第21話 『奪われた唇』
ある日の平日。
時間が過ぎるのはあっという間で、そろそろ9月も下旬に差し掛かってきた。
変わらない日々。
そんな当たり前を、私は最近、人一倍ありがたみを感じるようになった。
それはたぶん、あの日があったからだと思う。
リュシアンの温もり。ほんのり香るシャンプーと汗の匂い。
彼が、『ここにいる』と言ってくれて、私はすごく安心感を覚えた。
そして、気持ちも募るばかり。
リュシアンに初めて抱きしめられるなんて、少し前までの私は、夢にも思わなかったと思う。
何かをしていないと、彼に抱きしめられたときのことを思い出しては、ニヤニヤが止まらないのだ。
今は、試合が一セット終わったところで、10分間の休憩時間。
私は、木陰のベンチに座りながら、水筒の水をゴクリと飲んでいた。
冷たい水が、渇いた喉をゆっくりと潤してくれる。私は、その度に、息を吐いた。
同じ部活に所属している莉々は、他の友人と楽しそうに話している。
私は、彼女としか仲良くないので、一人ぽつんと色づきはじめた木の葉を眺めていた。
「宮ーー!おつかれ。」
すると、耳元で、何やら大きな声で私を呼ぶ声がした。心臓がドキリとなる。
「ぎゃあ!!」
思わず、私は叫び声をあげた。
声の主は、驚く私の様子を心配したりせずに、ヘラヘラと笑っている。
「あっはは!!ビビリー!」
隣のネットで練習をしていた、野々木くんだった。
どうやら、男子テニス部も休憩時間のようだった。
彼は、当たり前かのように、私の隣に座ってくる。
「しっかし、今日も暑ちいな。体育祭までずっと続くんだろうな。」
彼は、手でTシャツをパタパタと仰いでいる。私は、少しだけ口角を上げながら、俯いていた。
いつか気持ちが固まったら、ちゃんと返事しないと、と思っていた。
そのタイミングは、きっと今なのかもしれない。
周りは、私達以外にたくさんいる。誰かに内容が聞かれるかもしれない。
しかし、今はそんなことどうでもよかった。大事なことは、きちんと言わないと。
「あ、あのさ…野々木くん。」
「ん?」
彼なら、きっとわかってくれると思った。
震える唇をゆっくりと開く。
「夏祭りの…告白のことなんだけど…。 私、やっぱり…」
「…宮。 それ以上言わないで。」
「え?」
彼と目が合って、口を塞がれた。
突然のことで訳が分からず、目を丸く開く。
彼は、静かに口から手を離した。
「言ったじゃん。俺、宮がリュシアンのこと思ってるの知ってるって。」
「諦めないよ。俺。」
その表情は、少し切なげで、いつもの明るい彼は、どこかにいってしまったようだった。私も、胸がぎゅっとなる。
「来週、体育祭だろ。知ってる? あの噂。」
「ウワサ?」
「あっははは!! 知らないのきっと宮くらいだぞ!! もう、みんな準備しているのに。」
彼は、大声でゲラゲラ笑っている。
「どういうこと?」
「俺らの学校、学年ごとにパフォーマンスがあるじゃん。それで、2年は2人ペアでダンスするんだよ。」
「うん。それは知ってるよ。体育の時、練習してるし。」
「本番は、ペアが自由らしいんだ。しかも、クラス関係なく。」
すべてが初耳で、私は顔をポカンとする。
そんなの、全然知らなかった…。
確かに、なんだかここ最近、騒がしいとは思っていた。まさか、そんな事があるとは。
なぜ、私の耳には流れなかったのだろう。
こういう話、割と敏感なはずなのに。
「宮はペア決まってんの?」
「ううん…。まだ誰とも。」
「あはは! その様子だと、そうだろうな!」
さっきから、なんだか馬鹿にされている気がする。
彼の笑い声に反して、私はぷくっとほっぺたを膨らませる。
そして、彼は、笑い疲れたのか、ふぅとため息をついていた。
思わず、彼の顔を見つめる。
「じゃあ、空いてる枠、俺に埋めさせて。」
彼は、私の手を強く握りしめる。
目を丸くした。
彼は、いつになく真剣な表情。
言ってる意味も、私にはちゃんと伝わった。
「え?」
でも、どことなく、後ろめたさがあった。
彼は話を続ける。
「俺と踊って。いろんなヤツに見られるのだって、宮だったら構わねえもん。」
真っ直ぐな瞳。
目を逸らしたくても、逸らすことができないくらいに。
「約束、な?」
「の、野々木くん…、私まだいいだなんて。」
「誰にも取られたくない。宮を俺だけのものにしたいんだ。」
そ、そんなこと素直に言われたら、私…。
「それくらい本気ってことだからな! じゃあ、俺部活戻るから!」
彼は、私からすぐさま手を離し、全速力へ部活へ戻っていってしまった。
私は、彼に握られた右手を、頬に近づける。
体育祭のペアダンス…私、全然知らなかった…。
どうしよう…。
心が揺れる。
もちろん、踊りたい人は一人だけ。
でも、それだけで決めていいのかな…?
「桃香〜。 やるじゃん。」
「なに? 野々木とそういう関係なの? 意外なんだけど!」
すると、近くから、くすくす笑う声が聞こえてくる。その声は、少しずつ近くなっていき、私の元で足を止めた。
振り向くと、莉々率いる、同じ部活仲間だった。
恥ずかしい! やっぱり、聞かれてた!
私の顔を見ては、ニヤニヤと笑い合う彼女たち。視線が突き刺さるようで、いたたまれない。
「違うから!! ほんとに!!」
「嘘だぁ。手握られてたじゃん! 野々木ってば、やるぅ。」
他のメンバーも、口々にそう言いだす。
「ほんとにちがうもん!!!」
顔が熱い。火がついたみたいに赤くなっていくのが、自分でもわかった。
「ありがとうございましたー!!!」
練習が終わり、私達は、汗拭いたり、水筒を飲んだり、帰る準備をし始める。
今日も疲れた。
私は、スクールバックの中を開け、携帯を取り出そうとする。
「ない…ない!!」
隣いた莉々が、顔を覗き込む。
「どうしたのよ。桃香。」
「携帯がない!! 教室に置いてきたかも!」
「嘘でしょ…。 一緒に探そっか?」
「いや! 大丈夫!! 先行ってて!」
私は彼女に、手を振り、校内へ戻っていった。
さすが、最終下校時刻だけあって、どこの教室を見渡しても、人の姿はそんなに見かけない。
いるとしても、部活終わりで片付けをしている生徒たちだ。
放課後の教室も、昼とは違う儚さがあってなんだか悪くない。
今、ここに生きているという実感がある。
「リュシアン。来てくれてありがと。」
自分のクラスの前を通りかかった時、最終下校時刻にも関わらず、女子生徒の声が廊下越しに響いた。
聞いたことある声。しかも、リュシアンの名前を呼んでいる。彼女が、彼を呼び出したのだろうか。
私は、2人にバレないようにそっと、教室の扉を覗き込む。
彼女は同じクラスの人だった。しかも、夏祭りでリュシアンを連れ出そうとした陽キャ女子グループの1人。あの4人の中で、一番のリーダーっぽく、私に嫌味を言ってきた人だった。
たしか名前は…。
「うん。松城さん。話って何?」
そうだ、松城優愛だ。
なんだか、嫌な予感がする。
早まる鼓動を抑えながら、私は静かに耳を傾けた。
手汗がすごい。
これは、きっと部活終わりだからじゃない。
「ねえ…リュシアンってさ、女子に興味あったりするの?」
彼女は、長い髪の毛を耳にかけ、そう言った。
下着が見えるくらいのギリギリのミニスカートも、見ていて痛々しい。
「興味?」
「そーそ。女子の間では、結構人気なんだよ? だから気になってさ。 」
窓から差し込む夕日が眩しい。
その光で、余計に2人がいい雰囲気にも見えてしまう。
まるで、少女漫画のように。
誰もいない教室で、ただ二人、内緒の時間。
そんな風に、私は見えた。
「…好きな人とか、さ。 ね?」
「それ聞いて、どうするの?」
「私が気になるのっ!」
私は、生唾をゴクリと飲み込む。
もう、わかった。
私は、次の言葉が来るのをもう覚悟していた。
「リュシアンのことが、好きだからでしょ!!」
ほら。
やっぱり。
私の予想はぴったり的中。
でも、心の奥底では、的中なんてしてほしくなかった。
「…体育祭のペア、組んで欲しいの。好きな人と一緒に踊りたい。」
「あはは…どうしようかなぁ。」
苦笑いする彼に、彼女は、距離を少しずつ縮める。
「ねえ、私のこと、甘く見てるでしょ。」
そして、彼女は静かに背伸びをし、リュシアンの唇にそっと触れた。
!!!
嘘。
見ちゃった…!
私は、これ以上見ていられなくなって、その場から立ち去った。
時刻は、最終下校時刻を過ぎていた。放送では、『遠き山に日は落ちて』というメロディーがゆっくりと流れている。
私は、それに反して、心臓の脈拍と同じくらいのスピードで全速力で走った。
胸が痛い。
息を吸い方も忘れてしまうくらい。
感情を振り切るように、全力で走った。
キスしてた。
口に。
震える指で、自分の唇をそっと触れた。
リュシアンに、初めて触れたかった場所。
彼は、きっと初めてじゃないと思う。
でも、この世界で、彼の初めてを貰いたかった。
そして私もまた…。
目頭が熱い。
必死に、必死に、手で押さえ、溢れる感情を無理やり奥へ、奥へと押し込んだ。
もう、忘れ物の存在すらどうだって良かった。
結局、ああいう女の子が幸せになるんだ。
性格が悪いのも知ってる、リュシアンとも釣り合っているかと言えば、釣り合っていないと思う。
でも、そうじゃないのだ。
そうじゃなくて、どんなに強敵がいたとしても、想いを伝えて、行動する。こうやって積極的になれる女の子が勝ち取るんだ。
残念だけど、現実はこういう仕組みになってるみたい。
私は、彼と同棲している。
私だけ、彼の秘密を知っている。
ハグもされた。
でも、そんなんじゃだめなんだ。
そんなんじゃ…。
「ゔぅ…っ…。」
私は、泣きながら学校を後にした。
涙を拭いても拭いても、止まらなかった。
恋をするって、嬉しいことよりも、辛いことのほうが多い。
だから、ちょっとのことで舞いがられるのかもしれない。
諦めたくない。
でも、もう遅いかもしれない。
私があの時、ううん、もっと前から言える瞬間があったはず。
私っていつもこうだ。
今までの恋だって、途中までは積極的に動けるのに、最後の最後で駄目になる。あと一歩が踏み出せない。
なんで、こうなんだろう…。
結局は臆病者なんだ。いざ、気持ちを伝えようとすると怖くなって、何もできない。
自分が、あまりにも不器用で呆れてしまう。
最近は、リュシアンのことで泣いてばかりだ。
私は、こんなにも好きなのに、ずっと辛い。




