第17話 『終わらない夏』
夏が終わって、早くも新学期。
時間の流れは遅いようで、ものすごいスピードで流れていってしまった。
朝の風には少しだけ秋の気配が混ざっていて、蝉の声もどこか遠くなっていく。
あの祭りから、もう一ヶ月は経っている。
リュシアンとの関係も相変わらずで、可もなく不可もなく。祭りの夜は、ほんの少しだけ言い合いになってしまったが、喧嘩したわけではないので、変わらずの同棲生活だ。
そして、あの日の告白も、今も曖昧のまま。
私の中で答えがまだ決まらないのだ。今はリュシアンが好きなのはもちろんなのだが、野々木くんが私に、振り向くまで諦めないと言っていた。
見て通り、チョロい私は、そんな男らしい言葉を口にされたら、今の気持ちにも曖昧になってしまいそうになっている。
それにしても、野々木くんは、私のどこを好きになってくれたのだろうか。
夏休みの部活練のときも、同じテニス部ということもあり、関わる機会もないわけではなかった。
いや、むしろかなり関わっていたと思う。
しかし、私がなんとなく恥ずかしくなってしまい、彼と目が合っても咄嗟に反らしたり、なんだかじれったくて、近くにいかないように意識していた。
でも、一学期のとき、学校がある日は一緒に帰る約束をしていた。そのため、今日から二学期なため、彼と一緒に帰ることになるのである。
だからなのか、自分の席に静かに座っていても、心が落ち着かなかった。
そして、私はチラッといつもの方向を見つめる。
白いさらさらな髪。
そのカーテンから綺麗に光るルビーの瞳。
リュシアンは相変わらず、クラスの人気者である。私とは到底気が合わなさそうな男子たちとばかりと仲良くしているのである。ついでに、女子もそうだ。
彼にひっつく小さな虫が、どうにも気に食わない。
私の態度と彼に対しての態度は別人のようだから。
でも、今の私ならわかる。リュシアンがそんな小さな虫を気に入るわけがないと。
私は、彼と同棲しているからなのか、謎に勝ち気である。こっそり、誇らしげな笑みを浮かべた。
「宮ー。宮ー。」
自分の苗字が呼ばれた気がして、私は声の方向へ目を動かす。
ぼーっと頬杖をついていたが、英語担当の新井先生がじっくり私を見つめる。彼の左手には、なにやら薄い紙があった。
「うわぁ! はい!」
私は、慌てて立ち上がり、先生の方向へと早歩きで向かう。
「はい。これ、夏休み明けテストな。」
先生に渡された答案用紙。私の指先が冷たくなっていくのを感じる。紙をめくる音が小さく響いて、教室はどこか落ち着かない空気に包まれていた。
私は、先生にぺこりとお辞儀をし、静かに歩きながら、そっと点数をのぞきこもうとする。
もちろん、私は勉強が得意な訳では無い。いや、むしろ、できない。
そのため、悲惨な点数なのは承知な上であった。それだけではなく、夏休み、いろいろなことがありすぎて、勉強どころではなかった。
つまり、ほぼノー勉でテストに臨んだということである。
誰かに見られていないか確認しながら、目に紙に近づけ、そっと数字を見ようとした。
「やーい。赤点だ。」
「ぎゃあ!!!」
後ろの席に座っていた莉々が、私の背後に近づいてくる。
いくら親友だとはいえ、許可無しで点数は見られたくない。それに、彼女は割と上位層なので、余計にバカにされそうだ。
私のおかしな声に、彼女は面白がるようにゲラゲラ笑っていた。
その表情に、思わず紙をクシャッと握りしめる。
「ち…ちょっと、莉々。勝手に見ないでよね。」
「なに? 図星? ほんと、分かりやすい。」
「私まだ何も言ってないし…。それに! これって、成績に関わらないやつだしっ。大丈夫大丈夫。」
彼女に見られたかは分からないが、私は25点だった。もちろん、100点中で。
こんな点数、だれにも見られたくない。もちろんリュシアンにだって…。
私は、テスト用紙をより小さく畳み、だれにも見られていないか周りの様子をしつこいくらい確認した。
必死に、自分を正当化させるように言い聞かせていたが、内心不安な気持ちでいっぱいだった。元々勉強はできる方ではないが、ここ最近、一学期からおかしいくらいに点数がガタ落ちしている。
このままじゃあ、点数がなくなっちゃうよ…。
「あ、桃香。なんか噂なんだけどさ、それ…。」
「今から、テストの解説するから、自分の席戻れー。」
莉々が言いかけた途端、新井先生の声が教室中に響き渡った。
生徒たちは、自分の席へと静かに戻る。皆、誰がどんな点数をとったのか気になるようで、自分の席から立ち上がって巡回するものも多くいた。
「ちなみに、平均点は52点だな。まあ、30点未満は赤点ということだ。みんな知ってると思うが、このテストは成績に関わらない。それで…。」
「ええ!リュシアンくん、91点!?」
今度は、クラスの女子生徒が大きな声を出した。視線が、一気に彼女に集まる。
私もならって、声の方向に反応する。
リュシアンの隣の席の女子だった。
前髪もばっちりきまっていて、毛先は綺麗にカールされている。
バレないほどのスクールメイクだが、私にはバレバレである。ウサギ色のリップがほんのりに光っている。
そして、瞳もまた、彼に向かって輝かせていた。
「うそ!?」
「やば! ガチやん。」
「見してみして。」
「きゃー! 頭いいんだね。」
皆もまた、リュシアンに周りにどっと集まり、男女関係なく、尊敬の眼差しを向けていた。
リュシアンは、ニコニコすることなく、軽く笑みを浮かべながら軽く会釈をした。先生が話していたから、遠慮しているのだろうか。そこもまた、魅力の一つである。
彼は、本当に人気者だ。異次元の美貌はもちろん、持ち前のコミュ力で男女ともに虜にさせている。
「はい、そこうるさいぞ。いつもなら、補習はないんだが、今回、あまりにも点数低い人が多すぎる。だから、特別に30点未満の生徒は放課後の補習をすることになった。」
「「えーーー!!!!」」
先生の信じられない言葉に、クラス一同が悲鳴をあげた。
また、補習組ではなさそうな人は、高みの見物のような表情をしている。
私は、当たり前に絶望。
そんなの聞いていない。
補習なんか、高校入ってから一度もうけたことがない。いつもギリギリセーフを狙っていたから。
私は、叫ぶタイプではないので、その場で身体が硬直し、瞬きの回数を早める。
「センセー。 あたし、部活あります。」
「俺も俺も。委員会あるし。」
補習組らしき生徒たちは、よほどやりたくないのか、先生にいろいろな言い訳をつくり、逃れようとしている。
「いいか? お前ら。学業より、大事なものなんかない。課外活動より、最優先だ。この補習は強制参加だから。遅れないように。」
「該当者には、個別で補習の案内のメールを送る。来週から頑張れよ。」
先生はそれだけ言い捨て、テストの解説をし始めた。
私は、自分が補習の対象者なことが信じられなさすぎて、内容はまるで入って来なかった。
というか、聞いたところで、理解できない。
その日の放課後。
一学期と変わらず、野々木くんは私のクラスの終礼が終わるまで待っていてくれた。一緒に帰るということを忘れていないようだった。
夏が終わったら、一緒に帰ってくれないのかと少し心配していた自分が恥ずかしくなる。
教室のドアを開けた瞬間、彼は飼い主を待つ大型犬のような満面の笑みで私を迎え入れてくれた。
それにつられて、私も笑顔になる。
ヒグラシの鳴く声が、心地よい。田舎特有の人気の少なさと虫の鳴き声がより一層、夏の終わりを感じさせる。なんだか、切なくて胸が苦しくなる。
自転車を引く彼と、歩いている私の影が映る。
影は、だんだん細長く伸びていき、ついついさらに先を追いたくなるのだ。
「そうか〜。宮は、来週から補習なのか。」
「ちょっと…!! 声が大きいってば!誰かに聞かれたら!」
「あっはは! そんなでかい声じゃないし、大丈夫だって!!」
少し前に、私の夏休み明けテストの補習の話をしたら、彼は面白がってるのか、大きな声でゲラゲラ笑っている。
私は、彼を見つめ、口を尖らせる。
野々木くんの学力はそんなに詳しくないが、この流れからすると、恐らく補習組ではなさそうだ。
「…大丈夫じゃないんだもん。」
私は、彼から視線をそらす。
「でもさ、補習ってそんな恥ずかしいことじゃないんじゃん?」
「どういうこと?」
「だって、できなかったことができるようになるってことだろ?それって、超ワクワクするじゃん!」
彼の100点満点の笑顔とは対照的に、私は無意識に苦笑いをする。
「さすが野々木くん…。ポジティブで眩しく見えるよ…。」
「まあ、それくらいのマインドで行けって! 俺も手伝えることあれば、手伝うし。」
「ありがとね。忙しいのに。なるべく、迷惑かけないように頑張る。」
「わかってないなあ。宮は。」
彼の声色が少し変わった気がして、私は思わず彼の顔を見つめる。
夕日に照らされたその瞳は、黒くて、でもどこか透明で。
「迷惑…かけろよ。好きなヤツが困ってたら、助けてやるのが俺の役目だし。」
彼は、思ったことをすぐ口にするタイプ。
だから、きっと、嘘はつかない。
私の気持ちだって…そう。
どこを見たらいいのか分からなくて、瞬きの回数だけ早める。
「あ…。えっと…。…ありがと。」
「…あーーもう。いちいち、言わせんなよな! 可愛いヤツ!」
私が顔を隠すと、彼は照れ隠しをしたかのように、またクシャッと笑った。
つきあたりで野々木くんと別れた私は、近所のスーパーで食材の買い出し。
リュシアンと一緒に暮らすようになってから、食生活に気を使うようになってきた気がする。そんな自分も、なんだか嫌いじゃない。
彼は、本当に食に厳しい。余計にゲームの世界で美味しいものしか食べてこなかったのだろうか。油っぽいものは嫌うし、なまものもあまり好んで食べない。どちらかというと、ヘルシーのものが好きなようだ。ちなみに、肉に少しでも赤みがかかっていると、『焼きなおせ。』とイチャモンを言ってくる。
自分で何もできないお坊ちゃまのくせに。
そんな文句に、文句を言うやりとりも今では夫婦みたいで楽しいまでもある。もちろん、最初は、ゲームとキャラが違うし、なんだか都合の良い家政婦のように使わられているような気がして嫌気が差したが。
これが、彼の沼にハマってるということなのだろうか。恋は盲目である。でも、今は、盲目でもいいとも思っている。こんなに夢中になっている自分もまた怖い。
スーパーでお会計を済ませた私は、両手でレジ袋を抱えたまま、自宅へ向かう。
ついつい、買いすぎてしまった。リュシアンの好きな食材を無意識に選んでいたら、あっという間にレジ袋がパンパンである。
私は、スクールバッグを右肩にかけ、両手で、レジ袋を手に持つ。
卵も入っているため、割れないように慎重に持つ。あまりにも詰め込みすぎて、袋の中が、ミシ、ミシといっている。袋が破れてしまいそうだ。
その時、見たことある人影を目にした。
「あ、リュシアン。」
相変わらずの異次元のオーラ。
視力の悪い私でも、彼が視界に入れば、すぐ見つけることができる。彼の周りだけ、異常な輝きを放っている気がする。
「なんだ。アンタか。今帰りか。」
彼のそばには、茶色い猫がいた。きっと、このあたりに住み着いてる野良猫だろう。
耳には、切り込みが入っている。動物病院で、生殖機能の消失をしている証拠だ。
猫は、私の気配に耳をピクリと動かし、ちらっと顔を見つめていた。
「そうよ。誰かさんのために、買い出しをしているの。」
「オレ様を巻き込むなよ。自分だって食べるくせに。」
彼は話を続ける。猫の柔らかそうな背中を優しく撫でていた。
「にしても、コイツすっげえ人懐っこい。見ろよ、ほら。」
「すごい。ぽっちゃりしてる。可愛い。」
私にとっては、猫の虜になっているリュシアンのほうが可愛い。まあ、そんなこと言えるわけないけど。
猫は、気持ちよさそうに目を閉じ、お腹をダイナミックに見せている。
隣で彼が嬉しそうに触るもんだから、私も思わず笑みがこぼれる。
しゃがみ方も本当に上品である。前の世界からの癖なのだろうか。左足を立てて、王子様座りをしている。
その姿が本当に様になっていて、光が眩しい。
「そこにいるんじゃ、見えないだろ。もっとオレの近くにこい。」
「う、うん。」
私は静かに彼の元へ近づく。
ふわり。
ワイシャツからほんのり優しい柔軟剤の香りがした。
同じ柔軟剤を使っているはずなのに、なんだか別物のような気がして、妙にドキドキする。
「くくく。愛くるしいな。こらこら、舐めるなって〜。」
猫は、リュシアンの頬をぺろりと舐めた。一回だけではなく、よほどおいしいのか何度も舐め続ける。
彼は、くすぐったそうに、クシャッと笑った。
あ。
リュシアンって、こんな顔で笑うんだ。
鼻の付け根にシワができていて、嘘一つない笑顔。
白い歯がよく見えた。
それなら、やっぱり好きな人に見せる顔だって…
「ずるい。」
気がついたら、私は、声を漏らしていた。
彼は、私の言葉に反応するように、顔を向ける。
スカートの裾をぎゅっと掴んで、目を逸らした。
「な…! なんでもない!」
「なんだよ。アンタもこの猫になりたいって言いたいんだろ。」
「はぁ!?!? そんなこと一言も行ってないじゃん!! 勘違いしないでくれる。」
私がよほど大声あげてしまったのか、猫は走ってどこかへ行ってしまった。
リュシアンは、その姿を見届けるように遠くを見つめる。
「顔に書いてあるぞ。まあ、アンタはオレ様の働きアリだな。」
「アリ!?!? 女の子に向かって失礼な! 今すぐ訂正して!!」
「あーうざったいうざったい。」
彼は、また笑った。
ううん、これはきっと私をからかう笑顔。
好きな人に見せる笑顔なんかじゃない。
リュシアンにもっと可愛いところを見せたいのに、ついついにムッとした顔を見せてしまう。
「誰がうざたっいよ! 今日はリュシアンの好きなすき焼きにしようと思ったのに!!」
「お、それは食うぞ。早く帰るか。」
「もう、レジ袋半分持って。重いんだから。」
彼は、私からパンパンに食材が入ったレジ袋を手に持った。
「働けないアリだったな。力ねえな。ほんと。」
「つべこべ言わないで持つ!! 帰るよ!!」
空は夕焼け空。私たちの影がすこしずつ伸びていく。
思わず頬を膨らませながら歩き出す。
そのすぐ横で、リュシアンはレジ袋を片手にひょいと持ち上げ、まるで散歩でもするかのように軽やかに歩いていた。
リュシアンの白いシャツが、夕陽に透けて少しだけ赤く染まっている。
その横顔を見ると、風に前髪が揺れていて、目を細めて前を見つめるその表情は、まるでこの世界にずっといたような馴染み方で、少しだけ、胸がぎゅっとなる。
もう夏の終わりだというのに、風はどこか生ぬるくて、蝉の声だけがやけに遠くから聞こえていた。
夏は、終わらない。
きっと、彼といる限りは。




