明日が来ない場所
1
その兆候に最初に気づいたのは、アキだった。
「誰かここに来てるんだわ」深刻な口調で呟く。「わたしたち以外でって意味だけど」
アキの目線は彼女の足元に向けられていた。くしゃくしゃに丸められた紙屑だ。風が吹くたびにかさかさと音を立てて転がる。
「そりゃあ、誰かしらは来るんじゃないかなあ」
「何よ、のほほんとして」アキは棘のある口調で言った。「ナツにはこれがどういうことを意味するかわからないの?」
これは気をつけなくてはいけないぞ、とナツは思った。アキは興奮すると周りが見えなくなる。いまだってそうだ。おそらく無意識にだろう、ストローが刺さったアップルティーの紙パックを固く握りしめている。これ以上、感情が高ぶれば何が起こるかは明らかだった。アップルティーの噴水。巻き込まれれば、午後の授業は林檎の匂いを漂わせながら受けることになる。
「そりゃあ、ポイ捨てはよくないけどさあ」ナツは恐る恐る言った。
「そうじゃなくて」アキは苛立たしげに言った。「わたしたちの居場所が荒らされたのよ」
どうやらアキの訴えんとするところを読み違えたらしい。軌道修正が必要だ。
「まあまあ、落ち着けよ。屋上はみんなの場所だろ」ナツは言った。「でも、たしかに意外と言えば意外だよな。なんだってこんなところに来たんだろう。屋上なんて雨ざらしで汚いだけなのに」
クラブ棟の屋上。ここから先には何もない。学校は高台の上にあった。周囲に学校より高い建物は存在しない。屋上まで上がれば、神様の気分で街を睥睨できる。ここより高い場所なんてもう空の上にしかない。ここが世界の果て。言い換えるならどん詰まりだ。
アキはナツを睨みつけた。
「じゃあ、なんでナツはそんな汚い場所に飽きもせず来るのかしら」
「さあね」ナツは肩をすくめた。「たぶん、他に人が寄って来ないからだろ」
「なら、わたしの気持ちがわかるでしょ」アキは勝ち誇ったように言った。だが、ナツが安心したのも束の間、こう続ける。「いまに見てなさい。ここもじきにお花見の会場みたいになるわよ。ゴミが二つ、三つと増えるだけじゃなく、騒々しい人たちがどかどか乗り込んできて宴会をはじめるんだわ」
何か花見に嫌な思い出でもあるのか、アキは話しながらどんどんヒートアップしていった。
「ここに桜はないだろ。それに花見って季節でもない」ナツはため息をついた。「要はこの紙屑がすべての元凶なんだろ」
ナツは紙屑を拾い上げた。くしゃくしゃになった紙を広げた瞬間、今度はナツの顔がくしゃくしゃに歪んだ。
「どうしたのよ」アキが尋ねた。
「いや」ナツはふたたび紙を丸めた。
「怪しいわね。ちょっと、それ貸しなさいよ」
アキが手を伸ばしてくる。ナツは紙をかばうようにして体をひねった。
「貸しなさいったら」ムキになったアキが言った。
二人はバスケットボールの選手がボールを奪い合うようにして、紙をめぐる攻防を繰り広げた。が、やがて体勢を崩したアキがナツに衝突し、そのまま二人は折り重なるようにして倒れた。
「いってえ……」
「ごめんなさい」
そう言うアキの顔がすぐ真上にあった。小作りな顔だ。この距離だとまつ毛の一本一本までもが視認できる。とび色の瞳に、ナツの姿が映って見えた。絹のような黒髪が垂れ、ナツの頬をくすぐっていた。目が合ったのはほんの一瞬で、二人の顔は磁石が反発し合うようにしてすぐに反対の方向を向いた。林檎の匂い。顔のすぐ脇にアップルティーの紙パックが転がっていた。
「お二人は今日も仲がいいですね」
二人は声のした方を向いた。
いつからそこにいたのだろう。フユが二人のすぐ脇でしゃがみこんでいた。どことなく、モノクロ映画から抜け出してきたような雰囲気の少女だ。肌は白く、髪や眼は真っ黒。両手で頬杖をつきながら二人の様子をじっと観察している。
「お、脅かさないでよ」アキが立ち上がった。
「……いつからいたんだ?」
「この紙を奪い合いはじめたあたりからですかね」フユは紙屑を掲げた。どうやらもみ合いのさなかに手放してしまったらしい。ナツが「あ」と声を上げる間もなく、ナツは紙を広げた。
「何の紙なの?」
アキが尋ねると、フユは無言で印字面をこちらに向けた。
「進路調査票?」アキが眉根を寄せて言った。「なんで隠そうとしたのよ」
「いや、なんとなくだけど」
「なんとなくで、あんな痛い目をしたわけ?」
「でも、いい運動になっただろ」
ナツはとぼけるように言った。ここではそういう話をしたくなかったから、というのが本音だった。フユやアキと推薦入学の定員数や、高卒社会人の初任給の額について話し合うなんてまっぴらごめんだった。それよりは、紙屑の取り合いでもしてた方がよっぽどましだ。
アキも内心は同じだったのだろう。紙のことにはそれ以上は触れず、再び丸めてビニール袋に入れた。
「それにしても、ハルちゃんはまだ来てないんですか」
「ああ、そう言えば遅いな」ナツはハルの顔を浮かべながら言った。「ハルがそのことに気づいてるかはわからないけど」
ハルの辞書に「遅い」や「早い」という言葉が存在するかさえも疑問だ。彼女の時間は彼女の中で完結している。屋上に来る時間はまちまちだし、弁当は食べたいときに食べ、衣替えの時期にも頓着しない。
――わたしね、時間の関節を外す方法を知ってるんだ。
いつだったか、そんなことを言っていた。そのときの反応は三者三様で、アキは目ざとくシェイクスピアの引用であることを指摘したが、ナツはハルが柱時計をばらばらに分解して元に戻せなくなった様を想像し、フユはハルが本当に時間の関節を外せるものと信じ込んだかのように尊敬の眼差しを向けた。
フユはどこからか持ってきた古新聞を床に敷き、その上に腰を下ろした。手に提げていた小ぶりな弁当箱をすぐ脇に置く。フユはハルが来るまで弁当箱の蓋を開けない。
「お二人はもう済ませたんですか」
「まあね」ナツは答えた。「アキはダイエット中だから抜いたけど」
「余計なこと言わなくていいの」アキは紙パックを拾いながら言った。「それより、ナツ。ストロー余分に持ってない?」
どうやら、ストローが汚れたらしい。
「わたしが使ったやつならあるけど……」ナツは自分のビニール袋の中に手を突っ込んだ。
「そんなの使えるわけないでしょ」
「潔癖だなあ」
「ナツが無頓着なだけよ」アキはため息をついた。「まあ、いいわ。これ、あげる」
「じゃ、もらっとく」
ナツはアキの手の上から紙パックを掴んだ。瞬間、アキは「ひゃ」と声を上げ、手を離した。
「危ないな」
ナツはなんとか紙パックを落とさずにすんだ。自分のストローを刺して口をつける。
「ところで、ナツ」アキは言った。「そのアップルティー、一二〇円したんだけど……」
「金取るの!?」噴き出しそうになりながら訊いた。
「冗談よ」アキはくすっと笑った。「そんなに驚かなくてもいいじゃない」
「真顔で言うからだろ」ナツは言った。「にしても、ハルは今日休みかな」
ナツは呟いてから後悔した。自分たちの関係がどれだけあやふやなものかを浮き彫りにしてしまったような気がしたのだ。ハルの連絡先を知る者はいない。ハルだって携帯電話くらいは持っているだろうが、使っているのを見たことはない。一番仲のいいフユはそもそも携帯電話を持っていなかった。
「でもまあ、今日がダメなら明日会えるしな」ナツは誰にともなく言った。「そうだよ、明日があるじゃないか。いつだって明日があるんだ」
しかし、その明日は永遠に訪れなかった。
2
ナツはそのニュースを夕食の席で知った。
形ばかりの団欒の時間。両親とナツ、それに弟の。まだ十歳にも届かない弟がうるさくくっちゃべる以外に会話らしい会話はない。自室に引き上げたいくらいだが、それを自ら主張するのもいかにも思春期という感じで気恥ずかしい。ナツは「いただきます」と「ごちそうさま」の間には一言も言葉をさしはさまず、黙々と箸を動かすのに終始するのが常だった。
いてもいなくても同じだ。しかし、家族がどれだけナツに注意を払っていなかったとしても、その瞬間だけは別だった。ナツはテレビのニュースがはじまるや否や、驚きのあまりむせ返ってしまったのだ。
「ちょっと、大丈夫?」母親が弟との会話を中断して言った。
「これ、姉ちゃんの学校じゃない?」
弟がテレビを箸で指しながら訊いた。家族の目線がテレビに集まる。弟の箸の先、四二インチの画面の中で、ハルが微笑んでいた。おそらくは学生証の写真だろう。その写真と「行方不明」の四文字が結びつくまでには時間がかかった。
「知り合いなのか?」
父の問いかけに、ナツは思わず首を振った。そのことに自分自身驚く。首を振った理由は自分でもわからない。でも、屋上での関係を人に話したことはなかったし、また説明が容易でないことはわかっていた。
(ああ、そうなんだ。毎日屋上で会ってるんだけど、苗字もクラスも知らなくて……)
「ねえ、この人誘拐されたの?」弟が訊いた。
「わたしが知るかよ」
弟は「誘拐だ誘拐だ」と楽しそうに繰り返した。
「ダメよ、おもしろがったりしちゃ」
「だってうちとは関係ないでしょ」
「たしかに身代金目当ての誘拐なら、うちを狙うとは思わないけど……」
「おいおい」父が苦笑する。「水を挿すようだけど誘拐だけはないと思うよ。そういうときは報道協定というのが結ばれるから、こういうかたちで報道されたりはしない」
「ということは家出?」と母親。
「さあね。何か別の事件に巻き込まれたという可能性もあるし……」
「たとえば?」弟が無邪気に尋ねた。
「たとえばだな……」父親は言葉を詰まらせた。
「ごちそうさま」ナツは茶碗を叩きつけるようにして言った。
「あら、さんまならもう一匹食べてもいいのよ?」
「気分じゃないんだよ」
ナツは食器を流しに運んだ。
「でも、あの子の顔、どこかで見たことあるのよね」
リビングを去る間際、母がそうひとりごちるのが聞こえた。その理由がわかったのは翌日のことだった。
3
翌日の昼休み、ナツが屋上に上がると、すでにアキとフユの姿があった。フユはアキのスマートフォンを見せてもらっている。教室でも見た光景だ。
その日の教室はハルの話題で持ちきりだった。ナツはそこではじめて、ハルが八組の生徒であることを知った。それだけではない。ハルはむかしジュニアタレントをしていたことがあると言う。活動期間は短く、またとりたてて有名だったわけでもないが、朝のニュースでは彼女が出演したホームドラマやランドセルのCMの映像までもが流れたそうだ。
――全然気づかなかった。
――知ってたらサイン貰ってたのに。
――でも、もう引退したんでしょ?
スマートフォンを覗き込みながら歓談する同級生たち。きっとハルの映像を見ているのだろう。自分の知らないハルが同級生たちの手の中で微笑んでいる。そう考えると、なぜか気分が悪かった。
早く昼休みが来ることを願った。だが、そういう日に限って時間の流れはひどく緩慢に流れて行くように感じた。
「逢坂千春ね」ナツはアキのスマートフォンを覗き込みながら言った。「どうりで見覚えがある気がしたんだよ」
「そんなこと言わなかったじゃない」
アキは今日も神経がささくれ立っているように見えた。
「知ってたか」
ナツが問うと、フユは力なく首を振った。
三人はしばらく肩を寄せ合い、幼いハルが母親役の女優に泣きつく場面や、他の子供と一緒になってランドセルの軽さをアピールするように飛び跳ねる映像を見ていた。
「ハルちゃん、ぴかぴかしてますね」フユは言った。「わたしたち、ハルちゃんの何を知っていたんでしょう」
それを言われると弱いのが、四人の関係性だった。ここは吹き溜まりのようなものだ。自分みたいな流れ者が最後に行き着く場所。他の三人にしたってきっと望んでこの場所に集ったわけではあるまい。強い風が吹けばまた別の場所に流れていく可能性はいくらでもある。
「知ってることなんていくらでもあるさ」
「たとえば?」
「大食いでいつもでかいランチジャーを持ち歩いてた。だし巻き卵とアルパカが好きで、蜘蛛が苦手だった。音楽が好きで、iPodにもすげえ数の曲を入れてた。最近のポップスもあればビートルズやクラシックの曲も入ってたな。カオスそのものだったよ。あとはえーと、アキにパス」
「わたし?」アキは言った。「え、えーと、そうね。身長はわたしと同じぐらいで、マイペースで、えーと……」
「ほらな」ナツは慌ててさえぎった。「わたしたちだって何も知らないわけじゃない」
「ではナツさんは知っていますか? ハルちゃんがどこに住んでるのか。どうしてタレントをやめたのか。そして、いまどこにいるのか」
沈黙が下りた。
「すみません。お二人なりに励ましてくれたんですよね」
フユは寂しげに微笑むと、足を引きずるようにして屋上を後にした。
「ねえ、フユ明日も来るかしら」
「どうだろ。あの様子だと二、三日は休んでもおかしくないけど……」
「それだけですめばいいけど」
「おいおい、フユまで消えるような言い方はやめろよ」
「そうならないってどうして言えるの?」アキはほとんど泣きそうになりながら言った。
「落ち着けよ。まだハルのことだって何もわかってないんだ。二人ともすぐここに戻ってくるかもしれないだろ」
だが、アキの懸念は現実のものとなった。
4
フユがいなくなって一週間が経った。ハルのように報道されることもない。失踪したわけではないらしいが、二人には学校に来てるのかどうかさえもわからない。
「どのみち、ここに来ないならいないのと同じよ」アキが呟いた。
慰めようにも言葉が見つからなかった。その日は曇天だった。太陽の姿は見えず、空はいまにも泣き出しそうに見えた。
「ねえ、ナツ」アキは虚ろな目をして言った。「こんな経験がない? そろそろ衣替えの時期だと思って学校に行くでしょ。そしたら、自分一人だけがみんなと違う服を着てるの。それではじめて衣替えの時期にはまだ早かったんだってはじめて気づくの」
「なんだよ急に」
「あるいは、こういうのはどう? 友達と約束した時間に待ち合わせ場所に行っても誰もいないの。一時間、二時間と待ってようやく来るんだけど、みんなわたしが約束の時間を間違えたと主張するの。そして事実、そうなのよ」
アキは続けた。
「ねえ、おかしいのはわたし? それとも世界の方? 時間なんてものは本当に存在するの?」
これが冗談なら、ナツにもまだかける言葉があっただろう。だが、アキの表情はいたって真剣だった。
「わたしね、物心ついた頃にはもう手首に腕時計が巻かれていたのよ。親にそのことを訊いたら、わたしが時間の迷子にならないようにだって言うの。きっと、むかしから時間の感覚に乏しかったのね。だから、わたしは誰よりも時間を気にしなければならなかった。わたしの一日は腕時計を手首に巻くことからはじまるの。まるで、手錠でもかけるみたいにね。事実、わたしは時間の奴隷だわ。何をするにも時計を確認せずにはいられない。そうでないと、時間からはぐれてしまいそうだったから。でもね、そういう生き方はとても疲れるの。わたしは時間から逃げたかった。そして、気がついたらここに流れ着いていた。ここは不思議な場所だわ。いたいと思えばいつまでだっていられるような気がする。わたしが本気でそれを望めばってことだけど。実際には、いつまでもチャイムが鳴らなければそれはそれで不安になりそうだもの。たとえ、ここが天国でも、わたしにはまだ未練があるんだわ。『下』の生活への未練が」
アキは言い切ると、雲の切れ間から差し込む光でも探すように視線を彷徨わせた。
「ハルやフユは、その未練を断ち切ってしまったのかも。きっと、ここの他にも時間の魔の手が及ばない場所があって、二人はそこを見つけたんだわ」
ナツにはアキが言ったことの半分も理解できなかった。それでも、何か言葉をかけるべきだと思った。いまのアキはきっと風船のようなものだ。自分がしっかりひもを握っていないと、どこに飛ばされるかわからない。
「フユを探しに行くぞ」口にして、自分でも驚いた。
「どうして」
「だって、このままじゃ嫌なんだろ」
「そうだけど。違うの。それは根本的な解決にはならない。わたしが言いたいのは――」
「ああ、もう」ナツはもどかしげに言った。「お前はフユに会いたくないのか?」
「会いたいけど」
「ならそれでいいじゃないか。ほら、行くぞ」ナツはアキの手を取った。
「一応訊くけど」アキは手を引かれながら言った。「フユのクラスは知ってるのよね?」
「お前は知ってるのか?」
5
クラスはおろか、学年さえ知らなかった。制服のスカーフは学年ごとに色が違うが、フユはいつもその上から紺のカーディガンを着ていたため一度も視認できなかった。背格好や言葉使いから下級生であろうことは察せられたが、確証はない。ナツたちは、フユのことを何も知らなかった。
二人は一年生の教室を回った。そこらにいる生徒に適当に声をかけ、フユのことを訊く。声をかけるのはナツの役目だった。アキはその後ろをついて回るだけ。
「フユさん?」その一年生は眉根を寄せて言った。いったい何人目だっただろう。廊下を一人で歩いているところをつかまえたのだ。「フルネームはわからないんですか?」
「ごめん。それしかわからないんだ」
後輩の顔からは不審の念がありありと伺えた。
「先輩たちはどうしてその人を探してるんですか」
「急に連絡がつかなくなったんだ」
「よくわかりませんけど、友達だったんですか?」
「どうだろうな」アキに肘を入れられた。「いや、友達だ。友達」
「連絡がつかないってことですけど、電話番号とかメールアドレスは知ってるんですか?」
「いや」
後輩の表情がますます曇った。
「じゃあ、どこで知り合ったんです」
「それは話すと長くなるというか」ナツは苦笑した。「ごめん。急にこんなこと言っても怪しいだけだよね」
「いえ」口ではそう言ったが、目は「はい」と言っていた。
その後も、教室を移動しながら訊いて回ったが、誰もフユのことを知らなかった。名前の似た生徒に当たっても、そのすべてが別人だった。
「まさか同級生だったのか?」
「先輩っていう可能性もないではないわよ」
ナツは首を振った。「考えられないな。フユを先輩と呼ぶなんて」
二人は職員室に向かった。一年の担任をつかまえて話を聞く。だが、やはり心当たりがないという。
「本当に知りませんか? こう……ちっちゃい子で年中カーディガンを羽織ってて……」
そのとき、後ろから初老の技術教師が割り込んできた。
「ああ、そんな生徒がいたなあ」
「本当ですか」
「ああ、たしか錦戸不由美って名前だった」教師は頷いた。それから首を傾げ、「でも十年は前のことだぞ」
「十年?」
「ああ、そうだ。ちょっとした有名人でな。というのも……と、その前に当時の背景を説明しておこう。いまのクラブ棟は二十年ほど前に建てられたんだ。それ以前まで使われていた……つまり旧クラブ棟はその北東に立っていた。二つの棟はある時期まで併用されてきた。だがいよいよ取り壊しの話が持ち上がってきてな。旧クラブ棟を根城にしていたいくつかのクラブが潰れたんだが、中には立ち退きを拒否する生徒もいた。彼女もその一人だったんだ。それで……あれ」
「どうしたんですか」
「思い出せないんだ」教師は困惑したように言った。「いや、旧クラブ棟はなくなった。それは覚えてる。現にクラブ棟はいま一つしかないだろ? でも……その解体作業がいつだったのかさっぱり思い出せないんだ。旧クラブ棟は気がついたらなくなっていた」
教師は「おかしいなあ」と繰り返した。
「それで、その女の子はどうなったんですか?」
「ああ、いなくなった」教師は思い出したように言った。「それこそクラブ棟ごと異次元にでも吸い込まれてしまったように」
「本当に幽霊だったのかも」屋上に戻ると、アキは言った。「ねえ、ナツはいったい何者なの」
「なんだよ急に」
アキは聞こえなかったように、
「タレント? 幽霊? ねえ、わたし、もうハルやフユのときみたいに驚きたくないの。ナツだってきっと消えちゃうんでしょ。そうなる前に、ナツが何者なのか知っておきたいのよ」
「馬鹿言うなよ。わたしはどこにも行かない」
そうさ、ここから先はどこへも行けないんだ。
「本当に?」アキがすがるような目で言った。
「ああ」ナツは微笑んだ。「明日また屋上で会おうぜ」
「明日だけ?」
「明後日も明々後日も、だ」
明々後日はもう休日だが、そのことにはあえて触れなかった。
「ごめん。わたし不安定になってた」
「そうじゃないときがあるか?」
「もう、馬鹿にして」
そこで、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
「本当にちょうどいいときに鳴るんだな」アキは呟いた。
「そうね」アキはくすりと笑い、ドアに向かった。
「またね。ナツ」
「ああ、また」
6
アキが消えた。屋上にはとうとうナツ一人だけが残された。
「お前が消えてどうするんだよ」
手すりにもたれながら呟く。冷たい風がナツの頬を撫でた。昨日はこんなに寒かったろうか。ついこの前まではまだ夏じゃなかったか?
「時間の迷子か」ナツは自嘲するように呟いた。きっとこんなところにいるからに違いない。自分もどうやら時間の流れから取り残されつつあるらしいぞ。
「帰ろうかな」
呟いた瞬間、屋内につながるドアの方から話し声が聞こえてきた。それに階段を上る足音。徐々に近づいてくる。ナツは息を飲んだ。ハル、アキ、フユ。三人の姿が立て続けに脳裏を横切って行った。
ドアが開くと、そこから見知らぬ顔が四つ並んで現れた。ナツの姿を見てぎょっとしたように目を丸めている。
驚いたのはこっちの方だ。ナツは思った。別に本当にあの三人が戻ってくることを期待していたわけではない。知らない人間がここに上がってきたこと自体は驚きではなかった。問題は別にある。
四人はナツが見たことがない色のスカーフをしていた。
「人がいるじゃん」
四人組の一人が言った。
「どうする? 別の場所にする?」
「でも、ここなんでしょ」
それから一人がナツに声をかけた。
「あの、自分たちのことは気にしないでください」
「ああ、うん」
ナツは答えた。そう答えた手前、すぐに立ち去るのもばつが悪く、ナツはふたたび手すりにもたれかかり、街を見下ろすことにした。
あのスカーフの色はいったい何なのだろう。スカーフの色は進級するごとに変わる。紺、臙脂、萌葱。この三色だ。それ以外の色はない。髪の色やスカート丈をちょっといじるくらいならまだしも、スカーフの色を変えて教師に見とがめられないとも思えない。
背後からは、パンの袋を開ける音や、電話を操作する音、それにひそひそと囁き合うような声が聞こえてきた。
「ホントにどっか行かないし」
「空気読めっての」
「しーっ、聞こえるよ」
ナツはレジャーシートを広げて坐した四人組に近づいて言った。「いてもいいって言ったのはそっちだろ」ナツは続ける。「わけわかんないよ。ハルもフユもアキもお前らも、みんなみんな好き勝手ばっかして――」
そこまで言って我に返った。呆然とした顔が四つ、ナツを見上げていた。
「好きに使えばいいだろ。心配しなくても、もう来ないから」
ナツは最後にそう吐き捨て、屋上を後にした。
ナツはクラブ棟の廊下を走り抜けた。廊下には、文化祭の用意だろうか、塗装された段ボールや椅子が出されている。文化祭はこの時期にやるんだったか? いや、そもそもいまはいったい何月だったろう。
どうだっていい。
ナツは廊下を走り抜けた。走っている間に、ナツを取り巻く環境はめまぐるしく変化していった。窓の外では、太陽と月が代わりばんこに顔を出し、それに合わせて気温も激しく上昇と下降を繰り返した。廊下を行き来する生徒たちにはいずれも見覚えがなく、この異常事態に何ら疑問を覚えていないようだった。
時の関節が外れてしまった。アキならそんなことを言ったかもしれない。
ナツは気がつけば、中庭に出ていた。吹きつける風の冷たさは紛れもなく冬のもので、中庭に植わった桜はいずれも寒々しい姿をさらしていた。
「やっと正体を現したな」ナツは誰にともなく言った。「やっぱりデタラメだったんだ。お前たちはずっとそうだったんだ」
ナツはうなだれた。その場で倒れ込むようにして膝をつく。
「ようやく気づいたんだね」
頭上から声がかかった。すぐに顔を上げる。
「ハル」
「時間なんて本当はどこにもない」ハルは道端のタンポポに向けるような笑みを浮かべた。「だから、ちょっとコツさえつかめば、わたしたちは時間から自由になれる。望めば永遠だって手に入るんだよ」
ナツはハルの手を取り立ち上がった。そのときはじめて、アキとフユがいることに気づいた。ハルカの背後で、微笑んでいる。三人の身長は自分の胸のあたりまでしかない。それに、ぴかぴかのランドセルを背負っている。
「さあ、行こう」
ハルがナツの手を引いた。その瞬間、ナツは背中に違和感を覚えた。次いで、体がふっと軽くなり、視線がぐっと下がった。困惑するナツを見て、アキとフユがふっと笑った。
ハルの背中で、桜色のランドセルが軽やかに踊る。きっと、自分の背中でも同じことが起こっているのだろう。
向かう先には、見たこともない、ぴかぴかの校舎が誇らしげに表を構えていた。そこに何があるのかはわからない。永遠。それ以外のことは何も。
けれど、それ以外に何が必要だろう。
こんなに胸が高鳴るのだ。「永遠」はきっとランドセルや校舎よりももっとぴかぴかしているに違いない。
ナツはハルに手を引かれながら、満開の桜が立ち並ぶ道を歩いて行った。