だけは異なった性質を持つ。彼らは確かに兵士たちを守護するが、その役割は『高潔さと美徳』を与えること。兵たちが野蛮なふるまいをせぬよう、規律を維持するために尽力する。
異なる神族の、異なる価値観。タケミカヅチとこの堕天使とでは、こと『戦争』という事象に対して、意見を一致させることは難しかった。
「なんたる……なんたる蛮行! 憎い! 我は貴様が憎い! 我は主に従い、正しくあったのに! 貴様はなぜ……なぜ、そのような蛮行に身を穢して、闇に堕ちずにいられるのだ⁉ なぜ、そのように笑っていられる⁉ 解せぬ! 我は……我はいつだって、主の御心にかなうよう尽くしてきたというのに……嗚呼! 憎い! 主も貴様も、すべてが憎い! 殺す! 何もかも、殺しつくす! 我は、もう何も信じない!」
これは既に堕ちた者。黒い霧に覆われた天使の思考は、自己憐憫と他者への嫉妬、憎悪で満たされていた。戦うことでしか生き抜けない、分け合うほどの土地も資源もない環境で生まれた『軍神』の事情に理解を示せるほど、心の余裕はなかったのだ。
堕天使の叫びとともに、漆黒の衝撃が奔った。ベイカーはニケの炎でそれを相殺するが――。
「……ん?」
黒い霧の切れ間から覗いた顔。その目を見て驚愕する。
朽ちた頭部から腐肉がべろりと剥がれ、頭骨が丸見えになっている。
ぽかりと空いた眼窩からぶら下がる眼球は、黄色とも緑ともつかない色に腐敗し――それでもなお、その視線はベイカーに向けられていた。
しかし、ベイカーが驚いたのはその眼ではない。
眼窩から生じる、黒い霧のほうだ。
「心臓じゃないのか⁉」
白虎のときは心臓だった。他にも何度か神が堕ちる様を目撃してきたが、誰もが心臓から闇を噴出させていたのだ。天使も、てっきり同じようなものと考えていたのだが――。
(闇の発生源が他の神族と異なる……? これは、ひょっとすると……)
これまでに取り込んだ四体の天使は、すべて使い物にならない闇の剣になってしまった。それが堕天使特有の現象ではなく、仕留める際の『手順の誤り』であるとすれば――。
(そうか……つまりこれは……よし! いける! この天使、食えるぞ!)
ベイカーは、己の体に宿すすべての神に呼びかけた。
「全員出てこい! このリストラ会社員に、再就職先を斡旋してやろうじゃないか!」
ベイカーの魔剣として終身雇用されることは、はたして幸せなことなのだろうか。そんじょそこらのブラック企業以上に過酷な労働を強いられるような気がするのだが――。
そんなことを思った神々は何とも微妙な面持ちで、それでも一応、呼びかけに応じて顕現した。
他の隊員らが遭遇した堕天使は、ベイカーが遭遇した天使より位階が低い者たちであったらしい。呼びかけてみても答えることはなく、まるでゾンビかゴーレムのように、闇雲に襲い掛かってくるばかり。戦闘能力だけで言えば、倒すことそれ自体は難しくない。しかし、彼らは堕天使。いくら体を破壊しても、神の『光』によって闇を中和せねば、何度でも甦ってきてしまう。それも皮肉なことに、今ここにいる神は――。
「いやぁ~ん! もう! ホントやめてよねこういうの! アタシ闇属性なのよ⁉ 堕天使の浄化なんか無理なのよぉ~う!」
「ひいぃえぇ~っ! わ、わわ、私にもカミサマついてるんですよね⁉ どうして助けてくれないんでしょうか⁉」
「そりゃ、アタシと同じ闇属性だからよ! この状況なら、コニラヤよりシーデビルのほうが戦闘力高いくらいよ!」
「えええぇぇぇーっ! カミサマなのに弱いんですかーっ⁉」
「こっちだって、今戦ってんのはツクヨミじゃなくてアタシよ、アタシ! ツクヨミに使えるのは防御とか幻覚とか、そんなんばっかりよ!」
そう言いながら、グレナシンは攻撃魔法《死水晶》を放つ。これは無機物を結晶化させる魔法だが、土壌に含まれる成分によって効果が変化してしまう不安定な魔法である。残念なことに、この世界の地面から突き出したのはいびつで黒っぽい鉱物であった。
「やっだもう! ヘマタイト⁉ 水晶とか石英ならそのまんまナイフ代わりにできたのに!」
堕天使が放つ黒い波動を躱しつつ、グレナシンはヘマタイトを拾い上げ、すぐ後ろに迫っていた別の堕天使の頭をかち割る。
「ま、鈍器としては最高の重量感だわねぇ?」
レインもそれに倣い、触手でヘマタイトを拾って投げつける。二十四本の触手での絶え間ない投石は、原始的でありながら、非常に有効な攻撃法であった。鉄を含有する分、砂岩や泥岩より重く、硬い。直撃した堕天使らの体は、目で見て分かるほど大きく凹み、ひしゃげている。
「あらすごい! 人間投石機!」
レインの投石のため、堕天使らは近付くことができない。双方、二十メートル以上の距離を取った中距離戦となった。
「いいわよレインちゃん! そのまま続けて! タマタマならアタシがいくらでも調達してあげるわ!」
「タマタマ⁉」
「もうこの際、二人で全世界のタマタマを手玉に取る深夜枠の暗黒神にでも転職してみない?」
「丁重におとこわり……じゃなくて! お断りさせていただきます!」
「んっふ~ん♡ いいのいいのよ~? オトコ割っちゃっていいのよ~? レインちゃんにならアタシのぷりぷりピーチ割られちゃっても全然オッケーなんだからぁ~♡」
「あぁ~っ! もう! なんでそこで噛むかな私はぁ~っ! あの、副隊長! 真面目な質問なんですけど! 闇属性って、戦えないんですか?」
「アタシたちはね。でも、戦える子もいるわよ?」
「え、ずるい! 誰です⁉」
「月天使ザラキエル。あの子は翼が生えてるだけあって、闇だけじゃなくて、風の属性も持ってる子だから。ってゆーか、アンタの仲間もアレにぶっ殺されてんでしょうが」
「副隊長、私、コニラヤさんの記憶にアクセスできるわけじゃありませんから!」
「あら、そうなの?」
「私に分かるのは『何かいるなぁ~』って雰囲気だけです!」
「え、そんなテキトーな繋がり方なの? 変わってるわね~」
「そうなんですか? あの、それはともかく、これからどうするんです? このままじゃ、私たちそのうち力尽きますよ?」
「ん~……そうねえ……あんまり気が乗らないけど、こんな状況じゃ、頼れるのなんて変態中二病軍神様しかいないわよねぇ……」
そう言って、他の隊員たちがいるほうに視線を向けたときである。グレナシンの眼に、青白い閃光が映った。
「!」
黒い霧と澱んだ空気の中でも、ツクヨミの『視力』でははっきり視認できていた。
今、ゴヤの《鬼火》が堕天使を浄化した。
それは神の『光』よりずっと弱い光だった。それでも堕天使は《鬼火》に包まれた瞬間、体を覆う闇を焼き祓われ、元の清らかな姿を取り戻した。しかし闇が祓われただけで、自由に動けるほどの力は無いのだろう。その場に倒れ込み、苦しそうに体を震わせている。
「レインちゃん! 見えた⁉」
「いえ! ですが、声なら聞こえます!」
「あの天使、なんか言ってんの⁉」
「『ベネッタ、どこ? 会いたい』と繰り返しているようですが……」
「ベネッタ? って、最初にお話しした彼女のことかしら? 確かそんな名前だったわよね? 連れてってあげたほうがいいかしら?」
「副隊長、ここは私一人でも大丈夫です!」
「あら、そう? それじゃ、ちょっとベネッタさんのところ行ってみるわね」
グレナシンは最後にもう一回《死水晶》を使い、弾を補充してからその場を離れた。
少々過保護な副隊長が十分離れたことを確認すると、レインは自分の中にいるコニラヤに問いかける。
(コニラヤさん? あの、本当に戦えないんですか? 何か出来たりしません?)
器からのザックリとした問いに、中身も同じくらいザックリと答える。
(がんばれば、なんか、できる? ような……きがする?)
(なんかって何ですか?)
(やみを、やみで、ぬりつぶす。うまくいけば、ぼくのめいれい、きく……)
(それ、失敗したら堕天使にエネルギーチャージするだけだったりしません?)
(そんなきもする……たぶん、だいたいそうなる。うんが、よければ、うまくいく……)
(成功する確率のほうが低い提案はやめてもらえませんか?)
(え……きかれたから、がんばって、かんがえたのに……)
(聞かれなくても何かこう、天啓? みたいな? パァっと未来が明るくなるようなこと言ってくださいよ、自発的に! それでも神ですか! 神ならもっと神らしくしてくださいよ!)
(あ……あ……えっと、えっと……かみだからって、なんでも、できるわけじゃ、ない……ぼく、そういうの、できない……)
(出来ないなら出来ないって最初から言ってください! もういいです、自分で何とかしますから!)
(あ、その、ごめん。がんばる、から、おねがい、みすてないで……)
自分で作った人類に対して、妙に立場の弱い神である。
レインは宣言通り、自分の身体能力のみで堕天使らへの攻撃を続ける。堕天使の数は時間を追うごとに増えていった。今はだいたい三十体ほどだろうか。堕天使らが放つ黒い霧のせいで、レインの視力では正確な数をカウントすることは難しかった。
(音から察するに、ゴヤのほうも複数体に囲まれていますね……。この連中を引き連れて合流すれば、ゴヤの負担が大きくなるし……)
他の仲間の戦闘音も聞こえる。
キールはゴーレムホースでさらりと包囲網を抜け出し、堕天使が他の隊員に近づかないよう、自分が囮になることでうまく誘導している。
ハンクは魔法で片っ端から氷漬けにすることにしたようだ。堕天使らの身体能力では、ハンクの氷からの自力脱出は不可能である。浄化することは出来なくとも、確実に『動く敵』の数を減らしていける。
トニーは超火力で瞬殺している。何度蘇ろうと、その都度秒殺である。ゴヤのような特殊能力はなくとも、ただの炎も光は光。幾度となくしつこく焼き続けることで、ごくわずかずつは浄化できているのだろう。復活するまでの速度が徐々に遅く、周囲にたちこめる闇は薄くなっている。
「え、嘘……」
レインの頭の中には、木の棒でマンモスに挑む原始人のイメージが浮かんでいた。一撃で仕留めることは出来なくとも、それでも原始人は自分より巨大なマンモスを倒していたのだ。めげない、折れない、諦めない人間というものは、ときに不可能を可能にする。
「う、うぅ~ん……トニーだけは絶対に敵に回したくない……」
同期にまでこう言われてしまうのだから、ケルベロスとは実に恐ろしい生き物である。
最後にロドニーの様子を聞こうとして、レインは首を傾げた。
「音が……え? 二つ?」
ロドニーの足音と、四つ足の生き物の足音。そして堕天使の悲鳴と、肉と骨を噛み砕く音。ロドニーの傍に何かの獣がいて、堕天使を食らっているのだろうか。しかし、それにしては奇妙なことが一つ。
「コニラヤさん? 聞こえてますよね? この音……」
(うん……かみくだく、おと……とまらない……けものの、はしるおと、ずっときこえているのに……)
「止まって、食べているのは……ロドニー先輩のほう……?」
恐ろしい想像に血の気が引く。
自分が相対している者を見て、信じられない思いでいっぱいになる。
「これを……食べる? 嘘ですよね? そんな……」
投げた鉱石が直撃した瞬間、黒い霧がわずかに晴れることがある。そこから覗くのは、腐り切った肉をぶら下げた気味の悪いゾンビの姿である。
(わからない……あのかみは……はじめから、かみをころすため、つくられたらしいけど……)
「神を殺すための神……? なんですか、それ……なんか、その、怖いんですけど……」
もっとよく聞こうと、レインが耳を澄ませたときだった。
この世界そのものが、大きく揺れた。
地震ではない。その身に神を宿した者たちには本能的に理解できた。
これはそんな生温いものではなく――。
「うっ⁉」
はじめにやられたのはレインだった。
なにかが自分に迫ってきた。それは知覚できた。だが、体は『それ』の速度に対応できなかった。
腹を殴られて吹っ飛ばされる。
自分を殴った者の姿は、一瞬見ただけではっきり認識できた。
ロドニーだった。
ただし、髪も目も黒く、肌は血のように赤い。
地面に叩きつけられるより早く、直上からの踵落としを食らって、真下に落とされる。
レインは咄嗟に体組織の結合を緩めた。人間の姿を保っているから物理攻撃を食らうのである。シーデビル本来の不定形生命体の姿になれば、液体として土中に浸透し、そのままの状態で移動できる。
ビチャンという液体そのものの音を立てて、レインは姿を消した。地表面に残るのはレインが身に着けていた衣服のみ。
ロドニーは感情の無い目でそれを見て、小首を傾げて立ち去った。
地面の下に隠れたまま、レインはコニラヤに問う。
(あれ、どう見ても先輩でしたけど……本当に先輩ですか⁉)
(そうだけど……ちがう。あれは、やみより、もっとこわいもの……)
(なんですか、それは?)
(わからない。ツクヨミなら、きっとわかる)
(役立たず!)
(えっ! ひどい!)
オオカミナオシは世界創造の最初期に創られた修正・削除システム。文明と神話体系の多様さから、大和の国をはじめとするアジア圏では今も現役で稼働している。少ない神と少ない民とでバランスが取れていたインカの神にしてみれば、それは全く未知の管理システムである。分からないのも当然のことなのだが――。
(もういいです! 副隊長に訊きますから!)
(うう、ごめん、ごめんよぉ……やくたたずで、ごめんよぉ~……)
本当に全く役に立たない状況が連続して発生している。今、レインのコニラヤに対する信仰心は限りなくゼロに近い。神の力は信徒らの『信仰心』によって左右される。レインの心が離れれば離れるほどコニラヤの力は弱くなり、さらに役に立たなくなっていくのだ。
(うわあぁぁぁ~ん、がんばるよぉぉぉ~。おねがいだから、しんじてよぉぉぉ~……)
自分の思考の片隅で泣き始めるクラゲのようなものを意図的に無視して、レインはグレナシンのもとへと向かう。
ベイカーとタケミカヅチも異変に気付いていた。あの振動は『マガツヒの神』出現時に発生する現象である。
堕天使の放つ黒い衝撃波をニケの炎で中和しつつ、ベイカーは上着を脱ぎ棄てる。獣人化して雷獣本来の姿に近づくには、背中に衣服があると邪魔になるのだ。
蝙蝠の翼に似た黒い皮膜を展開し、ベイカーは宙に舞い上がる。
それを追って飛び上がろうとした堕天使は、空を見上げたその姿勢のまま固まった。
動くことは出来ない。堕天使の胸を背後から貫いて、真っ赤な手が何かを握っているのだ。
ドクドクと脈打つそれは、天使の心臓であった。
心臓の色は赤い。流れ出る血も、闇色には染まっていない。
ベイカーは舌打ちした。
やはり、闇の発生源は心臓ではなく頭のほうだ。
これで分かったのは、堕天使の正しい『食べ方』である。重要なのは、頭ではなく心臓のほうに魔剣を突き立てること。他の神は頭に剣を突き立てることで魔剣に吸収できた。それは心臓ではなく、脳に神としてのすべてのデータが収められているからだ。これまでに仕留めた天使にも、そのつもりで頭に魔剣を突き立ててきた。だが、出来上がったのは何の能力も持たない闇属性の剣だった。
天使のデータは心臓にある。それさえ突けば、この天使の能力を取り込むことができるのに――。
「ロドニーッ! それをこちらに寄こせ!」
天使の胸を貫いたまま、ロドニーは感情の無い目でベイカーを見る。
黒い髪、黒い瞳、赤い肌――前髪の隙間から、小さな角が覗いている。大和の国の民であれば、その姿を見て『鬼だ!』と叫んだことであろう。
ロドニーはベイカーの眼を見て、わずかに表情を動かす。
「……隊…長?」
「!」
まだロドニーの意識がある。これは『オオヤソマガツヒ』ではなく、一番弱い『マガツヒ』だ。この程度なら、自分一人でも闇を中和することができる。
「ロドニー! そのまま視線は動かすな! 絶対に動くなよ!」
自分が何をしているか、それを自覚させてはいけない。ロドニーが恐怖や絶望に呑まれれば、それを糧にマガツヒは育つ。ベイカーは可能な限り、柔らかい口調と表情で呼びかける。
「なあロドニー、俺は今からそこに降りるが……実はお前に、ちょっとしたプレゼントがあるんだ。少しの間、目を閉じていてくれないか?」
「……は……イ……?」
寝ぼけ眼の子供のように、ロドニーはおとなしく指示に従った。ベイカーはマガツヒを刺激しないよう、そっと地面に降り立ち――。
「もう少し……もう少し、そのままだぞ。まだ、目は開けるなよ……?」
静かにマガツヒに近付き、雷剣を構えた。
『マガツヒの神』とは、オオカミナオシの器の内部で圧縮された『闇堕ちの毒』が限界値を超えたときに出現するものである。ロドニーの限界値はもっと高いはずだが、一度に数体の堕天使を食らったことで、一時的に消化不良に陥ったのだろう。今はうまく胃袋に収まりきらなかった分が吐き戻されているようなものである。
タケミカヅチと、麒麟と、ミカ・ヒハヤ・トリノの三柱と、精霊サマナス。そしてベイカー本人での『雷属性総攻撃』を仕掛ければ、ロドニーをもとに戻すことなど造作もないこと――そう思えたのだが。
「……エセ……」
堕天使が動いた。
「!」
心臓を取り出された時点で死に至ったと思い込んでいたが、天使は神とは異なる身体構造を持つ。白虎が魂の無い肉体だけで戦い続けていたように、天使は心臓を抜かれても、頭さえ無事ならば体を動かしていられるらしい。
「く……っ!」
剣を構えた腕を掴まれる。堕天使から生ずる黒い霧を防ぐには、距離が足らない。あっという間にベイカーの体も闇に覆われていく。
「クソ! 離せ! この……っ!」
「カエセ……我ノ……我ノ……」
心臓を鷲掴みにしているのは真後ろにいるロドニーである。だが、堕天使の眼に見えているのはすぐ近くにいるベイカーのみ。とんだところで痴漢冤罪事件の被害者気分を味わったベイカーだが、誤解を解いているだけの余裕はない。
「隊…長……? どうしたん、です、か……?」
ロドニーが目を開けそうになる。
焦ったベイカーは、咄嗟に魔法を使う。
「《雷陣・一式》発動!」
半径五メートルの雷の呪陣が出現し、堕天使とロドニーは紫電の雷光に撃たれた。
堕天使の手が離れた瞬間に再び宙に逃れるが、魔剣に比べて、《雷陣・一式》では殺傷力が低すぎる。
「クソ! 仕損じた!」
堕天使もマガツヒも、この程度の『光』で浄化される小さな闇ではない。動きが止まったのはほんの数秒。彼らはその後、すぐに交戦状態に突入した。
戦っているのはマガツヒと堕天使だ。
反射的に手を離したのはマガツヒも同じこと。堕天使は落ちた心臓を拾い上げ、胸の穴に突っ込みながら闇の波動を放つ。
マガツヒも、闇の波動で迎え撃つ。
闇と闇とのぶつかり合いに、空気が、地面が、この空間自体が激しく打ち震える。そして互いが放つ闇に共鳴して、マガツヒと堕天使、双方の力が高まっていく。
「く……大失敗だ……これでは、もう……」
タケミカヅチが割って入れる隙が無い。闇で力を高めた彼らは、徐々にその姿を変えていった。
腐乱死体のようだった堕天使は、美しくも禍々しい黒衣の悪魔に。
マガツヒはどんどん大きく、筋肉質な大鬼に。
いずれの眼も、殺意と破壊衝動に取り憑かれた狂戦士のそれであった。
「オオカミ! オオカミナオシ! どこだ! はやく奴らを『修正』しろ! このままでは、他の堕天使らも……!」
世界そのものの闇の濃度が高まっている。すべての堕天使がパワーアップしてしまったら、もう自分たちに生き残る術はない。
必死にオオカミナオシを探すベイカーだが、どこを探しても見つからない。ならば他の仲間たちはと、それぞれの位置を確認しようとして気付いた。
はじめから、この世界に飛ばされていない者がいる。
ユヴェントゥスとボナ・デアはキールとハンクについている。
チョコとヤム・カァシュは聖戦士たちと一緒にいるし、今はそこにグレナシンとレイン、その中にいるツクヨミとコニラヤも合流しているようだ。
ゴヤとトニーはそれぞれ単独で、順調に戦果を挙げている。
だが、マルコはこちらに飛ばされていない。動かない歯車を無理に回したことがきっかけなら、一緒に飛ばされていてもおかしくないのに――。
「なあ、みんな? 俺はすっかり点呼を取り忘れていたんだが……フォルトゥーナはどこだ? 誰か、気配を感じるか?」
ベイカーの問いに、ニケが答える。
「いいや。私も、てっきり力を使いすぎて休んでいるものと思っていたのだが……」
「ルキナも、ボナ・デアにハンクを取られて拗ねていたし……出てこないのも仕方ないかと思っていたんだが……」
「あとな、サイト。カリストもいないぞ?」
「なに?」
「精霊だから、もともと神よりも気配が弱いのだが……よくよく思い返してみると、こちらに飛ばされる前……全員の歯車を連動させた時点で、ルキナとカリストの接続は解除されていたと思うのだが……」
「ふむ……生と祝福の女神と、美の精霊……もともと、俺とは繋がりの少ない属性だからな。全員の運命をつないだ時に、もっと相性の好い誰かに乗り換えたか……?」
「だとしたら、あの二人ではないか?」
ひょいと顕現したニケが指し示すのは、レインとグレナシンである。
「……なるほど。確かにコニラヤは命を創造する能力を持つし……」
「ツクヨミは、夢や幻覚を編むのだろう? 神の心すら奪う魔性の美を誇るカリストなら、能力的な相性は高いと思うが……」
「と、するとまさか……副隊長が、今以上に魔性のオカマに? 先代特務部隊員を一通りつまみ食いした疑惑があるのだが……まさか、あの人はさらなる『ヤバみの極み』を目指す気か……?」
「まあ頑張れ」
頼れるお姉さんからの投げやりな声援を受け、一線を越える日が来ないことを祈るばかりのベイカーであった。
「まあ、それはともかくとして。ニケ、なぜ今ここに、マルコがいないのだと思う?」
「フォルトゥーナもだな。あとは玄武とサラか」
「あの、不完全な神もだ」
「動かないはずの運命を動かして、我々はここに飛ばされた。体感では、フォルトゥーナとの接続は切られていない。あの独特な一体感も、まだ継続している。全員の運命を繋いだ巨大機構は、今も作動中なのでは?」
「今も……とすると、そうか! 散開した状態では……」
「接続が弱まる。単独で戦えるからと言って、戦わせておいてはいけないのかもしれない」
「全員集めるぞ!」
「ああ!」
ベイカーとニケは二手に分かれ、仲間たちのもとへ飛んだ。
緋色の翼を羽ばたかせ、ニケはまず、キールと合流した。
「おい、男! お前、もう一頭ゴーレムホースを出せるか?」
馬上のキールは、さも当然のように答える。
「一頭? 俺に訊くなら、十頭の間違いだろう?」
「頼もしいな。では、ボナ・デアの器となっている男にも馬を用意してやってほしい。散開したままではこちらの不利になる。皆と合流せよ」
「分かった」
キールは馬の向きを変えつつ、上着のポケットからカード型の呪符を取り出す。それを口元に近付け、フッと息を吹きかけて投げた。
呪符は一瞬で形を変え、雄々しくも優美な純白のペガサスとなる。
「ハンクの指示に従え! 行け!」
ペガサスは光の矢の如く駆けてゆく。
ハンクのほうは、急にパワーアップした堕天使らに押され気味になっていた。氷の強度を高めても、全ての堕天使を封じきれないのだ。ほとんどの堕天使は小柄で、翼もかなり小さめである。しかし何体かに一体、大きな翼を持つ堕天使が混ざっている。それらは氷漬けにすることができず、かと言って、倒す方法もない。氷の刃による攻撃で足を切断、再生するまでに移動して距離と時間を稼ぐという、埒の開かない消耗戦になっていた。
だが、その再生速度が徐々に上がっているのだ。
「く……まずいな……この中級ども、切ってもすぐに……!」
ハンクの中で、小さな翼が低級、大きな翼が中級という区分が出来上がっていた。その認識は間違っていない。実際、天使としての階級でも彼らはその通りの扱いだ。そして人間が立ち向かえる堕天使としては、その位階の者までが限界である。四枚、六枚の翼を持つ堕天使と戦えるのは、天使と同等の神格を持つ神々のみ。それも戦闘に特化したタケミカヅチやニケのような数柱の神に限られてしまう。
「うっ!」
ハンクが相手にしている中級は三体。そのうち二体の復活が同じタイミングになってしまった。ハンクが近くの一体に向けて氷の刃を振り抜いた瞬間、もう一体に死角から衝撃波を撃ち込まれた。
脇腹に直撃し、ハンクは片膝をつく。
「そのまま伏せて!」
ボナ・デアの声に、ハンクは素直に従う。
すると一秒前までハンクの背中があった場所を、三体目の放った黒い矢が通過した。
「立って! 前方に走るの!」
指示を出しながら、ボナ・デアはハンクの怪我を治し、消耗した魔力を回復させてやる。癒しの女神の加護が無ければ、ハンクはとっくに絶命していただろう。
「すまない! だが、ボナ・デア、貴女は大丈夫なのか? そんなに力を使っては……」
「いいえ! これでも女神です! このくらい、どうってことありません!」
「それならいいが……はっ!」
素早く振り向き、追ってきた堕天使の両足の膝を切断する。くるりと一回転したその動作で、あと二体の位置も確認している。ハンクは振り向きもせずに氷の矢を放ち、二体を足止めする。
その隙に、ハンクはとにかく走る。止めを刺す手段を持たない以上、堕天使から逃げ続ける以外に生き残る術がないのだ。
「その……女神に意見するのは、分をわきまえぬ行為のような気もするのだが……無理はしないでほしい! 俺は、貴女につらい思いをさせたくない!」
「は……はいっ!」
こんな窮地にありながら、ボナ・デアは頬を紅潮させ、瞳をキラキラさせていた。
ハンクは、自分がとんでもない必殺技を使っているという自覚がない。癒しの女神を労わり、ときめかせるという行為。それは女神の能力値を最大に引き上げる究極の手段である。
信仰心は確かに神の力になる。感謝の言葉で神は満足し、人間に加護を与え続ける。だが、それは『与え、受け取る』だけの関係である。それが役目と割り切っている神はそれでも十分な能力を発揮するが、やはり心を持つ以上、無償の愛や優しさを嬉しく思うものなのだ。
今、ボナ・デアの能力は通常時の数倍に高まっている。それは彼女を宿すハンクの攻撃にも影響を与えていた。
またもハンクに追いついた堕天使に、氷の刃を見舞う。と、その氷が淡い緑色に輝いている。まるでウラングラスのような、幻想的な光。その光に照らされ、堕天使は悲鳴を上げた。
「これは……!」
癒しの光は、絶望の果てに堕ちた天使の闇を中和した。
すべてを一気に浄化することは出来なくとも、氷の刃で切断した左腕は元の状態――白く滑らかな肌の、天使の左腕に戻っていた。
「貴女の光……ですか……?」
自分が手にしている氷の剣。透明なそれが、今、まばゆい光で満たされていた。
「……美しい……ボナ・デア。貴女はなんと美しく、清らかな女神なんだ……」
下心ゼロ。陶然と零された感想は、女神ボナ・デアへの本気の賛辞である。ハンクはボナ・デアが自分に恋心を抱いているとは思いもしない。だからこそ、率直な言葉で女神を称えたのだ。
だが、言われたボナ・デアのほうは『さらり』と流すことなどできない。
本気で好きな男から、面と向かってこんなことを言われた乙女心がどうなるか。
答えはひとつ。超・オーバードライブ状態である。
これまでにハンクが出現させた氷の柱、その数九十九本。今、そのすべてが同じ緑の光を放っていた。
当然、中に封じられた堕天使らは全身に光を浴びている。その結果――。
「あ……わ、私、は……?」
「戻った……翼が、純白に戻った……?」
「主よ! 我が罪を御許し下さい! 私は何と愚かな真似を……」
「ジェイコブ⁉ ジェイコブはどこ? 私が貴方を死なせてしまったこと、謝らせて!」
「フューリィ! 私、元に戻ったよ! ごめん! ごめんね! どこにいるの⁉」
ハンクが魔法を解除してやると、天使たちは我先に人間たちのところへ飛んで行った。
氷に閉じ込められていた堕天使だけではない。少し離れた場所にいた堕天使らにも、ボナ・デアの光は届いている。
今、この世界全体の闇が薄れ、堕天使らの動きは鈍っている。
それに気付いて攻勢に転じたのは、ベイカー、トニー、ゴヤの三人である。
合流してグレナシンらのもとへと急いでいた三人だったが、いずれも浄化能力を有している。あと一押しで決まるこの場面で、『撤退』という選択はありえない。
「隊長! トニー! 炎合わせで!」
「ああ! 五芒星循環だな!」
「途中で外すなよ、ゴヤ!」
「トニーこそ!」
三人は細かい打ち合わせを必要としない。分身した三頭の黒犬と、ベイカーとゴヤ。それぞれが追ってきた堕天使らを包囲する形で散開し、持ち場に着いた瞬間、攻撃が開始される。
「《鬼火玉》!」
まずはゴヤが撃つ。だが、狙いは堕天使ではない。《鬼火玉》が飛んで行ったのはベイカーのほうだ。
「《火炎弾》!」
タケミカヅチは炎属性も使える。特殊効果が付加された鬼火と比べれば浄化能力は劣るが、なにせ神が放つ炎である。火力以上に、無駄に神々しく光る。
ベイカーは飛んできた《鬼火玉》を跳ね返すように、正確に自分の魔法を当てた。
《鬼火玉》が飛んでいった先はトニーである。
「《冥王の祝砲》!」
ベイカー同様、自分の魔法を上乗せして軌道を変える。飛んでいく先は二頭目の黒犬。
「《冥王の祝砲》!」
さらに火力を増し、《鬼火玉》は三頭目の黒犬へ。
「《冥王の祝砲》!」
そして再び、ゴヤのもとへ。
「《鬼火玉》!」
そこから先は、ずっとこの繰り返しである。はじめは握りこぶし大だった《鬼火玉》が、ボールをパスする要領で次に回されるたび、どんどん巨大に、強烈に成長していく。
その直径が三メートルを超えるころには、鬼火が掠った堕天使は一通り浄化されていた。
この一方的な絵面は、さながら不良グループvsいじめられっ子の『攻めっぱなしドッヂボール』のようであった。
「ゴヤ!」
「はい!」
ベイカーは自分が撃ち返した直後、バッと宙に飛び上がった。
そしてゴヤは次に自分に回ってきたとき、《鬼火玉》を下から当てて、巨大なボールを天高く打ち上げる。
待ち構えるベイカーは、両手それぞれに《火炎弾》の発動準備を整えていた。
「食らえ! ペンタクル・ホーリィ・フレェェェーーーイムッ!」
そんな美少女戦士が叫びそうな技名いつ付けたんですか! と、驚愕している犬と童貞の目の前で、最後の一押しをされた『鬼火玉のでっかいの』は、最大の闇めがけて飛んでゆく。
この世界全域に闇を振り撒く、邪神と悪魔の戦場に。




