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第93話 蒼穹を駆けるゼブル・アーク


 フィリスティア王国の命運を賭けた戦略会議室。

 ベル・シレイラの「行ってきます」という力強い言葉に、その場にいた誰もが希望を見出した。

 だが、その直後だった。ベルがふと、困ったように眉を下げたのは。


「……あ」


「どうした、ベル?」


 イラーフ王が怪訝な顔をする。ベルは視線を泳がせ、言いにくそうに口を開いた。


「あの……陛下。非常に申し上げにくいのですが」


「なんだ、言ってみろ」


「僕の『転移魔術』には、一つだけ絶対的な制約がありまして……。『一度行ったことのある場所』か、『視認できる場所』にしか飛べないのです」


 シン、と会議室が静まり返った。

 ベルは申し訳なさそうに頭を掻く。


「北のムネヴィス辺境伯領……僕、行ったことがありません」


「な、なにぃぃぃッ!?」


 軍部高官たちがずっこけるように体勢を崩した。

 イラーフ王も目を見開き、口をパクパクさせている。

 ベルの転移能力は規格外だが、万能ではない。座標という概念を確定させるためには、術者自身の認識が必要不可欠なのだ。


「ま、まずいぞ……。早馬でも三日はかかる距離だ。今から陸路で向かっては、到着する頃にはムネヴィスは……」


「転移で近くの街まで飛んで、そこから走りますか? それでも半日はかかりますが……」


 重苦しい空気が再び会議室を支配しかけた、その時だった。

 部屋の隅、近衛兵たちが控える影から、穏やかで、鈴を転がすような涼やかな声が響いた。


「――困ってるようだね、ベル」


 その声に、ベルが弾かれたように顔を上げる。


「フェル!」


 そこに立っていたのは、透き通るような金髪と、海の色を映したような碧眼を持つ青年だった。

 純白の海軍将校の礼服に身を包み、腰には細身の指揮剣を佩いている。

 フィリスティア王国第4王子にして、若干14歳で海軍大将を務める天才、ザーフェル・フィリスティア。

 ベルにとっては、身分を超えた無二の親友である。


「やあ、久しぶりだねベル。……少し背が伸びたかい?」


「フェルこそ。相変わらずその制服、似合っていますよ」


 二人は駆け寄ると、互いの手を固く握り合った。

 王族と男爵。本来なら許されない距離感だが、二人の間に流れる空気は、昔馴染みのそれだった。


「兄様! 海軍の演習に出ていたんじゃないの?」


 アナが声をかけると、フェルは優雅に微笑んだ。


「ええ、アナ。ですが北の情勢が不穏だと聞いて、急遽戻ってきたんだけど。……そうしたら、友人が窮地に立っていると小耳に挟んでね」


 フェルはベルに向き直ると、悪戯っぽく片目を閉じた。


「私の船なら、力になれるかもしれないよ? ベル」


「……『ゼブル・アーク』ですか?」


「ええ。君が私の誕生日にくれた、最高の宝物です」


 ベルの瞳に光が宿る。

 転移が使えないなら、空を飛べばいい。

 それも、ただの飛行ではない。ベルが持てる技術の粋を集めて作った、最高傑作の船で。


「陛下! ザーフェル殿下の船をお借りします! それなら、空路で最短距離を突っ切れます!」


「うむ……フェルの『ゼブル・アーク』か。あれならばあるいは……よし、許可する! 海軍大将ザーフェル、及びベル・シレイラ一行、ただちに出撃せよ!」




 王宮の裏手にある、王室専用の空中ドック。

 そこに、その船は係留されていた。


「うわぁ……でっかいニャ……!」


「きれい……まるで、白鳥のようです」


 テトとヘレンが、揃って感嘆の声を漏らす。

 全長五十メートル。船体は木材ではなく、陽光を反射して輝く『白金プラチナ』と『ミスリル』の合金で覆われている。

 流線型の美しいフォルムは、水上を進むためではなく、空を切り裂くために設計されたものだ。

 船体の中央には、天を衝くような三本の巨大なマストがそびえ立ち、今はまだ畳まれているが、そこには特殊な繊維で織られた純白の帆が眠っている。


 空戦型魔導帆船『ゼブル・アーク』。

 かつてベルが、誕生日のフェルのために、「工房魔術」を駆使して建造し、プレゼントした規格外の代物だ。


「さあ、乗ってください。総員、出航準備は完了しています」


 タラップの上で、フェルが手招きする。

 甲板には、精悍な顔つきの海軍兵士たちがキビキビと動き回っていた。彼らは皆、フェルの私兵であり、この特殊な船を扱える選りすぐりの精鋭たちだ。


「ベル、久しぶりに君を乗せられて嬉しいよ。……だけど」


 フェルは操舵輪の前に立つと、少しだけ表情を曇らせた。

 彼は空を見上げる。風は、北から吹いている。向かい風だ。


「この船の浮力は魔導機関で賄えますが、推進力はあくまで『風』頼み。この向かい風の中、タッキング(ジグザグ航行)で北へ向かうとなると……どんなに急いでも丸一日はかかってしまう」


「一日……それでは、ムネヴィス辺境伯が持ちません」


「ええ。悔しいけど、それが帆船の限界なんだよ」


 フェルが唇を噛む。

 船の性能は最高だ。だが、自然のことわりには逆らえない。

 ……普通ならば。


「大丈夫ですよ、フェル。……忘れていませんか? この船を作ったのが誰なのか」


 ベルはニヤリと笑うと、甲板の中央にあるハッチを指差した。


「機関室へ行きます。少しだけ、『リミッター』を外させてもらいますね」


「リミッター? ベル、君はこの船にまだ隠し機能を?」


「フェルには内緒にしていました。……危なすぎるので」




 船の心臓部、魔導機関室。

 部屋の中央には、巨大な水晶のような『魔導核コア』が鎮座し、青白い光を明滅させている。これが船全体に浮力を供給するエンジンの役割を果たしている。


「ウール、フィン。入り口を見張っていてください。誰も入れないで」


「了解。……へっ、ベルの『悪い顔』が出たな。こりゃあ派手になるぜ」


「また無茶をするんですね……。船が壊れないといいですが」


 苦笑する仲間たちを背に、ベルは魔導核の前に立った。

 彼は両手をかざし、魔力を流し込む。

 通常の船なら、風を受けて進む。

 だが、風がないなら? 向かい風なら?

 ――作ればいい。


「『術式解錠』……第一拘束解除。……強制排熱機構、接続」


 ベルの詠唱と共に、魔導核の光が青から赤、そして眩い黄金色へと変化していく。


 ゴゴゴゴゴゴ……ッ!!


 船全体が、獣の唸り声のような重低音を響かせ始めた。


「な、なんだニャ!? 地震かニャ!?」


「いえ、船自体が震えています。……魔力出力、計測不能。ベル様、何を……」


 甲板で待つテトたちが悲鳴を上げる中、ベルはニヤリと笑った。

 彼が組み込んだのは、前世の記憶にある『ジェットエンジン』の理論を魔術で再現した、「自己完結型流体加速機構」だ。

 魔力を爆発的に燃焼させ、その排熱と衝撃波を後方へ噴射する。さらに、船体の周囲の空気を操作し、強制的に「追い風」を作り出す。


「フェル! 聞こえますか!?」


 ベルが伝声管に向かって叫ぶ。


「帆を全開にしてください! 風は……僕が送ります!」


「ベル!? ……了解だ! 総員、メインセール展帆! 衝撃に備えろッ!」


 フェルの号令が響く。

 バサァァァッ!!

 三本の巨大な帆が一斉に広げられた。

 その瞬間、ベルが術式を起動させた。


「行けッ! 『蒼穹の疾風ジェット・ストリーム』ッ!!」


 ドォォォォォォォォンッ!!!


 爆音。

 船尾から、青白い魔力の奔流が噴き出した。

 同時に、船の前方の空気が圧縮され、凄まじい勢いで後方へと流れる。

 人工的に生み出された暴風が、広げられた帆を極限まで膨らませた。




「うわあああああぁぁぁぁッ!?」


「きゃあああああっ!!」


 甲板にいた兵士たちが、慌てて何かに掴まる。

 テトはマストにしがみつき、アナは手すりを握りしめて吹き飛ばされないように耐えた。


 加速。

 圧倒的な加速だ。

 ふわりと浮いていた『ゼブル・アーク』は、まるで弾丸のように空中ドックから弾き出された。


「くっ……! これが、ベルの隠し玉か……!」


 舵を握るフェルの顔が引きつる。

 だが、その瞳は少年のように輝いていた。

 速い。

 かつてない速度。

 雲を、風を、音さえも置き去りにして、白金の船が空を駆ける。


「報告! 現在速度、想定の三倍……いえ、五倍! さらに加速しています!」


「船体、きしみ音なし! 魔導障壁が空気抵抗を無効化しています!」


 兵士たちの絶叫に近い報告。

 フェルは前髪を風になびかせながら、力強く舵を切った。


「素晴らしい……! これなら行ける。半日どころか、数時間で!」


 フェルは伝声管に向かって叫び返した。


「ベル! 最高の風だ! これなら夕刻前にはムネヴィスへ着ける!」


 機関室から戻ってきたベルが、少し顔を赤らめながら甲板に出てきた。

 フェルの隣に立つと、前方の空を見据える。


「……よかった。フェルの操船技術なら、この速度でも扱えると思っていました」


「買いかぶりすぎだよ。……でも、親友がくれた『追い風』です。無駄にはしないさ」


 フェルは穏やかに、しかし凛とした声で全乗員に告げた。


「皆、聞いたかい! 我らが英雄が、道を作ってくれた。……全速前進! 進路は北! ムネヴィス辺境伯領へ!」


「「「アイアイ・サー!!!」」」


 勇ましい掛け声と共に、『ゼブル・アーク』は更に一段階、速度を上げた。

 王都エクロンの街並みが、一瞬で後方へと遠ざかる。

 眼下には、緑豊かな大地が流れるように過ぎ去っていく。

 そして前方には、空を覆うどす黒い雲の壁。

 北の空、ムネヴィス領。そこは既に、人と魔物の領域が混じり合う死地となっているはずだ。


 ベルは手すりを強く握りしめ、祈るように呟いた。


「待っていてください、護国卿。……必ず、間に合わせます」


 白金の翼を広げた魔導船は、雷鳴轟く暗雲の中へと、一筋の流星となって突き進んでいった。



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