宿屋にて 2
「な、なんでお父さんの時計が…」
フレイナが手に持つ懐中時計は、昔からよく父が大切にしていたものだった。
精密な彫り込みがされた銀色の懐中時計は、少しばかり古臭くはあるものの正確に時を刻んでおり、
よく父が椅子に座って布で丁寧に磨いているのを眺めていた。
そして、
父はよく、自分がこの世を去ったとき、懐中時計をフレイナに託すと口癖のように言っていたのだ。
そのことを思い出し、時計を持つフレイナの手がカタカタと震えた。
良くないことが起こってしまったのかもしれない。父に何か、あったのかもしれない。
良くない想像はまるで坂道を転げ落ちるかのように加速する。
「おねーちゃん…?」
不安そうなマリナの声でフレイナは我に返った。
せめて、この子に今の自分のような不安な思いをさせてはいけない、と思った。自分は姉なのだから。
「あ…ご、ごめんね、ちょっとぼーっとしちゃった。
そろそろ混み出すからさっさと夕食のじゅ、準備しなくちゃ。
あ、その、エシルさん?でしたっけ。もし宿が決まってないようでしたら泊まっていってください…。
懐中時計のお礼と妹がご迷惑をおかけしたお詫びに、タダでいいですから」
「それはありがたいが、お代はちゃんと払うから。普通に、一般客として泊めてくれ。
あとこれ、落ちたぞ」
動揺を悟られないようにフレイナは努めて冷静を装ってエシルから紙切れを受け取った。
それでも指先は震えてしまっていたけれど、彼は何も言わずに傷んだ羊皮紙を渡した。
目だけは確かに彼女を気遣っていたが、無理に先程から様子のおかしい彼女を問いただすことはしなかった。
フレイナは受け取った紙に目をやらず、エプロンのポケットにねじ込むと小さくすみません、と言って厨房へと引っ込んでいった。
「おねーちゃんどうしたのかなあ…。なんだか急に元気なくなっちゃったのね……」
「そうだなあ…」
依頼の内容は〝グルド・アムル氏の御息女に氏の遺品である懐中時計を届けること〟である。
つまり、彼女の父親は既に亡くなっている可能性が高い。
(あの子の様子からすると、なんか察したのかもな…。しかし…どうして両親と離れ離れに…)
「なあマリナ、いくつか聞いてもいいか?」
「んー?なあに?」
「この宿は今現在、マリナとお姉さんの二人で経営しているのか?」
「うん、そうだよ?」
「じゃあ、言いにくいかもしれないが…ご両親はどこに?」
「んーと、ぐんい?がふそくしてるとかなんとかでねー、半年くらい前にどっかいちゃったのね」
「そうか…。ん?ていうことはご両親は医者もしていたのか?」
「ううん、お医者さんではないのね。でも回復魔術が使えたのね」
「そうか…だから軍医か…」
この世界で魔術を使えないものは非常に少ない。能力に個人差はあれど、タバコに火をつける程度の事は子供にだって簡単にできる。
転移魔術や複合魔術などの複雑な魔導式を必要とするものであっても、努力次第で使えるようになる。
しかし、回復魔術だけはこれらに当てはまらない。
回復魔術は魔導式を組んで発動させるわけではないからだ。
魔導式を組むのではなく、術者自信が魔導式となって発動するかなり特殊な魔術なのである。
このような体質依存型魔術は大抵は遺伝によって受け継がれるので回復魔術保持者の子供も扱える確率が高いのが特徴である。
そして悲しいことに、技術よりスピード性が求められる戦場では回復魔術を扱えるものが優先的に徴兵されてゆくのだ。そして、回復魔術が使えるということ以外は一般人と変わらない彼らは、あっけなく戦場で命を落としてゆく。
エシルは自然と眉間に皺が寄っていくのを感じた。
「すぐ帰ってくるからいい子にしててねって言ってたのになあ。
マリナもっといい子にしないとだめかなあ?」
「んー、いい子かどうかは微妙な線だがマリナは優しい子だと私は思うよ」
「ホント!?マリナもエシルのことよく知らないけどいい人だと思うのね!」
「そうかな、ありがとう」
マリナの純粋な好意は沈んだ心を再び浮き上がらせるには十分だった。
マリナもまた姉の様子への不安が少し和らいだようで、昼間見せた明るい太陽のような笑顔がエシルの前で輝いた。
**********
日もとっぷりくれて太陽が水平線に沈みかけた頃から宿屋に本格的に客が入り始め、
マリナは少し名残惜しそうにしながらも客室への案内や夕食の配膳のためにエシルのそばを離れなければならなかった。
エシルは腰にしがみついて離れようとしないマリナに、
「仕事を頑張った子には、飽きるほど今まで旅した場所の話を聞かせてあげるから」となだめすかしてフレイナのもとへと行かせた。
これにはフレイナもエシルも随分となついた(なつかれた)ものだなあと苦笑をこぼさざるを得なかった。
「この子、人見知りはしないんですけど、誰かになつくこともあんまりないんですよ。」とのことだ。
それだけ言うと、フレイナはまだ駄々をこねているマリナを引きずりながら仕事へと戻っていった。
エシルその光景を仲がいいなあ…と微笑ましそうに見送っていた。
「お仕事おわったー!」
「今日はいつもよりも頑張ってたじゃないの。いつもこうだとお姉ちゃんも助かるんだけどなあ」
「よーし、じゃあエシルの部屋いってくるのねー!!」
「あ、待ちなさい!お姉ちゃんもエシルさんに聞きたいことがあるの。
だからマリナはちょっとここで待っててちょうだい、ね?」
「えー!ずるいー!マリナが先に約束してたのに!!」
「すぐ終わるから!待ってなさい!」
宿泊客の大半が部屋に引っ込んだ頃には時刻は12時をまわっていた。
本来ならば妹にこんな時間に部屋を訪ねたら迷惑だろうとたしなめて止めているところなのだが、フレイナにはどうしても彼に聞かなければいけないことがあった。
くだらないことかもしれない。どうでもいいことかもしれない。
でも、どうしても彼女の心に引っかかって、じわじわと不安を増大させるこの疑問を今すぐにでも解決してしまいたかったのだ。
コンコン、とエシルの客室のドアを叩く音がした。
ベッドに腰掛けて荷物の整理をしていたエシルは顔を上げてずいぶん遅くに来たもんだと思いながら、ドアを開けた。
「あれ、お姉さんのほうじゃないか。どうしたんだ?」
ドアの前には口を真一文字に引き締めたフレイナが緊張した面持ちで立っていた。
フレイナは少し上ずった声で言った。
「遅くに本当にすみません…あの、聞きたいことがあって…。
あ…やっぱり失礼ですよねっ!すみません、あの、やっぱり明日出直して…」
「いや、大丈夫だ。どうぞ、入るといい」
「あ、でも、」
「ちょっと目が冴えて寝れなかったんだ。だから大丈夫だ」
「…すみません…」
フレイナの必死な様子から聞きたいことを悟ったエシルはドアを目一杯あけ、部屋へと招き入れた。
エシルの言葉に少し安堵の表情を見せると、フレイナはか細い声でもう一度謝ると部屋の中に入っていった。
「それで、聞きたいことって?」
エシルの質問に、フレイナはエプロンのポケットから懐中時計を取り出して手のひらの上にのせ、エシルに見せながら聞きたかったことを恐る恐る口に出した。
「あの…、あなたが届けてくださったこの時計は…、その、父が、ずっと肌身離さず持っていたものなんです。でも、今なぜかあなたによって届けられ私が持っている…。
一体、誰が、誰がっ!何故っ!この時計の配達を依頼したんですか?教えてください…!」
エシルはフレイナのその震える声から、彼女が無意識のうちに何かを悟っていることを感じ、目を伏せた。
そして静かな声でゆっくりと言葉を紡いだ。
「…君の望む答えではないと思うけど、言っても大丈夫か…?」
「え…どう、いう…ことですか?」
エシルは迷っていた。この健気に両親を待ちながら必死に生きている少女に、
父親が既にこの世にいないらしいという残酷すぎる事実を伝えてもいいのか、と。
この少女がまだそれを知らないということは、戦地の方でまだ死亡が確認されていないために通知が来ていないということになる。つまり生きているという希望だって持っていられるのだ。
エシルはフレイナの瞳をじっと見つめた。フレイナは睨むように見つめ返して言った。
「それでも、いいんです、教えてください!お願いします!!!」
真実を知ることを恐れながらも、彼女は父の身を案じる心の方がよっぽど強いようだった。
その薄く涙の幕を張った瞳が雄弁に語っている。事実を教えてくれと。
「これは…はぐらかす方がよっぽど酷い、か…」
「…………」
「…本当にそうかどうかはわからない。ギルドに依頼をするときは特に本人確認なんてない。だから別人が名前を偽った場合だってある。そう頭に入れてから聞いて欲しい」
「え…」
「いいか…、依頼人の名前は…アリシア・アムル、という名前の人物らしい」
「う…そ…?」
「依頼の内容は…アゾル在住のグルド・アムル氏の御息女に氏の遺品である懐中時計を届けることだ。」
「い、遺品…?!……ッウソ!!うそよ!!お父さんが!!死んだなんて…!!!絶対うそよ!!それに!お母さんが依頼人なんてありえないわよっ!!!!依頼なんて使わないわよ!!帰ってきてくれるはずよ!!うそよっ!!」
「そうだな…あくまでギルドの記録上ではという話だから…、
いや、何とも言えないんだ。記録として確かに残ってはいるから…」
「そんな…!!だって、すぐ帰って来れるからって!!戦争なんてすぐ終わるって!!言ってたのよ!!
待っててねって!だって…そんな……」
「……」
ぼろぼろぼろぼろと堰を切ったようにフレイナの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。
頭が真っ白になっていく。始め国境線沿いの小競り合い程度だった国同士の諍いはじわじわと戦火を広げ、とうとう両国が開戦を宣言したのがちょうど一年前のことだった。
フレイナは当時そのことに別段関心を示しはしなかった。
戦地から遠く離れたこの地では普段通りの日々を誰もが過ごしていたのだから。
大人たちは口を揃えてすぐに終わると言っていたのだから。
自分には関係ない。もしあったとしても直ぐに終わる戦争なら問題ない。
そう思っていた矢先のことだった、両親のもとに召集令状が届けられたのは。
関係のない事のはずだった戦争が、急に彼女の穏やかな日々をさらって嘲笑った。
発端すらろくに知らない、今戦地がどんな状況も知らない、知らないわからないことだらけなのに、
両親が危険な場所に放り出されるということだけは痛いほどに感じた。
それでも信じていたのだ。両親の「待っていてね」という言葉を。
週に一度ほどの頻度で送られてきていた手紙が途絶えても、
港に着くはずだった商船が敵の艦隊によって沈められたという話を耳にしても、
ずっとずっと信じていた。
また家族四人、笑い合いながら生きていけるということを。信じて、いた、のだ。
時計を持っていた腕がだらり、と体の横に力なく垂れる。
ふらついて倒れそうになるフレイナの細い体をそっとエシルは支えてゆっくりと部屋にひとつだけ置かれていた椅子に座らせて、「水、持ってくるから」とだけ言って洗面所に消えた。
何も考えられなかった。不安と悲しみと恐怖と驚きがぐちゃぐちゃに混ざり合ってフレイナの心を埋め尽くしていった。
ふと、脱力した腕がポケットに触ったとき、かさり、と乾いた音がした。
フレイナは緩慢な動きでポケットから音の発生源を取り出した。
それは、昼間彼女が布をほどいた時に落とした小さな羊皮紙だった。
そこには、彼女のよく見慣れた母の字で、見たこともない文字が書かれていた。
そう、見たことがないはずなのに、直感的にこれを書いたのは母だと彼女は強く確信した。
しかし、なんと書いてあるのかわからない。きっと何かとても大切なことが書いてあるはずなのに…。
「〝我々は、ヴィリエン神殿にて待つ〟」
突然頭上から降ってきた声にフレイナは涙でぐしゃぐしゃになった顔を上に向けた。
「……そう、書いて、あるの?」
「私の記憶が正しいなら、そう書いてあるな」
「…本当に?」
エシルはその言葉に静かに頷くと、フレイナに水を差し出して続けて言った。
「時計と一緒に渡した紙か?」
「そう…です…。あの、〝私〟じゃなくて、〝我々〟って、書いてるんですか…!?」
「…ああ、そうだな」
「間違いはないんですね!?」
「ああ、ない。断言しよう。その紙には〝我々は、ヴィリエン神殿にて待つ〟と書いてある」
フレイナの中に希望の光が微かだが今確かに灯る。
〝私〟ではなく〝我々〟。
両親は生きていて、なぜだかはわからないがヴィリエン神殿という場所で私たちを待っているのだ。
大丈夫だ。この希望があれば、私はまだ立てる。歩いて行ける。
「ここに…二人が待ってる…!!すぐに…迎えに行かなくちゃ…!!」
今すぐにでも飛び出して行きそうなフレイナに、エシルは淡々と告げた。
「もし君が一人で行くというのなら、私はどんな手を使ってでも止めるからな」
フレイナはバッと振り向くと噛み付くように叫んだ。
「何でっ…!!?」
「道中が危険だからに決まってるだろう。死んだら、両親にも会えなくなるんだぞ?
何より、君の、妹は……マリナはどうするんだ」
エシルは興奮しきったフレイナの目をじっと冷静に見つめながら問いかけた。
妹の名前に、フレイナは我に返ったように悲痛な表情を浮かべた。
「でもっ、……でも、迎えにいかなくちゃ…!!じゃないと…もう、帰ってきてくれないかもしれないじゃないですかっ……!!」
小さな希望で引っ込んだ涙がまたフレイナの瞳にじわじわと膜を張る。
「私が言いたいのは、行くなってことじゃあない。一人で行こうとするなってことだ」
「………」
「どうするべきかよく考えて、きちんと準備して、それから決めないと駄目だ。とにかく、」
そこまで言うとエシルはそっとフレイナの頭をひとなですると、
「今日はもう寝た方がいい。明日、冷静にゆっくり考えるといい」
そう言って彼女を椅子から立たせると、ドアまで支えて歩かせた。
「心配する気持ちも、はやる気持ちもわかるが…今日はしっかり寝なさい。……おやすみ」
エシルがそう言ってドアを閉めようとすると、彼がなだめてから無言を突き通していたフレイナは、
まだ涙の跡と赤い腫れを残した目でエシルをまっすぐ見据えると、
「どうも、ありがとうございました。ちゃんと考えてみます」
そう、はっきりとした口調で彼に告げ、一礼すると、しっかりとした足取りで帰って行った。
(強いな…あの子…)
エシルは遠ざかっていく背中を見つめながら、小さく微笑んで、扉を閉めた。
夜の港町に、波の音だけがこだましていく。