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第92話 包囲網と二つの戦場


 チャタル王国の離宮、そのバルコニーに、季節外れの重苦しい風が吹いていた。

 空は厚い雲に覆われ、遠く北の方角――フィリスティア王国の空が、どす黒く淀んでいるのが見て取れる。


「……行きますよ、皆さん」


 ベル・シレイラは静かに告げると、愛刀を腰に差し、両手を広げた。

 彼が展開しようとしているのは、この世界の人々が見たこともない、彼だけの「ことわり」だ。


 ベルの足元の石畳に、幾何学的な紋様が光となって刻まれていく。

 円と直線、そして未知の言語が複雑に組み合わさった図形――『魔法陣』。

 この世界において、魔法とは詠唱とイメージで発動するものであり、こうした緻密な術式構築を行うのはベル一人だけである。


 ブォンッ……!


 空間が振動し、大気が悲鳴を上げる。

 立ち上る魔力の密度は、そばにいたウールやフィンでさえ息を呑むほど濃密だった。


「うわぁ……相変わらずデタラメな魔力量だニャ。この魔法陣を見るたびに、旦にゃさまが遠い存在に思えるニャ」


 テトが銀色の瞳を丸くし、怯えたように猫耳を伏せる。

 彼女はベルの転移能力を知っている。何度も見ているはずだ。だが、国境を跨ぐ規模となると話は別だ。そのあまりに膨大なエネルギーの奔流に、本能的な畏怖を抱かずにはいられないのだ。


「ベル様……空間座標の固定、完了したようです」


 ヘレンが告げる。彼女はその露わになった双眸そうぼうで、ベルが描く複雑怪奇な魔法陣の構造を読み解こうとしているが、その瞳には深い尊敬と、理解を超えたものへの驚嘆が宿っていた。


 ベルは振り返り、仲間たちの顔を見渡した。


「通常なら数週間、馬車を飛ばしても一ヶ月はかかる距離です。ですが、今の僕たちにそんな時間はない。……一歩で越えます」


 ベルが魔法陣に魔力を通す。


「転移魔術・発動」


 世界が反転した。

 浮遊感。

 そして、瞬きする間もない着地。


 ザッ。


 足裏に伝わる感触が変わる。

 肌を撫でる風には、乾いた砂の匂いではなく、微かな潮の香りが混じっていた。

 目を開けると、そこはチャタル王国の離宮ではなかった。

 高くそびえる尖塔、整然と並ぶ回廊、そして壁面に刻まれた「ヒュドラ(九頭龍)」の紋章。


「こ、ここは……」


「フィリスティア王国の王都、エクロン。その王宮の中庭です」


 ベルが淡々と告げる。

 アナが、ほう、と熱い息を吐き出した。


「……知ってはいたけれど、やはりベルの魔法は規格外ね。国一つを、またぎの動作だけで飛び越えるなんて」


 彼女もまた、ベルの力の底知れなさに改めて戦慄していた。

 その時、周囲を警備していた近衛兵たちが、突然の侵入者に槍を構えて殺到してくる。


「何者だッ! 動くな!」


「控えなさい!」


 凛とした声が一喝した。

 アナが一歩前に出る。その姿には、王族としての威厳が満ち溢れていた。


「フィリスティア王国、第2王女アナトリア・フィリスティアの帰還よ! そして、盟友チャタル王国の、バステト・チャタル王女と、我が国の英雄ベル・シレイラ男爵も同行しているわ!」


 その名乗りを聞いた瞬間、兵士たちが凍りつき、即座に平伏した。

 ベルは兵士の一人に歩み寄り、静かに、しかし有無を言わせぬ口調で命じた。


「陛下への緊急謁見を。……国の存亡に関わる報告があります」




 王宮の最深部にある戦略会議室。

 そこには、押しつぶされそうなほどの重苦しい絶望が充満していた。

 巨大な円卓を囲むのは、フィリスティア王国の軍部高官たち。そして上座には、かつて「暴風王」の名で他国を震え上がらせた武王、イラーフが座っていた。

 だが、今の彼には深く刻まれた眉間の皺と、充血した瞳が、事態の深刻さを物語っていた。


「……陛下。ベル・シレイラ男爵、および『ジパング』の面々、ただいま帰還いたしました」


 重厚な扉が開かれ、ベルが入室する。

 イラーフ王が顔を上げ、椅子から身を乗り出した。


「おお、ベルか! よく戻った! ……しかし、早すぎる。手紙を出してからまだ数日しか経っていないはずだが?」


「転移魔術を使いました。馬を休ませる時間すら惜しかったので」


 ベルの言葉に、軍部高官たちがざわめく。

 国を跨ぐ規模の転移。それは戦略の根幹を揺るがす力だ。だが、今はその驚きに浸っている時間すらない。


「報告します。獣人王国チャタルとの同盟は盤石です。獣王ケルヌンノス陛下より、我が国の背後はチャタルが守るという言質と、盟約の証である『創世の剛拳』をお渡ししてきました」


 ベルの報告は、この場における唯一の朗報だった。

 だが、イラーフ王の表情は晴れなかった。彼は短く礼を言うと、机上に広げられた巨大な地図を指差した。


「……そうか。だが、状況は我々の想定を遥かに超えて悪化している」


 ベルたちが地図を覗き込む。

 そこには、無数の赤い駒が、フィリスティア王国を半円状に包囲するように配置されていた。


「これを見てくれ。当初の報告通り、北の大魔森林では大規模なスタンピードが発生している。……だが、問題は西だ」


 イラーフ王の指が、西の国境線をなぞる。


「西の軍事国家ウガリット、魔法大国プランシー。この二国に加え、南西の商業国家サリデ、傭兵国家ギブアまでもが、連合軍に加わっている」


「四カ国連合……ですか」


 ベルが眉をひそめる。

 14年前よりも倍の数だ。だが、それだけではない。

 地図のさらに後方、西の最奥に、見慣れない不気味な紋章旗が置かれていた。

 絡み合う茨と、九つの柱。


「……これは?」


「『アンティゴノス古王国』だ」


 その名が出た瞬間、室内の空気が氷点下まで下がった。

 フィンの顔色が一瞬で白紙のように白くなる。


「アンティゴノス……『聖九柱教』の聖地であり、総本山……」


「そうだ。奴らが動いた。これは単なる領土的野心による侵略戦争ではない」


 イラーフ王が、吐き捨てるように言った。


「『宗教戦争ジハード』だ。奴らは我が国を異端とし、根絶やしにするつもりだ。……そして、アンティゴノス軍の主力部隊が進軍しているのは、ここだ」


 王が指差した場所。

 それは、フィリスティアの西の要衝であり、フィンの故郷でもある場所だった。


「ゲティングス辺境伯領……!」


 フィンが悲鳴のような声を上げる。

 ゲティングス家は、代々西の盾として国を守ってきた武門の家柄だ。だが、狂信的な宗教国家の全力侵攻を受ければ、ひとたまりもない。


「父上……母上……」


 フィンの拳が震える。ベルはそっと彼の方に手を伸ばし、肩を叩いた。言葉はなくとも、その体温がフィンの混乱を辛うじて繋ぎ止める。


「北のスタンピード、西の五カ国連合。……完全な包囲網です」


「ああ。我が国の兵力は二万。対する連合軍は十万を超える。その上、北からは魔物の大群だ。……詰んでいる、と言ってもいい」


 イラーフ王が机に拳を叩きつける。

 かつてドラゴンを屠った英雄王でさえ、この圧倒的な物量差と、多方面からの同時侵攻には打つ手がないように見えた。


 その時、会議室の扉が静かに開かれた。

 入ってきたのは、青ざめた顔をした美しい女性だった。

 銀色の髪を緩く束ね、喪服のような暗い色のドレスを纏っている。

 フィリスティア王国、第5王妃アシエラ。

 彼女は北の守護者、ムネヴィス辺境伯の実の妹でもある。


「……あなた。北のムネヴィス領より、最後の早馬が到着しました」


 彼女の声は震えていたが、王妃としての気品で必死に保たれていた。


「アシエラ……言ってみろ」


「兄は……ムネヴィス辺境伯は、本城である『白亜の砦』を放棄しました」


 会議室に衝撃が走る。

 砦を捨てた? それはつまり、敗北を意味するのではないか。


「違います! 兄は……逃げたのではありません!」


 アシエラ王妃が叫ぶように否定する。


「スタンピードの規模が大きすぎて、砦に籠城していては、魔物が溢れ出してしまう……そう判断したのです。兄は、全騎士団を率いて、魔物の発生源である『魔の森』へとって返しました」


「なっ……!?」


「打って出たというのか! あの数の中に!」


 それは自殺行為に等しい。

 だが、ベルにはその意図が痛いほど分かった。

 スタンピードを止める唯一の方法は、群れを統率する「核」となる強力な魔物――おそらくはドラゴン級の個体を撃破することだ。

 ムネヴィス辺境伯は、自らの命を捨て石にして、王都への被害を食い止めようとしているのだ。


「兄からの伝言です。『我が命が尽きるまでに、王都の防備を固められよ。……我が愛する妹と、陛下に栄光あれ』……と」


 アシエラ王妃がその場に崩れ落ち、顔を覆って泣き崩れる。

 室内は沈痛な静寂に包まれた。

 ムネヴィス辺境伯の命は、風前の灯火だ。数時間、いや数分後には消えていてもおかしくない。


 イラーフ王が苦渋の表情で天を仰ぐ。

 決断しなければならない。

 北のムネヴィスか。西のゲティングスか。

 全軍をどちらかに向けなければ、確実に両方とも失う。いや、片方に集中しても勝てる保証はない。


「……西を捨てるわけにはいかん。宗教国家に領土を奪われれば、そこは焦土と化す。だが、北を見捨てれば、魔物の群れが国を蹂躙する……」


 王の口から、呻くような言葉が漏れる。


「どちらかを……見捨てるしかないのか」


 誰もが下を向いた。

 それが、軍事的な正解だからだ。

 戦力の分散は敗北の元。非情な決断こそが、王の責務。


 だが。

 その重苦しい空気を、澄んだ少年の声が切り裂いた。


「――いいえ、陛下。どちらも捨てさせません」


 全員の視線が、ベルに集中する。

 ベルは地図の前に歩み寄り、北のムネヴィスと、西のゲティングス、二つの戦場を指で結んだ。


「戦力を分ければ負ける。それは、移動に時間がかかるからです。一方を助けてから他方へ向かう間に、もう片方が滅びるからこそ、二者択一になる」


「だがベルよ、現に距離があるのだ! 北から西へ軍を移動させるには、早馬でも三日はかかる!」


「僕なら、一瞬です」


 ベルが言い放つ。

 その言葉の意味を理解した瞬間、イラーフ王の瞳に戦慄と、微かな希望の光が宿った。


「……そうか。お前の『転移』か」


「はい。僕たち『ジパング』が、両方の戦場を繋ぎます。まずは最も火急の事態である北へ飛び、護国卿ムネヴィス辺境伯を救出。スタンピードの核を叩き潰します」


 ベルはフィンの方を向き、力強く頷いてみせた。


「その後、即座に西へ転移し、アンティゴノス軍の側面を強襲します。……フィン、君の故郷は必ず守る。約束します」


「ベル様……!」


 ヘレンが感極まったように声を漏らし、フィンが涙を堪えて強く頷く。


「はい! 僕も戦います。……僕の結界で、父上と母上を、故郷を絶対に守ってみせます!」


「ウール、ヘレン、テト、アナ。……激戦になりますよ。ついて来れますか?」


 ベルの問いかけに、仲間たちは不敵な笑みで答えた。


「愚問だな。暴れ足りねえんだよ


「ベル様の行く道が私の道です」


「旦にゃさまの背中はあたしが守るって言ったはずだニャ!」


「フィリスティアの王女として、領地を荒らす魔物など許すないわ!」


 最強のパーティー「ジパング」。その士気は最高潮だった。


 イラーフ王は立ち上がり、ベルの肩にその大きな手を置いた。


「……託したぞ、ベル。我が国の命運、お前のその小さな背中に預ける」


 ベルは静かに、しかし断固たる決意を込めて答えた。


「お任せください。……行ってきます」



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