第一章1 『結び目』
血なまぐさい臭いが鼻を刺激し、生暖かい血液が自分の手にこびりついている。
真っ赤に染まった少年の視界の中心に、一人の少女が倒れていた。
『ふざけるなよ……』
少女の腹部から大量にこぼれ出る血液。
それを止めようと手で塞いでも、指の隙間からあふれてしまう。
――死ぬのだと、直感的に理解してしまう。
『ダメだ。死ぬなあかね』
大粒の涙を零しながら、必死に腹部を抑える。
少女はわずかながら意識があった。だがそれも、虚ろな表情を見れば消えかかっていることがわかってしまう。
『死なないでくれ。お願いだから……』
しかし無情にも、血はあふれ続ける。
『お前が死んだら、僕は――ッ』
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「ん……」
鳴り響く学校のチャイムが、ひずるを夢から引きずり出す。
机にうつ伏せになって寝ていたひずるは、ゆっくりと顔だけ上げる。それから誰もいない教室をグルリと見まわして、安堵の息を零した。
「夢か……」
体中が汗まみれだ。
あんな悪夢を見たのだから当然と言えば当然だが。
ひずるはふと自分の手のひらを顔の前まで持ってきて、わずかに残る血の付いたような感覚に、思わず顔を顰めた。
「夢でよかった。もうあんな思いしたくないしな……」
再度深く安堵を噛みしめて、それからひずるは立ち上がる。
「今は何時だ? えっとぉ……」
伸びをしながら呟き、教室にある時計を見やる。
そしてひずるは、ピタリと動きを止めた。
「やばっ! あかねに怒られる」
ひずるは焦ったようにカバンを手に取り、そそくさと教室を後にする。
昇降口までくれば、外で待つあかねの姿が目に入って、慌てて靴を履く。
「ん? あ、一円あるじゃん……」
ふと見れば足元に一円玉が落ちているのに気が付く。ひずるはそれをポケットに入れて、立ち上がる。
それからあかねの方へと歩き出し、目の前まで来ると足を止めた。
「遅いよひずる」
「ごめんごめん。悪かったって……ほら、そこに落ちてた一円玉やるから」
「いらないよそんなの! 一円玉で懐柔されるほど私は安くない!」
差し出した一円玉をポケットに戻し、ひずるは軽く笑う。
「ねぇひずる、もしかして寝てた?」
「寝てない」
「いや寝てたでしょ! 髪解けてるし」
「あぁ、だからわかったのか。あれ? ヘアゴムどこ行った?」
「髪に引っかかってるよ?」
「え? あ、ホントだ」
「私が結ぶ?」
「いや自分でやる」
「私がやってあげる!」
「なんでそんな頑ななんだよ!」
『まぁ別にいいけどさぁ……』と言いながら、ひずるはヘアゴムをあかねに渡し、背中を向ける。
すると、あかねはひずるの肩まで伸びる黒髪を、後ろで一本に結んでくれる。
ひずるは百七十五センチの身長に、引き締まった体つきだ。まだ十八歳で、顔立ちには若干の幼さが残っている。
「はい、出来たよ」
「サンキュ」
そう言って振り返ると、あかねが『はい百円』と言って、頂戴とばかりに手を出してくる。それにひずるは『あぁわかったわかった』と言ってポケットから小銭を出して手のひらにのっける。
「ってこれさっきの一円じゃんか!」
「百倍すれば百円だよ」
「いや百倍できないじゃん!」
と、必死にツッコミを入れるあかねを前にひずるはクスクスと笑う。
そんなひずるに釣られて、あかねも笑った。
しばらく二人で笑い、しばらくしてひずるはあかねをじっと見つめる。と、不思議に思ったのか、あかねが小首を傾げた。
「なに?」
「いや、金色の瞳がきれいだなって思ってさ。俺もそんな綺麗な目がほしかったよ」
「私からしたら、黒も珍しい気がするけど」
「いや黒は珍しくないだろ!」
そうツッコミを入れて、改めてひずるはあかねを見る。
淡い金色の瞳がこちらを見ている。金色に近い茶髪のポニーテールが揺れていて、その姿は、背後で光る夕日ととてもマッチしていた。
あかねの身長は百五十センチくらいと低い。スタイルもよく、顔立ちは若干幼さがある。
服装はひずるが制服なのと対照的にあかねは私服だ。学校に通ってないのだから当然だ。
「ん、誰かいないか?」
「え?」
あかねの背後、校門の影に隠れて人影が見えたような気がして、ひずるは顔を少し横にずらして確認する。あかねもつられて振り返るが、
「いないよ?」
そこには誰の姿もなかった。
「あれ? 今いたと思ったんだけどなぁ……」
そう言って少し歩き、校門の横からひょいっと顔を出して見るも、そこに人影はない。
「ひずる眼科行く?」
「いや目が悪いわけじゃねぇよ!」
隣に来たあかねの言葉に思わず切り返す。
それからひずるは、『まぁ多分気のせいだ』と言って話を終わらせた。
「じゃ、帰ろうぜ」
「うん」
そうして二人は歩き出す。
こうして二人で帰るのも、今となっては日常のようなものに変わった。
しばらく歩くと、横断歩道の信号で止まる。それから少し待てば、すぐに信号は青に変わった。
「あ、青になった!」
「――っ、ちょっと待て! あかね!」
次の瞬間、ひずるは宙を舞った。
本当に一瞬の出来事。飛び出したあかねの隣、車が急発進したのを見て、ひずるは咄嗟にあかねを突き飛ばした。
――そして衝突。
それは、間に合うはずのない一瞬だった。
ひずるは十字路のド真ん中に落ちて、コロコロと転がる。
痛ぇ、痛すぎる……
体中が悲鳴を上げていた。
指の一本すら動かせない。
全身がまるで炎の中にいるような暑さに包まれ、肉をえぐり取られたかのような激痛が体のあちこちに生じている。
ぼやける音。霞む視界。
その視界の半分を道路が埋めていた。わずかにあかねの姿が見えていたが、ひずるにはそれを認識できるほどの余裕がなかった。
「――る!」
痛い痛い痛い痛い痛い!
燃えるような感覚と共に滝のように汗を搔きながら、ひずるは激痛に悶えていた。
あかねがひずるを呼んでいることになど気づけるはずもない。
「あかね待――」
「――た、誰? いや、それ――も離――!」
「だから待――て」
痛い痛い痛い痛、い? 痛く、ない?
痛みが消えた。
視界が霞む。音が遠ざかる。
――どんどんと意識が薄れていく。
「待――なんてい――ないよ! 早くし――と――るが!」
「俺――ず――」
痛くない? あれ? ヤバイ、死ぬ……これ死ぬ! ヤバイ、ヤバイヤバイヤバイヤバイ死ぬ!
視界が暗くなる。
音が聞こえない。
体の感覚もない。
嫌だ、死にたくない! いつ死ぬ? いつ死ぬ? 怖い、怖い怖い怖い怖い怖い、嫌だ! 死ぬ死、ぬ……死っ――
「――がふっ!」
思わずせき込む。
その反動で体が揺れて、ひずるは咄嗟に瞼を開けた。
「……ぁ?」
空が見えた。
ざわざわと音を奏でる木々の葉の隙間から、空が見えた。
「なにが……ん? なんだこれ、声おかしくないか?」
妙に声が高い。そしてどことなく可愛らしい声だ。
理解が追い付かない。
さっきまで自分は道路に横になっていた。上向きじゃなかったし、空が、ましてや木の葉など見えるはずがない。
声がおかしいことに関しては、本当によくわからないが、
「それにさっき俺は、死んで――っ! 痛ぇ……げふッ!」
腹、か……?
腹部だ。腹部に異常なほど痛みが集中している。何かが突き刺さっているかのような、そんな違和感がある。
「ん、ダメだ……」
起き上がろうとするも、腹筋に力が入らない。
ひずるは起き上がるのは諦めて、ゆっくりと体を横向きにして――、
「――俺の手、こんなに小さかったか? いや、今は……」
自分の手から視線をそらし、あたりを見やる。
「雪? それにここ、やっぱり、森……クソ、痛ってぇ」
なんで雪が、今夏だよな? いや、今考えるのはそこじゃない。誰かに助けを!
「暑い……」
体が火照っているのがわかる。
「ゲホッ――! ぇ?」
咳き込んで口から出てきたのは――血だった。
口の中に鉄の苦い味が広がる。
「ヤバイ、これは本気でヤバイ……」
耳鳴りがする。
視界が狭窄する。
「誰かに、助けを――」
森の中で、大声を出すことも出来なさそうだ。
絶望的な状況だと言えた。
「ぁっ……!」
正面の木の後ろに、少女の姿が映りこむ。
ひずるは咄嗟に手を伸ばす。
「たず、げ……げふっ!」
喉に込み上がってくる血液を吐き出して、ひずるは必死に助けを乞う。
それを見た少女は委縮し、後ずさる。その表情は、ただ恐怖に怯えているだけのようには見えなかった。
ヤバイ……今度こそ死ぬ。嫌、嫌だ。死にたくない……
「死にたく、な、い……」
瞼は閉じ、意識は途絶えた。
聞こえていたはずの耳鳴りすらも、もう聞こえなかった。
「そんなこと言われても、私は……」
気を失ったひずるを見下ろし、少女は悲しそうな、辛そうな表情で呟いたのだった。




