トンネルへ続く道1
チュンチュンと少しだけ開けたベランダから小鳥のさえずりが聞こえてきて、早朝の風にそよいだカーテンの隙間から細く朝日が差し込んで、椅子で頬杖をついて眠っているエシルの白い頬を照らした。
何故、彼が大した疲れのとれなさそうな椅子で寝ることになったのかというと……
昨日フレイナを背負って部屋に戻ると、一つのベッドは真ん中でマリナが大の字になって眠っていた。
マリナを傍によせてフレイナを寝かせるのも気が引けたので、エシルは自分にあてがわれた方のベッドにそっとフレイナを寝かせて毛布をかけ、もう寝れるならどこでもいいと思って椅子に座って目を閉じたからだった。
頬を撫でる初夏の日差しにエシルはゆっくりと双眸を開くと、大きく伸びをした。
あまり深く眠れなかったからか、いつもより幾分覚醒している頭で今日の予定を組み立てながら立ち上がる。
硬い木の椅子で寝たせいで身体はあちこちバキバキと音を立てて疲れが取れていないどころか逆に疲れたことを主張していたが、
エシルはさして気にした様子もなく着替えのシャツを掴んでインナーの上から羽織りながら部屋を出ると、一階にある共同の洗面所へとゆっくりと階段を降りていった。
一階は既に出発する冒険者が朝食をとっているようで、美味しそうな匂いが廊下をふわふわと漂っている。
「あらぁ、おはようございます」
後ろからかけられた声にエシルが振り向くと、宿屋の年配の女将が沢山のパンとハムがのったお盆を両手で持って立っていた。
「今朝は何だが皆さん朝食が早う御座いましてね、お客さんももう召し上がられますかねぇ?」
もう結構順番待ちになってましてねぇ…と言う女将の言葉に、ふむ、とエシルは部屋で眠っている二人の事を少し考えた。
昨日ドルダスは別れ際に、確か昼までにギルドに来て欲しいと言っていたはずだ。
ギルドに行く前に多分必要な物の買い出しを少ししなければいけないのでここも早めに出発しなければならない。
(少し可哀想だがもう起こして早めに朝食を済ませた方がいいな…)
「あぁ、じゃあ頼む」
「はい、かしこまりましたよぉ。
お部屋にお持ちしますから待ってて下さいね」
そう言うと女将はえっちらおっちらとお盆を持って2階へと消えていく。
共同の洗面所で顔を洗い、目も思考も幾分さっぱりさせると、エシルは手ぐしで乱雑に髪を梳かし、片手で頭の上に髪を持っていき、もう片方の手で手早く髪紐を使って束ねる。
飛び出た部分の髪を水で何度か撫でつけてある程度落ち着いた事を鏡で確認し、うん、と満足そうに頷くと、開けっ放しだったシャツのボタンを閉めて来た道を戻った。
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パタンと静かにドアが閉まる音でフレイナは目を覚ました。
昨日から着っぱなしの服からもぞもぞと懐中時計を引っ張りだして時間を見ると針は6時少し前を指している。
いつもならとっくに起きて宿の宿泊客のために朝食を作っている時間まで寝ている事に僅かながら違和感を覚えながら、フレイナは若干疲労の残る身体をゆっくりとベッドから起こした。
部屋にはエシルの姿はなく、先ほどのドアの閉まる音は多分彼が出て行った音なのだろうとぼんやり考える。
(早起きできたんだ……)
数日前に、自分の宿に泊まった時の寝起きの彼を思い出しながらフレイナは、ベッドの横に揃えて置いてあるブーツに足を通して立ち上がった。
そこでふと、自分とマリナが別々のベッドで寝ていたことに気がつき、フレイナは申し訳のない気分に襲われる。
昨日ギルドから帰る時に気を失うようにして眠ってしまってから記憶が無いが、多分気を使った彼が自分のベッドにフレイナを寝かせてくれたのだろう。
(そこまで気を使ってくれなくていいのに…)
明らかに自分よりも彼の方が疲れているだろうと容易に想像できるのに、それでもこちらを尊重してくれる事にフレイナは若干不安すら覚える。
後でお礼と謝罪をどちらもしようと決め、フレイナは昨日から結ったままでクセが着いてしまった胸まである髪を、ゆっくりと丁寧に櫛で梳かした。
母譲りのこげ茶色のつややかな髪が、櫛を通すたびに肩を滑り落ちる。
手櫛を通して引っかからないくらいまで梳かすと、いつものように顔の横でひとまとめにしてリボンで束ねた。
さて、顔を洗いに行こうか。と思ったところで、これはマリナと一緒に行った方がいいと考え、フレイナはまだベッドで寝息を立てているマリナの身体を軽く揺すった。
「マリナー、朝よー。起きなさーい」
昨日の夕方から夢の世界の住人になっているマリナだが、まだ居座っていたいらしくフレイナから顔を背けるように寝返りをうって起きようとしない。
「まったくもう……」
そう言って、フレイナはいつもより手強い妹を無理やり抱き起こすと、
眠そうにふらふら揺れる頭を押さえながらベッドの上で妹の髪を整え始めた。
父のものとも、母のものとも違う、クセの強い黒髪を優しく梳かして妹が気に入っている髪型のツーサイドアップに器用に整える。
妹の髪を整えるのは、マリナが家族になってからずっとフレイナが欠かさずしていることの一つだった。
「よしっと…、こんなもんかな」
きっちりと同じ高さに揃えて結ばれたマリナの後頭部を見て、フレイナは満足げに息を吐いた。
仕上げに、ふわああ、と顎が外れそうなくらいに口をいっぱいに広げてあくびをしている妹の服のシワを軽く叩いて伸ばして靴を履かせ、手を引いて立たせる。
ふらふらと手を引かれたマリナがベッドから立ち上がったとたん、彼女の腹の虫も一緒に起きだしたのか元気に空腹を主張し始める。
空腹が眠気にまさったのかマリナはお腹に手を当ててバッとフレイナを見上げ、
「おねーちゃん、おなかすいたぁ!!」
「昨日から何も食べてなきゃそうでしょうね。朝ごはんと一緒に昨日の夕ごはんのマリナの分食べていいからね。」
顔洗ってエシルが帰ってきたら朝ごはんにしようねー。と、横で「おなかすいた!おなかすいた!」と主張するマリナの手を引いてフレイナはさっさと部屋をあとにした。
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「お、」
フレイナとマリナが一階の洗面所へ行く途中に、顔を洗ってきたらしいタオルを首にかけたエシルにばったり出くわした。
と、言っても二階から一階までの廊下は一本道なので会うのは当たり前と言えば当たり前なのだが。
起こす手間が省けたかな。と思いながらエシルは二人に朝の挨拶をする。
「あ、おはようエシル。ごめんなさい、昨日はあなたのベッドを占領してしまって……」
「おっはよー!エシル実は早起きできるのね!」
「別に謝らなくていい、座って寝るのには慣れてるからさ。
早起きはまあ…道中寝るから、ツケといてるというか」
つけえ?と首をかしげるマリナにエシルは少し苦笑すると先に部屋に戻ると言って、すれ違うには少し狭い廊下の二人の横を通ってコツコツと歩いて部屋へ戻っていく。
と、フレイナとマリナも洗面所へと歩きだそうとしたところで、後ろから
「朝食、もう持ってきてもらうように言っといたから」
そう、エシルの声が聞こえて、マリナは「ごはん!」と目を輝かせると、早く行こうと急かしながらフレイナの手をグイグイと引っ張った。
二人が部屋に戻ると、テーブルの上には三人分の朝食ののったお盆が鎮座していた。
スープの入ったお椀は美味しそうな匂いをさせながら白い湯気をくゆらせていた。
マリナはようやく食事にありつけるのがよほど嬉しいらしく、目をキラキラさせて
「ごはんごはん〜!」
と喜びの声を上げながら走ってお盆のところまで行くと、乗っていたパンをつかんでもぐもぐと食べ始める。
「こら!いただきますは?
て言うか座って食べなさい!行儀悪いわよ!」
「食べて荷物の整理をしたら出発、ってことでいいか?」
ベッドにあぐらをかいてベルトポーチの中身を整理していたエシルが顔を上げずに言う。
フレイナはマリナを椅子に座らせながら、わかったわ。と生返事をした。
椅子が一つしかなかったため、フレイナは仕方なく自分の分の皿を持ってマリナが寝ていた方のベッドに腰掛けて、いただきます。と言ってパンを一口パクリと口に入れ、もぐもぐと咀嚼する。
少し硬くてパサパサとしたパンは口の中の水分を奪い、フレイナはサラダのレタスを口に放り込みながら、
(やっぱりご飯が一番よね…)と、今後帰ってからも自分の宿の朝食のメニューを変えないことを一人決意した。
(一方マリナは「おいしい!」と言いながら同じパンを頬張っていた。
空腹は最高の調味料なのである)
マリナが自分の分の朝食をペロリとたいらげ、昨日の夕飯の余りに手をつけたとき、フレイナエシルに倣ってバッグの中身をベッドに広げて荷物の整理をし始めた。
まず家から持って来た着替えの類いを下の方に詰め、次にタオルや洗面道具の入ったポーチをパズルのように詰め込んで行く。
(歯ブラシだけは今使うから出しとこう…)
と、傍に置きながらフレイナは着替えをどこで洗濯すればいいのかエシルに尋ねた。
「女将にいくらか渡して頼んでおいて、昼街を出る時に取りに来ればいい。」との事なので宿を出る時にお願いしに行こうと考え、使った衣服を別の袋にまとめて詰め、膨れた布袋の口をギュッと縛ろうとしてふと顔を上げると、フレイナは自分の朝食をもそもそと食べているエシルを振り返り、
「エシルは洗濯物ない?一緒に頼んでくるわよ」
「昨日シャワー浴びた時に出してきたからないよ、ありがとう」
「そう、わかったわ」
それだけ聞くと袋の口を縛った。
まだ朝早くにもかかわらず、通りは街を出発して行く冒険者の姿がポツポツと見て取れた。多分フレイナ達よりもさらに早く起きて支度をしていたのだろう。
彼らにあわせて店も開店しているらしく、眠そうな店員が品物を並べていた。
「えーと、とりあえず、買い物ってことでいいのかしら?」
「ああ、そうだな。携帯食料とか傷薬とか…あとは2人があった方がいいと思うものを持てる分買っていこう」
「お菓子!マリナはお菓子あった方がいいと思う!」
マリナの元気な声にエシルは微笑みながらまるい頭をそっと撫でる。
「すっかり遠足気分だなあ」
「ピクニック気分とも言えるわね、我が妹ながら大したものだわ」
不安がられるよりいいけどね、と少し呆れ顔で、やれやれと財布から小銭を出してそっとマリナの手に握らせた。
「いい?無駄遣いしないこと。」
小さな手が銅貨をギュッと握り締める。大きな二つの黒目が、キラキラと嬉しそうにフレイナを見上げた。
「うん!もっちろんなのね!」
「返事はいいんだけどねぇ……」
「荷物にならない程度にな」
エシルがやんわりと釘を刺したが、銅貨3枚では大した量は買えはしないだろう。
それでもマリナは嬉しそうに何を買おうか、既にあれこれと楽しそうに考え始めているようだった。
「あー、おねえちゃん待ってよー!これかこれかまだ決めてないのね~!」
「もー、時間あんまりないのよ?まだ傷薬とか買ってないんだから…」
「そうだな…まあ、一応この店で買わなきゃいけないものは揃えたし…後は傷薬くらいなんだろ?
マリナは私が見てるから、後で出張所で合流すればいいんじゃないか?」
「うん……でもやっぱり、こういうのは現役冒険者のアドバイスが欲しいじゃない?」
どれがよく効くとか、普段使ってる人の意見が聞きたいじゃない。
フレイナのエシルは困ったように眉を寄せて言った言葉に、フレイナは目を見開いた。
「傷薬、今までに使ったことがないんだ。だからこれといった助言はできない、と思う」
「ええ!?怪我した時どうしてるの?あ、回復魔法?」
いや、使えないな、と首を振るエシルにフレイナは首をかしげた。
冒険者に大小問わず怪我はつきものだろう。そしてどうも、目の前の青年が自分の能力を過信して必要なものを持たないような慢心をするような人物に見えないのだ。
目だけで何故と問いかけるフレイナにエシルは色々あるのさと適当な様子で応え、行っておいでと背中を押した。
これ以上は話す気はない、というような態度で。
「そう…、じゃあえーと、いま11時10分だから…11時40分には向こうについているようにしましょう」
「ああ、わかった。薬屋の場所は確か…この店の右、五軒先だったかな」
「わかったわ。じゃあ、またあとで」
薬屋の主人に、どれが良いか聞くと良いよ。という言葉と共に、フレイナは送り出されたのだった。