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第19話  『絶体絶命』

 あっという間に放課後になってしまった。


 9月もあっという間に下旬になり、外を見つめると、緑で生い茂っていた木々が、赤や黄色に色づき始めている。


 それでも、まだ残暑は続いており、とにかく暑い。教室の窓からは生温い風が入ってきて、扇風機の音だけが静かに響いている。


 あの事故から一夜が明けたが、私は一睡もできなかった。


 リュシアンと私の同棲がバレてしまった。


 橋元くんは、もちろん学校に来ていた。今日も、教室の端っこでなにやら難しそうな本を読んでいる。


 昨日のことを説明したくて、頭がいっぱいだった。


 しかし、彼は教室で浮いている存在で、話しかけづらかった。彼の周りにだけ、見えない膜が張られているような、そんな気がするから。

 むしろ、ちゃんとした声も、昨日初めて聞いたような感覚。去年も同じクラスだったはずなのに、彼とはあまり接点がなかったようだ。


 そして、今日から補習である。


 今日から放課後の3日間、自教室で夏休み明けテストの解説、最終日には、3教科の確認テストがある。

 なぜ、この時期に補習をするようになったのか。トップ校というほどでもないのに。

 学業に力をいれるようになったのか。


 私は、自分の机でだらんとする。肌に冷たい感触が伝わって気持ちがいい。


 目だけを動かし、嬉しそうに帰っていく生徒たちを静かに見つめていた。


「それじゃ、桃香。私、部活行くから。」


 すると、莉々が背後から話しかけてくる。


「えーー!! 莉々も一緒に補習行こうよ〜」

「私は桃香と違って、点数高いんで。」


 この惨めな思いをするなら、もっと勉強頑張ればよかった…。私は口を尖らせる。


 嫌味だけど、事実だから何も言えない。


 彼女はニヤニヤしながら、肩をポンポン叩いた。


「顧問には、補習だって伝えておくよ。知ってるとは思うけど。」

「うっ…バイバイ…。」


 私はただ、彼女の背中を見つめるしかなかった。


 背が高く、背筋がすらっとして、サラサラなショートカット。


 スタイルも良くて、勉強もできて、スポーツもなんでもできちゃう莉々。


 それに、彼氏だっているし…。


 彼女のことは大好きだけど、ちょっとだけいつも劣等感を感じていた。


 …いかんいかん! 私は、私なりに頑張らないと。


 教室に残るのは、補習組だとバレるから、なんだか恥ずかしくて、その場から逃げ出したくなってしまう。


 周りを見渡しても、嬉しそうに帰っていく生徒をみて、なんだか私のことを言っているのではないかと不安になる。


 私はこっそり、リュシアンと目を合わせないようにしていた。



 16時になった。時間ぴったりに、担当教師が教室のドアを開ける。


 夕暮れが迫る教室は、じんわりと赤みを帯びた光に包まれている。蒸し暑さの残る空気の中、窓からは部活の声がかすかに聞こえてくる。クーラーで窓を閉めているのに、まだ声が聞こえるなんて、よほど声が大きいのだろう。


 私と同じ仲間はどれぐらいいるだろうか。


 一番うしろの端の席の私は、思う存分、周りをキョロキョロと見る。


 すると、そのうちの一人である、橋元くんの姿があり、私は思わず目を丸くした。


 嘘。橋元くんって、真面目そうだったから、こういうのに縁がないタイプだと思っていた。


 彼は、教室の隅の席に静かに座っていて、指先でノートの端を折りながら、何か考え込むように俯いていた。


 いつものように厚い本を読んでいるわけでないのは、なんだか不思議な感覚。ただ、沈黙のなかでぽつんと存在している感じ。


 私はバレないように、彼の姿を見つめる。


 すると、彼がふと顔を上げて、こちらをちらりと見た。


 ばっちり、目が合ってしまった。黒いメガネをくいっと押し、私の姿をみている。


 私はハッとして、慌てて視線をそらした。


 見すぎた……。びっくりさせちゃったかな。


 心の中で「ごめん」と彼に謝って、私は教科書を開いた。


 意識を無理やり授業に向けようとしたけれど、さっきの視線の余韻が、まだ胸の奥に残っていた。




 最終下校のチャイムが鳴り響いた。


 つまり、1日目の補習が終了したということである。


 覚悟はしていたが、まさか最終下校までやるとは思わなかった。久しぶりに、勉強したせいか、肩こりがひどい。


 私は、ゆっくりと肩を回しながら、下駄箱へ向かった。


 夕焼けが校舎を赤く染め、廊下の窓ガラスに映る影がじわりと伸びている。


 結局、部活にも行けなかった。莉々といつもダブルス組んでやっていたから、迷惑かけただろうな。


 すると、見覚えのある人影を目にした。


「あ、橋元くん!」


 私は廊下を歩いている彼の背中を見つけて、思わず声をかける。

 何を言わず、静かに振り返る彼。スクールバックをきつく握りしめていた。


「一緒に帰らない?」

「……え?」

「ほら、家、近くなったし。どうかな?」


 できるだけ軽く、自然な口調を心がけたつもりで話した。警戒されないように。


 しかし、彼は、私のことを見なかったかのように向きを変えて、歩き出してしまった。


「え!? あ、ちょっと橋元くん!?」


 早歩きで私を避けようとする彼に、私は全力でその背中を追いかけた。




 彼は、学校から出たのにもかかわらず、私に見向きもしなかった。


 2人の影が、夕日でよりはっきり浮かび上がる。


 距離は、遠ざかるばかりだった。


 私は、何としてでも誤解を解こうと、彼の背中を追いかける。


 すると、ようやく足音が目障りになったのか、彼は、振り向いた。


「……僕に聞きたいことがあって、誘ったんだよね?」

「え…どうして、そう思うの?」

「誰かに『一緒に帰ろう』なんて言われたことないし。僕、クラスで浮いてるから」


 彼の声は淡々としていたけれど、その言葉には少し寂しさが滲んでいた。


「そんなこと……」


 否定しかけて、でも言葉がうまく出てこなかった。

 空気が重くならないように、私は本題に入ろうとする。


「昨日のことなんだけどさ…私とリュシアンが、その…」


 私は声をひそめる。周りにはもう誰もいないのに、なぜか緊張してしまう。


「お願い。誰にも言わないでほしいの。私たち、そういう関係じゃなくて……これには色々訳があって。昨日の夜は、その……」

「言わないよ。」


 彼はすぐに言った。


「そ、それならいいんだけど……」

「その代わり、僕も気になること、聞いていい?」

「……なに?」

「アーチャーさんって、何者?」


 その瞬間、生暖かい風が、急激に冷えた吹雪に変わった気がした。


 彼の瞳は夕日で光っている。黒いメガネがキラリと光っていた。


 表情をピクリとも変えない彼に、不気味さを感じ、私は目をそらす。


「な、何者って……転校生じゃん。夏前に引っ越してきた」

「じゃあ、どこから来たの? 彼は」

「さ、さあ……フランスから来たんじゃないの?」

「今どこに住んでるの? 連絡網には?」

「学校の近く、だと思う。たぶん、まだ住所学校に出してないだけで……」

「うん。でもさ」


 橋元くんの声が少し低くなる。


「なんで彼、転校初日にあんなに日本語ペラペラだったの? 文字は読めないのに。普通、文字から勉強するよね。」

「私も、そこまでは知らないよ……知り合いに日本語話す人がいたんじゃないの?」

「……本当に、何も知らない?」

「う、うん……」


 周りは、私たち以外誰もいない。


 広い田んぼの間に私たちがちっぽけに立っている。


 音も何も聞こえない。


 ただ、風が吹いて、ススキがなにかを囁くように左右に揺れているだけだった。


 橋元くんは、カバンの中からスマホを取り出して、画面をこちらに向けた。


 そこには、ある乙女ゲームの公式サイトが映っていた。


 何度も目にした画面。親の顔よりも見たかもしれない。


 私は思わず手を押さえ、目を丸くする。


 声が出なかった。


 彼は、私の様子に見向きもせず、言葉をつらつらと並べる。


「2008年4月5日。某大手ゲーム会社が発売した『kiss♡me in the castle』。お金持ちの御曹司との恋の3年間を描いたゲーム。」


 彼の指が画面をスワイプするたびに、華やかなビジュアルが現れる。


 私はその度に、動悸が増した。


 その後に、何を言われるのかが、わかったから。


「攻略に成功すると、ベル・エタルノ城で御曹司とエンディングを迎える。特に、売りはこの、攻略難易度SSSキャラ——リュシアン・アーチャー」


 もうやめて。


 これ以上何も言わないで。


 お願い。


 言葉が喉に詰まって苦しかった。


 確かに、画面に映ったキャラクターの顔は、現実のリュシアンとおなじだった。


「これ、彼だよね?」


 橋元くんが、真っ直ぐ私を見た。


 目を合わせるのが怖い。


 誤魔化すにも、誤魔化しきれない。


「ゲームの世界の人間ってこと?  顔もまったく一緒。声優、有名な人だったよね。……確かに、いい声してるし」

「そ、それは……」

「仲良しの宮さんなら、知ってるよね?」


『仲良し』。


 ——ドクン、と胸の奥が鳴る。


 思えば、今まで平穏に暮らせていたのがおかしかったのだ。


 累計200万本も売れた、超人気恋愛シュミレーションゲーム。


 気づいている人もいるに決まっている。しかも、彼はメインキャラだ。


 なぜ、こんな状況を予想できなかったのだろう。普通に考えればわかるはずなのに。


 私は、ただ、目の前のことに夢中で、リュシアンと同棲できて、二次元のキャラと話せるのが嬉しかった。


 そんな単純な自分が情けなくて、目頭がふいに熱くなる。

 喉の奥も苦しくて。


 私、どこまでお花畑なんだろう。


 その先に待っている壁が見えなかった。


 頭のなかが真っ白になる。


 私は、何も言えなかった。

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