合理的すぎるサッカーが、夢を削いでいる (。´・ω・)?
サッカーは、いつのまにか「芸術」から「数学」になった。
11人が協調し、防御ラインを紡ぐ。
ポジショナルプレーでスペースを支配。
ボールを複数人で“堅持”しながら勝つ――。
理屈としては完璧だ。
だがその完璧さの中に、かつての「夢」は見えなくなってしまった。
例えば、平成昭和のサッカーには、目を見張る天才がいた。
マラドーナが中盤からのドリブルでゴボウ抜きを決め、ジダンがトラップ一つでスタジアムを黙らせ、ロナウジーニョがリフティングでDFを翻弄した。
彼らは戦術の一部ではなく、多分、神話級の主役だった。
少年たちの多くが「自分も、いつかあんなプレーを」と夢を見たのだ。
現代サッカーは「個」ではなく「集団」で動く。
監督やコーチが定めたフォーメーションの中で、選手はピースとして最適化されている。
チームの選手たちは、等質でまるで機械のように正確。
誰が出ても同じように動き、あくまでも複数で、組織的に点を取る。
そこにはもう、“マラドーナ的な個の魔法使い”の居場所はない。
……確かに、勝つためには正しい。
だが、観る側の心は、どこかでその正しさに息苦しさを覚えるのだ。
玄人を除く大多数の観客が求めるのは、多分〈最適解〉ではなく英雄だ。
不合理で、危うくて、でも美しい個人技。
メッシが5人抜きをし、C・ロナウドが“強烈なミドルを決めた――
そんな時、人はただの観戦を超えて“奇跡”を見るのだ。
……いま、その奇跡が減っている。
ピッチ上では「最適化された戦術」と「データ的判断」が支配し、分かり易い個のプレーが消えていく。
合理的であることは、強さの証だ。
確かにシステム化したチームは強い。
だが、観客が見たいのは合理の外にあるのではないか。
つまり、勝つサッカーは、勝つ事だけにしか正しくない。
だが、個が〈魔術〉を見せるサッカーは、観客を興奮させ、極めて熱狂的にさせるのだ。
そして私たちはいま――
勝利と夢のあいだで。
少しだけ寂しそうにTV画面を見つめているのだ。
先日、日本はブラジル相手に大金星☆彡
だけど、なんか最近のサッカーは面白く感じないのです (;^_^A




