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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

優しかった父の正体は、母とその家族を惨殺した男でした ― Say Hello to Chaplin. ―

作者: Samail
掲載日:2026/03/25

巴山祐基ともやま ゆうきにとって、父・裕平は、静謐な祈りそのもののような男だった。

四十九日の法要を終えたばかりの自宅には、まだ線香の匂いが微かに停滞している。弔問に訪れた親戚や近所の人々は、一様に目を赤くし、遺影の中の裕平に向かって深々と頭を下げていた。


「裕平さんは、本当に徳の高いお人だった」


「あんなに穏やかで、慈悲深い人は、今の世の中にはもういない」


誰もが判で押したように同じ言葉を口にした。それはお世辞ではなく、彼らが心から信じている巴山裕平(ともやまゆうへい)という男の真実だった。

祐基の記憶にある父も、その言葉通りだった。


裕平は市立図書館の司書として、人生のほとんどを本に囲まれて過ごした。

休日の朝、父は決まって庭のハナミズキの手入れをし、それから縁側で丁寧に豆を挽いて珈琲を淹れる。


その横顔はいつも穏やかで、眼鏡の奥にある垂れ目は、世界中のすべてを許容しているかのように優しかった。


父が声を荒らげるのを聞いたことがない。

幼い頃、祐基が誤って父の愛用していた古い万年筆を壊してしまったときも、父は怒るどころか、泣きじゃくる祐基をそっと抱きしめてくれた。


「形あるものはいつか壊れるんだよ、祐基。大事なのは、それを大切にしようと思ったお前の心だ。自分を責めなくていい。」


その大きな手のひらの温もり。洗剤の匂いがする清潔なシャツの感触。祐基にとって、父の腕の中は世界で最も安全なシェルターだった。


母は、祐基を産んで間もなく病気で亡くなったと聞かされている。

父は独身を貫き、浮いた話ひとつ立てず、ただ黙々と、不器用なほど誠実に息子を育て上げた。

だからこそ、遺品整理の中で見つけたその木箱と、一通の分厚い封筒が、祐基には父の「最後の手品」のように思えたのだ。

書斎の奥、父が大切にしていた革装の本の裏に隠されていた、厳重に鍵のかかった箱。


「親父、何を隠していたんだ……?」


祐基は少しだけ戸惑い封を切った。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



チャップリンはかつて言った。

『人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ』と。


僕の人生はまさにそれだ。


遠くから眺めれば、一人の女性を愛し抜き、その忘れ形見を男手一つで育て上げた美談に見えるだろう。

あるいは、滑稽なほどに一途な男の喜劇に見えるかもしれない。

だが、これから僕が綴る『近景』を読み進めてほしい。


僕の人生において、色彩を持っていたのは、大川幸恵おおかわ ゆきえという女性と過ごした、あの短い季節だけだった。


出会いは君も知るあの図書館だった。

僕は彼女を心から愛していた。

彼女の笑顔。

少しだけ癖のある声。

僕を見つめる瞳。

彼女との未来を、僕は疑いもしなかった。

僕のすべてを彼女に捧げ、彼女のすべてを慈しみたかった。


だが、彼女はある日突然、僕の前から姿を消した。

別の男ができたのだという。

僕よりも若く、僕よりも器用に彼女を笑わせる男の元へ、彼女は僕を捨てて逃げたんだ。


その報せを聞いたとき、僕の中で何かが、音もなく、とても綺麗に砕け散った。


悲しいとか、悔しいとか、そんな濁った感情ですらなくなっていた。

ただ、目の前の風景から色彩が抜け落ち、世界が平坦になった。

僕は彼女がいない世界に、もはや何の価値も意味も見出せなくなった。


彼女がその男と結婚したという噂を耳にしたとき、僕の中の『空洞』に、初めて異質な熱が宿った。

幸恵は、不純なものに侵されている。あの男の腕に抱かれ、僕との思い出を上書きしていく。

僕は、それを許せなかったんだ。

僕のいない世界を彼女が生きることを。

彼女がいない世界を僕が生きることも。



その日は、冷たい雨が降っていた。

僕は、彼女が里帰りしていた実家を訪れた。


「おはよう、幸恵。」


僕は笑顔で彼女に告げる。


彼女がリビングで意識を取り戻したとき、手足を縛り上げられた両親と夫が転がっていた。

僕はその横で、穏やかに彼女の目覚めを待っていたよ。

彼女の父親は、激しく身悶えしながら、僕を呪う言葉を吐き散らした。


それはそうだよな。

こんな目に合ってるんだもの。

呪詛のひとつやふたつくらいは甘んじて受けよう。


僕は立ち上がり、彼女に見せつけるように殺した。

まずは母親を。次に彼女が敬愛する父親を。


喉を裂いた瞬間の音は、濡れた布を切り裂くような、驚くほど小さなものだった。

噴き出した鮮血が幸恵の頬を汚し、彼女の両親が『物』へと変わっていく様を、彼女はただただ呆然と見つめていた。


彼女の絶叫が響く。


最後に残ったのが、あの男――彼女の夫だ。

僕は彼をすぐに殺すつもりはなかった。

僕から幸恵を奪った男だから、ではない。

僕を捨てた幸恵に分からせるためだ。

幸恵の目の前で、彼を丁寧になぶり殺した。


彼女に触れた指を折り、

彼女を愛した舌を切り、

彼女を見つめた瞳を潰す。

男の悲鳴が、やがて空気の漏れるような音へと変わり、最後には彼も『物』になった。




部屋の中は、鉄の匂いと、彼女の嗚咽で満たされた。

逃げようと縄の中でもがく彼女の顔を殴る。

殴る。

抱き締める。

殴る。

抱き締める。

殴る。


どれほど繰り返しただろう。

彼女の瞳から光が消え、

精神が音を立てて崩壊していくのを肌で感じながら、僕は彼女を愛した。

何度も何度も彼女の中で果てた。


死臭と絶望が混ざり合う中での交わりこそが、僕と彼女の、唯一の真実の契約だったんだ。


僕の計画は完璧だった。

証拠はすべて改ざんし、凶器は狂い果てた幸恵の手に握らせた。


警察も裁判所も、愛する家族を惨殺した『狂気の殺人鬼』として、大川幸恵を断罪した。


彼女は獄中で、君を産んだ。

そして、君を産み落とした直後、自らの頭を壁に打ち付けて果てたという。


僕は君を引き取った。


君の本当の父親が、僕が殺した彼なのか、

それとも僕なのか。

それは神様にしかわからないんじゃないかな。


でも、君を抱き上げたとき、世界が色づいたんだ。


幸恵が僕の元を去ってから、なくなってしまった世界に色が。


心の底から愛おしいと思った。


君と過ごした二十年間は、僕にとって二度目の穏やかな時間だった。


君を愛することは、僕の狂気を肯定することだった。

僕にとって君は、彼女との絆だったのだから。


さあ、祐基。


これは悲劇?

それとも喜劇?

僕にとってこれは、喜劇だった。


君が喜劇にしてくれたんだ。


ありがとう。


愛しているよ。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー








祐基は、手紙を読み終え、鏡の中に映る自分の姿を見つめた。


そこには、自分だと思っていた男の顔がある。

だが、その瞳の奥に、父が広がっているような気がしてならなかった。


父は、自分を愛せるほどに、壊れていたのだ。


その歪んだ愛の中で、自分は舞台装置として慈しまれてきた。

二十年間の平穏な日々。

父と笑い合った食卓。

励まされた夜。


そのすべてが死体の上に積み上げられた壮大な喜劇の一部だった。


祐基の口角が、無意識に微かに上がった。

それは遺影の中で微笑む、聖人と呼ばれた巴山裕平の表情と、不気味なほどに似通っていた。


自分の中に流れる血が、どちらのものであろうとも、もう関係なかった。


「……ふふ、あはははは!」


祐基の笑い声が、無人の書斎に響き渡る。


悲鳴のような笑い声。

それは確かに、父から受け継いだ「喜劇」の始まりの音だった。

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― 新着の感想 ―
横尾忠則さんを思わせる極彩色の地獄絵図ですね。(^^)
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