第3話 『同棲生活0日目』
今回は長めです。
目が覚めた。周りを見渡すと、私はベットの上で仰向けになっていた。柔らかい朝の光が、レースのカーテン越しに部屋へ差し込んでいる。天井の白がほんのり金色に染まり、心地よいはずの時間に、私は胸がざわつくのを感じた。
は! リュシアンは!?
私は勢いよくベットから飛び上がり、彼の姿を探す。彼の存在を思い出した途端、眠気など綺麗に取れていた。
父の部屋、バスルーム、レストルーム、物置部屋、どこを探しても彼の姿はなかった。むしろ、人の形跡すら一切なかった。
私は息切れしながら、その場で立ちすくむ。ゆっくりため息をついた。
やっぱりそうか。夢だよね。それにしても、やけにリアルだったな。
先日、夢(?)に見た出来事を思い出す。リュシアンは、ゲームの中とキャラが全然違ってた。ゴミを見るかのような目。容赦のない数々の言葉。確かに、ゲームの時も口調は悪かったけど、人の事は絶対に傷つけないし、きっと私のことも、『桃香姫。』って呼んでくれるもん。
だから、あれは絶対嘘。ある意味、夢で良かったっていうか・・・。
なんだかホッとして、スマホの画面をつけると、6月18日(金)と見えた。
しまった! 今日土曜日じゃなかった! 昨日、ほぼオールでゲームしてたから遅刻しちゃう!
片手で制服のボタンを留めながら、パンを口にくわえる。足元には脱ぎ散らかした靴下、部屋の隅ではカバンが無防備に開いている。
心臓がバクバクしてるのは夢のせいか、遅刻のせいか――そんなこと考える余裕もなく、私は玄関のドアを勢いよく開け放った。
「おはよう。桃香。あんた、なんで食パン咥えてるの。ついに頭おかしくなった?」
2年4組の教室。私の後ろの席に座っている莉々が、不思議そうな顔で私を見つめる。時刻は、8時45分を指していた。本鈴はあと5分後。どうやらギリギリ間に合ったようだ。
ガヤガヤと談笑する声、椅子を引く音、教室内はまだ完全に授業モードには入っていない。窓の外には梅雨の気配を感じさせる。曇ったガラス越しに、湿った風が流れ込んできて、教室の空気が少し重たい。
学校に登校する度、どんどん空気がどんよりして、蒸し暑くなっている気がする。
彼女の冷静なツッコミに、少し恥ずかしくなり、私は勢いよく食パンを口に突っ込んだ。
「私のこと何だと思ってるの・・・。んねえねえ! きゅいて! 」
「食パン食べ終わったら聞く。あと、数分で先生来るから急ぎな。」
今日見た夢のことを話さなきゃ。きっと、いい話題になるぞ。噛むスピードを速め、食道に流し込んだ。
「…んっ! あのさ、私が今日見た夢の話する?」
「しない。聞かない。」
これが、日常茶飯事である。彼女は、一見すると、冷たい口調で怖いという印象を受けがちだが、このキレッキレな対応が、朝の眠たい意識から覚めさせてくる。
「莉々の嘘つきい。さっき、食べ終わったら聞くって言ったじゃん!」
「どうせ、『王子様に出会えた』『イケメンに急に愛された』とか、そういうやつでしょ。もう聞き飽きたわ。」
「そう! でもね、今日は、一段と違うの! リュシアンがさ~、私の部屋にきてね」
今日必要な教科書や、筆記用具を取りだし、私は彼女の方向に身体を向ける。
教室の窓は少しだけ開いていて、そこから、しとしとと降る雨の音がかすかに聞こえてくる。湿った空気が入り込み、紙の匂いと混ざって、独特な梅雨の朝のにおいが、鼻をくすぐった。
本当にリアルすぎる夢だった。だって、リュシアンの吐息だって、匂いだって、手の感触だって、今でも凄く印象に残ってるもん。思い出すだけで、また胸がドキドキする。いや、でも、ゲームの頃より結構毒舌だった。溺愛もしてくれなかったし、私のこと『じゃがいも』呼びしてたし。まあ、でも、そこもまた、面白いか。
「はいはい、もう前向け。先生来るから。」
私の心の声をエスパーみたいに、読み取ったのか彼女は全てを察したようにうんざりした顔をしていた。目を細めて、『しっしっ』と、小さい虫がいたときの扱いを受ける。
ちぇ。せっかく面白い話だったのに。莉々ってば、損してるよ。人生の三割くらい。
8時50分になった。HRを知らせる鐘が鳴る。チャイムと同時に、生徒達も自分の席へと急ぐ。
私は窓ぎわの席なので、外を見つめながら、学校に遅刻している人をぼーっと眺める。こうしてみると、割と遅刻してくる生徒も少なくはないんだと思い知らされる。
今日は天気がどんよりしているので、皆折りたたみ傘を持参しているのが見える。そういえば、傘を持ってくるのを忘れてしまった。まあ、なんとかなるだろう。
視力があまり良い方ではないので、顔のパーツが見えづらく、髪型でしか人を区別できない。そのため、歩いてくる生徒が皆、白馬の王子様のようにかっこよく見える。
ああ、私もこんなに急がなくても、もう少しゆっくりあるいてれば、あのイケメンと接点持てたのかなあ。目が悪いと、全てがよく見えてしまうので、かえって人生がちょっぴり楽しくなることがあるのだ。
「えー、HRを始める。まず、始める前に転校生を紹介する。こっちに来い。」
担任教師の言葉に、これまでの内容を一ミリも聞いてなかった私も、本能的に耳がピクリと反応する。
クラスメイトも、やはり、噂もたってなかったのか、途端にざわめき始めた。
『転校生』という、このフレーズ、乙女ゲームで何度も目にした言葉だ。主人公のクラスにイケメン転校生がきて、何故か溺愛されて、ハッピーエンド…何てことも?
「え、ねえ!? イケメンかな!? これ来たんじゃない!? 私がヒロインになれる世界線が!!」
「いいから前向け。」
思わず、テンションが上がってしまい、莉々に顔を向ける。彼女はうんざりした顔付きをしていた。
担任教師に声を掛けられた転校生は、恥じらう様子なく教室へと姿を現した。
この世界では考えられない、異次元のすらっとしたスタイル、白髪の髪の毛、切れ長のルビーの瞳のこの世界にいるべきではない男子生徒だった。制服のブレザーすら、異世界の衣装のように映るその男子生徒、まるで物語の中から抜け出したような存在だった。
「リュシアン・アーチャー。これからよろしく。」
自信満々な表情。そして、どこか人を見下しているような目付きをしていた。女子生徒達は、その表情に心打たれたのか、黄色い歓声が微かに聞こえる。
「え!? 外国人? ハーフ?」
「やばくない? おとぎ話から出てきたみたい。」
「背高。うちの学校の中で一番大きいよね?」
「良かったじゃん。桃香の好きなイケメン。」
莉々が背後から、私にからかうように声をかける。顔を見なくても、ニヤニヤしているのが分かる。
嘘だ…。なんで、私のクラスに 乙女ゲームの王子・リュシアン・アーチャーがいるの…?
え…。じゃあ、私が昨日夢だと思ってた事って…。
あの押し倒されたことも、ゲーム画面から出てきたことも、『じゃがいも女』って言われたことも…。
彼と目が合った気がした。あまりの顔面の強さに私は、無意識に目を逸らす。それと同時に瞬きの回数を早める。それと同時に、鼓動が早くなって。
状況が本当に掴めないときって、声が出なくなってしまう現象が、まさに今このときで、莉々の言葉にも反応できないぐらい、大口を開けたまま唖然としていた。
「はーい、静かにしろ。リュシアンは、文字の書きができない。皆、助け合って教えてやってくれ。」
『それならなぜ、日本語を流暢に話せているんだ』という、当たり前のツッコミは誰一人することはなく、彼が教師に指定された席に座ると、生徒達は物珍しそうに見つめていた。
「ね。ねえ、リュシアンってあれだよ? 私のプレイしてた乙女ゲームのさ・・・。私、ついに幻覚見えてる?」
「私も見えてるから、幻覚ではないね。心配なら、顔洗ってきな。」
莉々のツッコミに、『そういうことじゃなくて』と、ツッコミにツッコミを返したくなったが、もう話す気が無くなって、また、身体が硬直した。
過去1頭が入ってこない、HRが終了した。生徒達は、リュシアンに話しかけることなく、ただ彼を物珍しそうに見つめていた。また、他クラスからも相当な噂になっており、廊下には数多くの女子生徒がリュシアンを見たさに人だかりができていた。
つまり、あまりにルックスとスタイルが異次元過ぎて、近寄りがたい存在となってしまっているのだ。まるで芸能人でも来たかのような騒ぎ。いや、それ以上かもしれない。いくらイケメンでも、あまりにも周りとのレベルが違いすぎると、見守られる存在となるのだ。
神々しすぎるって、こういうことを言うんだろう。
もちろん私もその1人。窓ぎわの席から、教卓の一番近い席に座ってる彼を見つめている。そもそも、本当にこの世界に存在しているのかすら怪しいのだから。まるで、研究個体の対象のように目を細めながら。
彼がその視線に気づいたのか、不意に視線があった。頬杖をつきながら、眉を寄せて、まるで実験動物を見る研究者のような目つきで。
すると、彼が、こちらに顔を向けた。
視線がぶつかった瞬間、体がびくっと反応した。
また、見られてる。
その気配に耐えきれず、私は勢いよく立ち上がって、彼の腕を引いた。
それと同時に、周りの視線がまた怖かったので、私は無意識に廊下に彼を連れ込んだ。
廊下もまた、人通りが非常に激しい。それは、休み時間だから、というだけではない。彼の人を引きつけるオーラは異常なほどの力がある。私も、眩しくて、頭がクラクラしそうだ。
それでも、彼を、少しでもマシな廊下に連れて行き、事情徴収することにした。
私は、この状況をまだ現実だと受け入れられない。連れ出したいいものの、聞きたいことがありすぎて、言葉が詰まる。彼の瞳を見つめると、余計に悪化してしまう。
彼は、うんざりした顔を私に見せつけ、大きなため息をついた。
「どういうことなんだよ。汚え庶民しかいないじゃないか。それに、なんであいつら自分の足で歩いてるんだ? 普通、爺が車で送迎するだろ。家庭がいないのか?」
「…それ以上言ったら、本気で怒るよ?」
唖然とするような発言。
その無神経さに、自分でもカッと体温が上がるのがわかった。さっき、少しでも彼の美貌にときめいた時間を返して欲しい。
「ご勝手に。アンタ、本当オレのこと好きなんだな。ったく、どこまで連いてくるんだよ。」
「私はこの学校の生徒だし。ってか、なんで転校してきたの。家は?」
「アンタのゴミ屋敷から出てきた。昨日、オレ様が話してるときに寝やがっただろう? 朝起きて、久々に足を運んだら、面白そうな廃墟があったからな。」
「廃墟じゃない。水尾高校ね。なんで、一日で転校できるのよ…。」
「オレ様を何だと思ってるんだ。金なんて、腐るほどある。何故かここに来たとき、金が見たことのないのに変わってたが、出したら教師のやつ、驚いちまってたよ。こんなもん、いくらでもくれてやるっつーの。しかし、なんかどうにも都合のいいようにできているな。文字だけは何かいてあるか分からないがな。まあ、オレ様の事だから、何でも器用にこなすだろ。」
やっぱり、相変わらず容赦のない御曹司。
本当に、夢なんかじゃなかったんだ。
ガラス越しに見えるグラウンドは、灰色の雨雲に沈んでいて、世界は水彩画のように滲んでいた。
私は思わず、腕を組んで立ち止まり、彼の言葉を咄嗟に整理する。
咄嗟に腕を組み、状況を確認する。
「まって…、もしかして、私の家で一晩過ごしたっていうの!?」
「夜分遅かったからな。」
「へ、変なことしてないでしょうね!? リュシアンって、結構スケベなんでしょ! きもい! 変態!」
顔が真っ赤になってるのが、自分でも分かる。湿気と緊張で、息が熱い。
「ふっ、バッカじゃねーの。じゃがいもに欲情するかっつーの。」
「だから、じゃがいもじゃない! 私の名前は、宮桃香! いい加減覚えてよね。」
「はあ、また、オレの好きな奴になりきってる。痛い奴だ。」
こんなに顔面が強くても、なんだかうんざりくる。
廊下を行き交う生徒たちのざわめきが、遠くなった気がした。まるでこの空間だけ、隔離された箱庭のようだ。なんだか、少女漫画の主人公になったみたいで、鼓動が早まる。でも、こんな人の心がないような奴にときめいてるのも、なんだか腹が立つ。
そろそろ真面目な話をしようと、私から口を開いた。
「…、それでこれからどうするの。」
「これからって、桃香に逢いにいって、告白する。」
「はあ、そうじゃなくて、ここはあなたのお目当ての宮桃香ちゃんはいないわけね? 今の世界は、じゃがいもの宮桃香なわけ! だから、元の世界に戻るまで、住む家とかどうするの? 」
「じゃあ、アンタの家でいいわ。ゴミ屋敷だけどな。考えるの面倒くさいし。」
「ちょ、そんな簡単に言わないでよ! 」
「アンタの大好きなオレと住めるなんてご褒美でしかないんだから、もっと素直に喜べよ。ここには数ある別荘も無いからな。お互いに利益しかない。あ、言っておくけど、オレはいつもメイドにやらせてたから、家事全般はアンタがやれよ。」
「まって! 私、まだいいなんて…。」
「感謝しろ。こんなイケメンのオレ様があんなゴミ屋敷に住んでやるんだから。それなりのサービスしてもらわないと困る。じゃ。」
彼はそう言いながら、私の元から姿を消した。引きとめようとしたが、私にはそんな体力も無かった。
私の中に残っているのは、鼓動と、さっきまで隣にいた彼の体温の気配。
現実感が、追いつかない。2次元のキャラが、教室に転校してきて。
頭が追いつかないどころか、心の奥でふわふわと浮いている感じ。
遠くからチャイムが鳴り響く。時間だけが、容赦なく過ぎていく。
まるで、少女漫画のプロローグみたいな展開なのに。どうにも、気分が晴れなくて。でも、この後の生活をどうしても良い方向に考えてしまう。そんなはずないのに。
これから、どんな生活が待ってるんだろう。リュシアンが毎日いる生活だなんて。
胸の奥がきゅっと締め付けられるように疼く。
嬉しいのか、不安なのか、まだわからない。
しかも、よりによって、今日から交際0日同棲生活だなんて…。
いつも応援ありがとうございます。