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卑怯な僕と臆病な彼女

作者: 神谷アユム

 ごめんね呼び出しちゃって、と僕はまた彼女に謝る。ただの幼なじみでしかない彼女を、何かある度に呼び出すのは、信用のあかしと言えば聞こえはいいが、その実、単に彼女以外にうまく話せる相手がいないだけだ。

「祥ちゃんはいつもそれだね。謝るぐらいなら最初から呼ばなきゃいいのに」

 いつもとは違う思わぬ反撃に、僕は言葉に詰まった。いつもの彼女――若菜は、別にいいよ私も飲みたい気分だったし。で、何、と聞いてくれるのが常だったのに。これは帰れということだろうか。ならば最悪だ、今日ほど話を聞いてほしい日もないのに。

「……なんてね。ごめんごめん、冗談だよ。だいたい祥ちゃんって、男の人のくせに話とっ散らかってて、私じゃないと理解できないもんね。じゃあ行こっか。いつもの店でいい?」

 若菜が笑ったのを見て、僕は急激に安堵する。なんだよおどかしやがって、と言いかけたが、それではあまりに自分勝手すぎる気がしてやめておいた。

 いつもの雑然とした居酒屋の片隅で、僕はゆっくりしゃべりはじめる。誰かに聞いてほしかったこと。面倒臭い彼女の話。

「で、あいつったらこーんな怖い顔すんの。もうどうしようもねえよな」

「……それでも祥ちゃんは好きなんでしょ、彼女さんのこと。じゃあ祥ちゃんが悪いよ。ちゃんと謝らなきゃ……」

「別れたの。それで」

 若菜が絶句した。わかっていてこのタイミングで口にした。結局、彼女と別れたこと。

 祥一君とは未来が見えない、と、彼女――いや、もう元彼女か――がそう言い出したのは三日前の夜だった。その時はいきなり何を当たり前な、未だ来ずだから未来だろと思ったが、今よく思い出してみれば小さなサインはたくさんあった。手を繋がなくなったこと。電話がつながりにくくなったこと。メールやLINEが減ったこと。泊まっていく日が、極端に少なくなったこと。

「え、何どうしたんですか? どういう意味です?」

 精一杯優しい声を出したことを、今の僕はあざけり笑いたくなる。マヌケな男。相手は覚悟を決め、決意を固め、完全武装で僕を殺しに来ているのに、僕ときたら丸腰で、戦う意志どころか相手の攻撃に対する警戒すらない。

「そんなこともわかんなくなっちゃった? 私って何? 一緒にいすぎたら、空気みたいになってそんなこともわかんなくなっちゃうの?」

 彼女の声はひどく尖ってささくれ立っており、そこでやっと僕はこれが別れ話であることに気づいた。気づいたが、もう遅かった。僕との関係への殺意を胸に、彼女は言葉の刃を防御体制に入る前の僕に振り下ろす。残酷に、容赦なく。それが女というものだということは、友達の別れ話で散々知っていたはずなのに、いざ自分がその場におかれてみれば、僕は突っ立ったまま切られている居合いの巻き藁と一緒だった。

「祥一君はよかったかもね。普通の仕事して、普通に帰ってきてテレビ見て、私が作ったご飯食べて、お風呂入って寝て……でも祥一君、私の話いつもちゃんと聞いてた? 先の話は全部いつかねいつかねって、祥一君のいつかはいつ来るの? 私が仕事やめようかなって言った時、祥一君なんて言ったか覚えてる? 我慢するのもやめるのも冴子さんでしょ、自分で決めたらって言ったんだよ?」

 そのどこに問題があったんだよ、と、僕は思わず言い返してしまった。戦う意志もないくせに振るった一太刀は、彼女の殺意を完全に芽生えさせてしまったようだった。

「私は! 私は……付き合うってことは自分の人生に相手を巻き込むことだと思ってるし、祥一君にもそう思ってほしかった。いつまで私と祥一君の人生は別物なの? そりゃ祥一君はまだ二十四で、大人になるのはまだまだ先だって思ってるかもしれないけど……祥一君、私が今年いくつになるか知ってる?」

 彼女は大学の先輩で、僕たちの年齢差は三つ。僕の誕生日はまだだから、彼女は二十八になる。しかしながら、間抜けな巻き藁の僕でも、彼女が本気でそれを尋ねているわけじゃないことぐらいはわかった。

「言えないでしょ。男の人にとっては……祥一君にとっては別に取るに足らない年齢かもしれない。でも、私は……女は悠長にしてられないんだよ。地元の同級生で結婚してない子なんてもう片手で足りるぐらいしかいない。職場の先輩も、いつ結婚してやめるとか、子どもいつ生まれるとかさ……いつも笑ってやりすごしてたけど、気づいたの。冴子ちゃんの彼氏はちゃんとしてくれる気ないのって言われて、祥一君との未来なんて全然見えてないって」

 ああ、終わったな、と僕はこの瞬間思った。言われたことは全部図星で、僕はまだ考えの足りない二十代前半で、僕が別にまだいいかと見逃したことのすべてが、僕と彼女の関係にとって致命傷だった。

 そこまで言われて初めて僕は彼女の顔をちゃんと見た。鳥肌が立った。見たことのない顔だった。祥一君、と笑いかけてくれた優しい目元が、軽蔑を含んだ冷徹さをもって僕を見つめていた。

 しかしその瞬間、僕は気づいてしまった。彼女が隠し事をする時、右下に目線を反らす癖。それだけですべてわかってしまった。そして、それを口にすることにした。最低な男になって、別れてよかった正解だった、前の彼氏なんてね、と悪口の対象になることが、最後に残された、巻き藁の抵抗だった。

「あーそうですか。で、その未来とやらを見せてくれる男ができたんで、私は乗り換えます、俺みたいないい加減なポンコツ車は、ここで乗り捨てていきますってわけですね。未来が見えないなんて綺麗な言葉使って、結局はそういうことだろ」

 吐き捨てるように言い終わった瞬間に、グラスが飛んできた。ペアで買った薄青いガラスのそれは、僕の額に当たって机の角に跳ね返り、粉々に砕け散った。彼女がはっと息をのむ。いつもなら食器を壊すと、祥一君大丈夫、ケガしてない、と聞いてくるのに。

「……冴子さんって、ものに当たる時は図星の時なんですよ。知ってました? 一緒にいすぎたなんて言って、最後はほんとのこと言わないなんて卑怯ですね。そんな卑怯者と一緒に見る未来、俺にはありませんからおあいこですよ。これで満足でしょ。その次の、未来を見せてくれる素敵な彼氏に、好きなだけ俺を悪く言えばいい。もう十分でしょこれで」

「違う! 私はそんなこと……」

「綺麗事はもういいです。ほんとのこと言う気がないなら、帰ってください」

 僕は彼女に背を向け、二度と振り返らなかった。泣いているのがわかって、感情が彼女を抱きしめたがったが、理性がそれを強引に押さえ付けた。

 しばらくして泣き声は止み、彼女は一言、さよならとだけ言って出て行った。結局彼女は、自分の口からは本当のことを言わず、いなくなった。家にあった彼女の荷物を全部送って、連絡先を消した。大学一年の時から五年。終わりは呆気なかった。

「……と、いうわけ。ね、もう完膚なきまでに終わりでしょ」

「そ……だね」

 僕が一気にした彼女との別れ話を聞き終わった若菜は、それだけ言って黙り込んでしまった。普段聞かせるケンカの話の時は、それは祥ちゃんが悪い、とか、そこは理解してほしいよね、などと的確にアドバイスをしたり、意見を言ったりする若菜が、今回に限っては言葉少なだった。

「若菜? わーかなぁ、慰めてよ。五年も付き合ってきて、俺は彼女の代わりなんかいないと思ってたのに、相手には代わり見つけられて、最後はその新しい彼氏庇われて終わりだぜ。はかないもんだよなぁ」

「それは……そだね。悲しいね」

 こういう場合僕の代わりに、そんなの卑怯だよねと怒ってくれるはずの若菜の短い答えに、僕は驚いて彼女を見る。それと同時に、彼女は見たことのない顔をして笑って――その瞬間、大粒の涙がぽろっと、こぼれた。

「わ……かな?」

「あはは。今日は無理だ。隠せないや。あーあ。最後まで幼なじみとして……親友として、隣で背中押したげる気だったのに。なんでここで泣いちゃうかな。台なしだね。ごめんね祥ちゃん。せっかく頼ってくれたのに。でも……呼んでくれてありがとね」

 彼女はそう言って立ち上がる。若菜、と呼び止めて掴んだ手を、彼女は振りほどいて、財布から札を何枚か抜き、私の分、と言って僕の手に押し付けた。

「……あ、ちょっとこないだの映画みたいって思ったのに、自分の分渡しちゃったらまた台なしじゃん私。あはは……」

 じゃあまた今度ね、と言って、若菜は店を出てしまった。僕はその場に立ち尽くした。本当はどこかで、わかっていた。それを若菜が言わないのをいいことに、僕は若菜を利用した。若菜の気持ちを――利用した。そんな僕に、彼女を追う権利はない。第一、追ってどうする。さっき未練たらたらな元カノとの別れ話を聞かせたばかりの、僕のことを好きな幼なじみを。

 今度ね、という言葉は多分嘘だ。それもわかってしまった。元カノとは五年の付き合いだったが、若菜とはもっと前から友達だった。だから、わかった。もう若菜は、今夜を逃せばもう二度と僕に会う気はないだろう。

 一体いつから、彼女は僕のことをそんな風に想っていたんだろう。僕自身見ないふりをしているうちに、いつなのかわからなくなってしまった。

 何一つ、してやらなかった。言わない彼女をいいことに、遠ざけることも。彼女を女の子として扱うことも。何一つ、何一つ。

 周りの客の視線を感じながら、勘定をして店を出る。もう遅いかもしれない。もうどうしようもないかもしれない。でも、誰よりもずるい僕は、元カノよりずっと卑怯者の僕は、それでも――走り出した。

 見つからなくても。追いつかなくても。僕は彼女を追わなければならない。見つかって何も言えなくても、とにかく。

 やっとわかった。わかってしまったからだ。元カノと同じように――元カノ以上に、若菜の代わりはどこにもいないということに。

街の明かりを反射して、ほの明るい夜の街を、僕は走り出した。

back numberを聞きながら黙々と書いたらこんなことになってしまいました。

そのうち若菜サイドも書く予定です。

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