第7話「何を教えてほしいの?」
俺が美魚川さんを連れて特別教室に入ると、準備を終えた閑と直接来たらしい小桃ちゃんが先に席についていた。
「お待たせ! 机くっつけよっか」
黒板の方を向いて等間隔に並んでいる机同士をくっつけて、四人が向かい合って話せるようにする。その支度が終わると、小桃ちゃんから投げかけられた。
「おはようっ畔くん!」
「おはよ、小桃ちゃん。昨日はよく眠れた?」
「おかげさまでぐっすりだったよ。……えと、そちらの美人さんは……?」
小桃ちゃんの視線は美魚川さんへ向けられている。
「さっきそこで偶然会った美魚川聖海さんです。なんとなく連れてきちゃった」
じゃあさようなら、と素っ気なく別れる雰囲気ではなかったのだ。
「星組の美魚川聖海です。呼び方、聖海でいいよ」
「急に連れてきちゃってごめんね、聖海ちゃん。突然ですが聖海ちゃんは勉強できる人?」
「それなりには」
「マジ!? 頼もしいじゃん! 俺たちここで朝活勉強をしようの会を発足したところなんだけど、よかったら聖海ちゃんも参加してくれない?」
やけに図々しい自分だ、とも思うけれど、救世主が現れたからには逃したくない。それになんだか聖海ちゃんは俺のペースに淡々とついてきてくれるタイプの人だと肌で感じていたのだ。そして聖海ちゃんは期待通りに了承してくれる。
「いいよ。いつもこの時間に登校してるから、別に負担じゃないし」
「やったー助かる!」
「勉強できる人ゲットできてラッキーじゃん」
昨日の相談を覚えていた閑も喜んでくれているみたいだった。
「で、何を教えてほしいの?」
「えっ」
聖海ちゃんに単刀直入に聞かれて、俺は答えに詰まった。
「今日の勉強会の目的は?」
「えっと……中間テストでいい点を取りたい人の集まりです」
「なるほど。今日はどの教科をやりたい?」
「……まだ決めてない……」
聖海ちゃんは善意で訊ねてくれているのだろうが、俺は自分の見通しの甘さを恥じた。数拍置いて聖海ちゃんの方から切り出す。
「朝は時間が限られているから、できることは少ない。だから、前日までに『朝の勉強会の時間で何をしたいか?』を決めてこないと難しいと思う」
「おっしゃる通りです……」
聖海ちゃんはまた少し考えてから続ける。
「だから今日は、テストまでの勉強スケジュールを決める時間にするのがいいと思うな。それなら有意義な時間になるんじゃない?」
「建設的な提案助かる……。アドバイスお願いします、聖海先生」
「まだ先生って呼ばれるほどのことはしてないけど……。そうだね、授業の時間割を元にスケジュールを割り振るのがいいと思う。僕は他のクラスの時間割までは把握してないから、それは自分で考えてくれる?」
「私は畔の付き添いだから花組基準でいいよ」
閑からの譲歩に甘えて、花組の時間割をもとに勉強のスケジュールを組むことになった。俺は小桃ちゃんと相談しながら日程を割り振っていく。
「できた?」
「できた! これで計画的に取り組めそうだな」
「……無計画にやるよりはね。それで、前日の夜のうちに分からなかった部分を、朝の勉強会の時間で僕が教える。これなら効率よく進められると思う」
スケジュールが完成し、まだ少し時間が余っていたのでなんとなく雑談を始めた。議題を提示してきたのは聖海ちゃんだった。
「ところで、どうしてテストでいい点を取りたいの?」
「それが学生の本分だから……って言えたらよかったんだけど。実は少々事情がありまして……」
俺は小桃ちゃんに配慮しつつかいつまんで事態を説明する。
「へえ。灰ノ宮さんって入学式で代表挨拶してた人でしょ? そういう感じの人なんだ」
「まぁ……俺たちにとってはあんまりありがたくない存在ってことだよ」
半ば灰ノ宮さんの陰口のような形になってしまったので、最後は俺たちの感想ですよということにしてぼかす。あの人は嫌な人だ、という先入観を与えたいわけではなかったからだった。そういう小賢しい真似をする人間にはなりたくない。
「だけど、一位になるのはちょっと大変そうだね」
「一位……」
「灰ノ宮さんは学年成績一位だから代表挨拶をしたんでしょ? 彼女を倒すなら、畔か小桃が一位にならないとってことだよ」
明確な数字を突き付けられると自信がなくなってくる。
「……まぁ、僕は大して力にはなれないかもしれないけど。みんなの頑張りは応援することにする」
「ありがと……」
予鈴が鳴り、俺たちはそれぞれの教室に戻っていった。確かにそうだ。聖海ちゃんが全部解決してくれるわけじゃない。努力するのは自分自身なのだ。
それから俺はスケジュールを元にテスト勉強を進めていった。分からないところで手を止めると先に進めないので、とにかく全ての設問に目を通す。どこが分からなかったかを洗い出して、翌朝の勉強会で聖海ちゃんに教えてもらう。単純なようでいて、根気と集中力を求められる作業だった。だんだん気が滅入ることもあったが、小桃ちゃんを泣かせたくない、灰ノ宮さんを倒してやりたいという気持ちでなんとか続けていた。
聖海ちゃんは「勉強はそれなりにできる」という自己申告の通り、賢い人のようだった。俺や小桃ちゃんの質問に対し、分からないと断ることは一度もなかった。そして説明も分かりやすかった。
放課後に聖海ちゃんを訪ねると、バイトの日は無理、と断られたので、特別教室が空いている日はそこで、空いていない日は図書室で静かに勉強に取り組んだ。こんなに学校の勉強に対してストイックに取り組むのは生まれて初めてかもしれない。小桃ちゃんの真剣な横顔を見ると、俺ももう少し頑張ろう、と気が引き締まる思いだった。閑は飽きるまでは俺たちと一緒に勉強をして、飽きたら寝たり趣味の裁縫を始めたりしていた。閑も勉強に熱心なタイプではなかったので、これでもだいぶ進歩しているのだ。
目標に追われる日々はあっという間に過ぎていった。
来たる中間試験の当日、俺はやけに神妙な気持ちで自分の座席についていた。カンニング防止のためにすべての席は等間隔に離して配置されている。その景色の中に居ると、孤独な戦いだなぁと感じざるを得なかった。
大丈夫。やれることは全部やった。焦ったって仕方がない。落ち着いて、今の俺にできる全力を出し切るしかないんだ。
全席に伏せたテスト用紙が配られる。時計の針が進む。
「それでは、始めてください」
先生の合図で、クラス中が一斉にテスト用紙を捲った。戦いの始まりだ。
***
中間試験の日程が終わり、数日が経過した。今日は結果発表の日だ。高等部一年の教室近くの廊下に、学年の成績順位が貼り出される。俺は緊張を隠しきれずに、そわそわと教室の中で貼り出しを待っていた。
「畔くんも緊張してる?」
通路を挟んで隣の小桃ちゃんも昼食を食べ終えて、俺に話しかけてくる。
「さすがにな~。小桃ちゃんは平気?」
「小桃も心臓がばくばくだよ……」
「だよね。でも、小桃ちゃんがすごく頑張ってたのは俺が知ってるから! 閑と聖海ちゃんもね」
「……うん!」
そのようなことを話していると、廊下から物音が聞こえてきた。中間試験の順位が書かれた用紙が貼り出されたのだ。
「一緒に見に行こう」
俺が誘うと、小桃ちゃんはこくこくと頷いてついてくる。心臓の上に手を当てて深呼吸し、教室を出て結果用紙の前まで進む。
1位 灰ノ宮瑠璃羽 総得点498国語98数学100 理科100 社会100 英語100
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12位 美魚川聖海 総得点481 国語95 数学98 理科98 社会96 英語94
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60位 茨咲音夢 総得点350 国語70 数学70 理科70 社会70 英語70
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75位 鵠沼畔 総得点294 国語63 数学53 理科56 社会60 英語62
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81位 鵠沼閑 総得点269 国語62 数学49 理科47 社会55 英語56
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171位 親沢小桃 総得点167 国語23 数学43 理科38 社会31 英語32
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「っ……」
覚悟はできていたことだったけれど、いざ目の当たりにするとなかなかつらいものがあった。一学年は36人のクラスが花月雪星宙の5つなので全員で180人。真ん中は90位になるので、俺の75位という順位は半分よりは上と言える。進学校の難しいテストであることを加味すれば、十分な進歩だ。しかし、目標である灰ノ宮瑠璃羽は総得点498点で1位。自分の名前が記された欄と灰ノ宮さんの欄を見比べると、その間の行数は途方もなく遠かった。
小桃ちゃんの方を見ると、彼女もまた俯いていた。自分にも小桃ちゃんにも難しい挑戦だとは分かっていたが、やはりこうなってしまうのか。
「小桃ちゃん……」
「あ、あのね、畔くん。私、全然ダメだったけど……でもね、最下位じゃないのは初めてなんだよ……?」
小桃ちゃんは震える声で言う。
「うん……よく頑張ってたよ」
自分の努力は無駄だった、なんて小桃ちゃんには絶対思わせたくない。しかし無情にも乱入者が現れる。
「なんだ、この程度なんですの?」
偉そうに腕を組んだ灰ノ宮さんがすかさず俺と小桃ちゃんに絡んできたのだ。約束は約束、彼女が何かを言ってきても止める権利はない。俺は灰ノ宮さんに負けたのだから。
「大したことないんですのね。わたくしはいつも通りに普通の勉強をしただけですから……これが実力、ということですわ。親沢さんは……まあ、そんなものでしょう。しかし高等部に受験で入学した鵠沼さんまでそんな有様だなんて! もしかして鵠沼さんも信者枠か何かでして?」
「お前……! もう少し他に言い方が……!」
俺が耐え切れずに反論しようとした瞬間だった。ドン、と大きな音が辺りに響いて、周囲は静まり返った。灰ノ宮さんが背中を預けていた廊下の壁……そこに、蹴りを入れた者が居たのだ。自分の脇腹のすぐ横の壁を勢いよく蹴られた灰ノ宮さんは、呆然としていた。
「な……なな、なんですの……?」
灰ノ宮さんの声が上擦る。あんなに激しく狼狽える灰ノ宮さんを見るのは初めてだった。
――壁を蹴ったのは、茨咲さんだった。