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第88話 二つの視線

 

 事件の翌日、王城『百獣の広間』は、祝宴の華やかさとは似ても似つかぬ、凍てついた緊張感に支配されていた。緊急招集された貴族会議。円卓を囲むのは、いずれも歴戦の風格を漂わせる獣人貴族たちだ。磨き上げられた鎧の代わりに重厚な礼装をまとっていても、その内に秘めた闘争心とプライドは隠しようもない。広間の空気は、まるで嵐の前の静けさのように重く、息苦しかった。


 玉座に着いたケルヌンノス王が、疲労の色を隠せない声で口を開いた。


「昨夜の騒乱について、皆に報告する。過激派組織『枷』の首謀者を含む三十七名を拘束した。彼らは法に基づき、厳正に裁かれることになる。我が盟友、ベル・シレイラとその仲間たちの協力がなければ、被害はさらに拡大していただろう。此度の彼らの功績は、賞賛に値する」


 王の言葉に、しかし、貴族たちの反応は冷ややかだった。賞賛の声は上がらず、代わりに猜疑心に満ちた視線が、円卓の上で無言のまま交錯する。その沈黙を破ったのは、狼獣人の将軍、ヴォルフガングだった。彼はゆっくりと立ち上がると、礼儀正しく一礼し、しかし誰もが見逃せないほどの威圧感を放ちながら、朗々と語り始めた。


「王よ、お言葉ですが。『枷』の暴走は、断じて許されるべき蛮行。それは、ここにいる全員が同意するところでありましょう。しかし、我らが考えねばならぬのは、なぜ彼らがそのような凶行に及んだのか、その背景にございます」


 その声はよく通り、聴く者の心を掴む不思議な力があった。


「彼らは、大爪戦争の英雄、あるいはその遺族が多く含まれておりました。同胞の血を忘れたわけではない。むしろ、忘れられなかったが故に道を誤ったのです。そして、彼らの心の傷を抉り、引き金を引かせたものが二つある。一つは、人間の少年という、我らの常識を遥かに超えた規格外の存在。そしてもう一つは、その存在を鑑みずに進められた、王の拙速な融和政策ではありますまいか?」


 ヴォルフガングは、巧みだった。彼はベルの力を否定しない。「規格外の存在」と認めることで、むしろその危険性を際立たせたのだ。


「あの少年は、確かに強い。王にすら勝利したその力は、本物でしょう。ですが、その強さ故に、我らが長年かけて積み上げてきた秩序を根底から揺るがす劇薬ともなるのです。祝宴での反乱は、その副作用が最悪の形で現れたに過ぎませぬ」


 彼の発言は、燻っていた不満の火種に風を送った。それを皮切りに、元々人間との共存に懐疑的だった武闘派の貴族たちが、堰を切ったように同調の声を上げ始めた。


「ヴォルフガング将軍の言う通りだ! なぜ、たった一人の人間の少年に、我が国の運命を委ねるような真似をするのか!」


「彼の存在そのものが、新たな火種ではないか! 今回の事件がそれを証明している!」


「王よ、貴方は父君の無念を忘れられたのか! 人間を安易に信用しすぎだ!」


 議論の矛先は、瞬く間に『枷』への断罪から、ケルヌンノス王の政策批判へとすり替わっていた。王の言葉は、次々と浴びせられる非難の声にかき消され、彼は玉座の上で孤立していく。ベルたちを庇おうにも、その声はもはや誰の耳にも届かない。ヴォルフガングは、その光景を満足げに眺めながら、静かに席に着いた。彼の目的は、すでに達成されていた。この会議は、もはや王を糾弾するための儀式と化していたのだ。




 王城内の客室に軟禁状態となっていたベルたちだったが、数日後、「王の監視付き」という厳しい条件の下、城下の視察を許された。王国の複雑な内情を、その肌で感じる必要があるという、ケルヌンノス王の苦しい配慮だった。


 チャタルの城下町は、生命力に満ち溢れていた。石畳の道を、屈強な獣人たちが闊歩し、露店では巨大な肉の塊が豪快な音を立てて焼かれている。鍛冶場からは力強い槌の音が響き渡り、火花が散るたびに、独特の鉄の匂いが風に乗って運ばれてくる。全てが力強く、野性的で、活気に満ちていた。


 だが、その活気の中で、ベルたちは二つの相反する視線に晒されることになった。


「おい、見ろよ…あれが、噂の人間のガキだ」


「王に勝ったっていう…マジかよ、あんなに小さいのに」


 訓練場近くを通りかかった時だった。汗を流していた若い獣人の戦士たちが、訓練を中断し、遠巻きにしながらも隠そうともしない好奇と、そして純粋な尊敬の眼差しを向けてきた。ある者は感嘆の声を漏らし、ある者は値踏みするようにベルの全身を舐め回すように見る。


「一説によれば、反乱を起こした『枷』の連中を、仲間たちだけでほとんど無力化したらしいぜ」


「すげぇな…力は本物か」


 力こそが絶対的な価値を持つこの国において、ベルの武勇は、民族や年齢を超えて、純粋な評価の対象となっていたのだ。それは、ベルにとって予想外の反応であり、少しばかりの戸惑いを覚えさせた。


 しかし、市場の通りに足を踏み入れると、空気は一変した。


「……人間だわ」


「厄介ごとの種だよ。あいつらが来てから、ろくなことがない」


 野菜を売る年配の女性獣人や、商品を並べる商人たちが、あからさまに顔をしかめ、ヒソヒソと敵意のこもった囁きを交わす。ベルたちが近くを通ると、道を塞いでいた荷車をわざと動かさなかったり、すっと目を逸らして背を向けたりする。その態度は、まるで汚物でも見るかのようだった。


「どうやら、ヴォルフガング将軍の息がかかった連中が、相当な情報操作を行っているようね」


 アナが、周囲を鋭く警戒しながら冷静に分析する。


「祝宴の騒乱は、全て人間の少年が引き起こした、と。単純で、しかし効果的なプロパガンダだわ」


「賞賛」と「敵意」。

 若者からの強者への憧憬と、保守的な層からの異物への排斥。二つの視線は、チャタル王国が抱える深い亀裂を、残酷なまでに象徴していた。ベルは、自分という存在が、意図せずしてこの国の分断を加速させているという事実を、重く受け止めるしかなかった。




 その夜、城下の空気を決定的に変える事件が起きた。

 昼間、ベルたちに好意的な視線を向けていた若い戦士たちのグループが、訓練を終えた帰路、薄暗い裏路地で何者かに襲撃されたのだ。

 闇に紛れた複数人の襲撃者たちは、驚くほど手際が良かった。彼らは若者たちを殺すことなく、しかし的確に手足や肩を斬りつけ、戦闘不能に陥らせると、嵐のように姿を消した。


「ぐぅっ…な、なんだ、てめぇら…!」


 リーダー格の若い獅子獣人は、斬られた腕を押さえながら、闇の奥へと消えていく襲撃者たちの背中を睨みつけた。痛みよりも、なぜ自分たちが襲われたのか分からないという混乱が、彼の心を支配していた。


 翌朝、この事件は瞬く間に城下中に広まった。そして、それに追い打ちをかけるように、決定的な「噂」が流れ始める。


「聞いたか? 襲撃された連中、あいつら、人間の小僧を褒めそやしていたらしいぜ」


「現場には、人間の使う様式の短剣が落ちていたそうだ」


「それだけじゃない。俺の知り合いが見たって言ってた。犯人の一人が落としていった布切れが、この国じゃ見かけない、人間の国のものだったって…」


 それは、ヴォルフガングの部下が巧妙に仕組んだ、完璧な偽装工作だった。現場に慎重に残された「偽の証拠」は、噂に恐ろしいほどの真実味を与えた。

 噂は、人々の口から口へと伝わるうちに、捻じ曲げられ、増幅されていく。


「ベルを支持する獣人は、人間によって口封じのために襲われる」


「あの少年は、自分に歯向かう者だけでなく、味方する者さえも、裏では手にかけているのかもしれない」


「やはり人間は信用ならない。奴らは我らを内側から分断させ、この国を乗っ取るつもりだ」


 恐怖は、尊敬や好奇心をいとも簡単に飲み込んでいった。昨日までベルを「強者」と讃えていた若者たちでさえ、口をつぐみ、疑心暗鬼の目を向けるようになる。城下の空気は、一夜にして完全に塗り替えられた。もはや、ベルと彼に連なる者たちは、賞賛の対象ではなく、恐怖と敵意の対象でしかなかった。

 分断の炎は、ヴォルフガングの思惑通り、チャタル王国全土を焼き尽くさんと、燃え盛っていた。




 その日の深夜、ベルと仲間たちは、人目を忍んで王の私室へと呼び出された。昼間の謁見室とは違い、そこは書物や地図が山と積まれた、王の私的な空間だった。窓の外では、冷たい月が地上を静かに照らしている。


 そこにいたのは、威厳に満ちた獣王ではなく、深い苦悩に顔を歪ませる一人の獣人、ケルヌンノスだった。彼は、ベルたちが部屋に入るなり、重々しく口を開いた。


「若者たちの襲撃事件は聞いたな。…もはや、言い逃れはできぬ。この国は、ヴォルフガングの掌の上で踊らされている」


 王は、巨大な手で顔を覆った。


「公式な調査機関は、すでに奴の影響下にある。調査をしたところで、奴らが用意した『真実』に辿り着くだけだろう。城内の誰を信じていいのか…私には、もう分からぬ」


 その声は、王の威厳を失い、ただただ無力感に満ちていた。

 やがて、ケルヌンノスは顔を上げると、真っ直ぐにベルたちを見据え、驚くべき行動に出た。

 一国の王が、玉座から降り、その場に膝をつき、深く、深く頭を下げたのだ。


「ベル・シレイラ卿。そして、その仲間たちよ。本来ならば、客人である君たちに頼むべきことではない。だが、もはや、君たちしかおらぬのだ。この俺に、この国に、力を貸してはくれまいか」


 王の仮面を脱ぎ捨てた、魂からの懇願だった。

 フィンが息を呑み、アナが厳しい表情で王を見つめる。テトは、ただ黙ってベルの服の裾を握りしめていた。

 ベルは、静かに王の言葉の続きを待った。


「卿たちに、特命を与える」


 ケルヌンノスは顔を上げ、その黄金の瞳に、最後の希望の光を宿して言った。


「若者襲撃事件の真相を解明し、その背後にいる真の黒幕――ヴォルフガングが関与しているという、決定的な証拠を掴んでほしい」


 それは、あまりにも危険な任務だった。


「我ら国内の者が動けば、すぐに奴の耳に入るだろう。だが、君たちは違う。外部の者でありながら、城下の者から良くも悪くも注目されている。そして何より、強者として認識されている。その立場を利用すれば、奴らの監視の目を欺き、我らには見えぬ真実に辿り着けるかもしれぬ」


 王は、最後の望みを、この異邦の少年たちに託そうとしていた。


 重い沈黙が、部屋を支配する。

 それは、単なる客人から、王国の未来を左右する危険な密命を帯びた密偵へと、その立場が大きく変わることを意味していた。

 やがて、ベルは仲間たち一人一人の顔を見渡した。アナ、フィン、テト、ウール、ヘレン。誰もが、その瞳に覚悟の色を宿して頷き返す。

 ベルは、再びケルヌンノスに向き直ると、静かに、しかし力強く言った。


「……わかりました。その任、お引き受けします」


 その一言が、チャタル王国に巣食う巨大な闇との、本当の戦いの始まりを告げていた。



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