第83話 黒雷の対話
「小手調べは、これまでだ!」
ケルヌンノスの咆哮が、闘技場の空気を物理的に震わせた。
先ほどまでとは比較にならない、膨大な青白い雷の魔気が彼の全身から溢れ出し、嵐となって荒れ狂う。それは単なるエネルギーの奔流ではなかった。力至上主義のチャタル王国を纏め上げ、数多の戦場を駆け、頂点に君臨し続けてきた『王』としての絶対的な威圧感。魂そのものを圧し折らんとする、純粋な覇気であった。
闘技場の空気が鉛のように重くなる。
観客席の獣人たちは、まるで巨大な肉食獣に睨まれた草食動物のように身を竦ませ、呼吸すらままならない。本能が告げているのだ。今、目の前にいるのは崇拝すべき王ではない。抗うことすら許されぬ、天災そのものであると。
「ぐっ……!」
貴賓席のウールが、脂汗を浮かべて呻いた。歴戦の勇士である彼でさえ、その魂の重圧に膝が笑いそうになる。
「これが……獣王の本気……。次元が違いすぎる……」
隣のフィンも、冷静な表情を崩さないのがやっとだった。
その威圧の嵐の中心で、ベルはただ静かに、黒い刀を構えていた。
荒れ狂う魔気の濁流に飲み込まれることなく、彼の心は湖面の如く静まり返っている。王が放つ怒り、誇り、そしてその奥底に潜む深い孤独。その全てを感じ取りながらも、ベルは決して己を見失わなかった。
ケルヌンノスの姿が、再び雷光と化した。
だが、その速度と質量は、先ほどの比ではない。
一歩踏み込むだけで地面が爆ぜ、拳を振るう軌跡に真空の刃が生じる。それはもはや、単なる格闘術ではなかった。一撃一撃が砲弾に等しい、絶対的な破壊の権化。
ドゴォォン! バゴォォン! ギャァァァン!
闘技場が、悲鳴を上げていた。
ケルヌンノスの拳が空を切るたびに、衝撃波が闘技場の壁を打ち砕き、蹴りが地面を抉るたびに、新たなクレーターが穿たれていく。
その嵐の真っ只中で、ベルは舞い続けていた。
以前よりも遥かに速く、重い攻撃。その全てを、最小限の動きで見切り、回避し続ける。
しかし、ただ避けているだけではなかった。彼の瞳は、荒れ狂う獣王の魂の核を、真っ直ぐに見据えていた。
回避の合間、嵐の中心で、ベルの静かな声が響いた。
「獣王。あなたのその力は、あまりにも孤独だ」
雷鳴のような破壊音の中、その声は不思議なほど鮮明にケルヌンノスの耳に届いた。
「民はあなたを崇拝し、畏怖している。ですが、それは真の信頼ですか?」
ピタリ、と。
ベルの鼻先を掠める寸前で、雷を纏ったケルヌンノスの拳が止まった。
ほんのコンマ数秒にも満たない、刹那の停止。
しかし、神速の攻防の中では、それは永遠にも等しい時間だった。
ベルの言葉は、硬い甲冑に覆われたケルヌンノスの魂の、最も柔く、最も脆い部分を的確に抉っていた。
――脳裏に、遠い日の戦場の光景がフラッシュバックする。
まだ王ではなく、一人の戦士だった頃。
無数の敵に囲まれ、絶体絶命の窮地に陥った時、いつも隣には背中を預けられる男がいた。
黄金の獅子と、黄金の風。
二人は互角の力を持ち、互いを唯一無二の好敵手と認め合っていた。
『ケルヌンノス! 右翼は俺に任せろ! お前は中央を突破しろ!』
快活に笑う、金髪の人族の顔が浮かぶ。
共に笑い、共に傷つき、共に未来を語り合った男。
現在のフィリスティア王国を治める、イラーフ王その人だった。
彼だけだった。この俺、ケルヌンノスと真に肩を並べ、対等に言葉を交わすことができたのは。
だが、時が二人を分かった。
ケルヌンノスは獣人たちの王となり、彼は人間の国の王となった。
立場が人を作り、距離が心を引き離す。
最強であるが故に、誰も隣には立てない。
唯一、隣に立つことができた男は、今や遠い国の玉座にいる。
この孤独を、ケルヌンノスは誰よりも理解していた。
コンマ数秒の隙。ベルがその気になれば、カウンターを叩き込むには十分すぎる時間だった。
だが、ベルは動かない。
これはただの試合ではない。魂の対話なのだ。相手の弱みに付け込んで得る勝利など、彼が求めるものではなかった。
ケルヌンノスは、自らの内に生じた僅かな動揺を、烈火の如き怒りで瞬時に塗りつぶした。
内なる弱さを認めることなど、王としてのプライドが許さない。この小僧の小賢しい揺さぶりに屈することなど、断じてあってはならない。
「黙れ小僧ッ!!」
獣王の咆哮が、再び闘技場を揺るがす。
「王の孤独を、貴様のような若輩が語るなァッ!!」
ケルヌンノスの戦術が変わった。
トリッキーな動きで相手を「仕留める」ことから、圧倒的な力で全てを「ねじ伏せる」ことへ。
もはや、技術の応酬ではない。
純粋な力の権化となり、この生意気な小僧の心ごと叩き折る。それだけだった。
ケルヌンノスは猛攻を止め、後方へ大きく跳躍した。
そして、闘技場の中央で、両腕を天へと掲げる。
その瞬間、闘技場全体の空気が震え、大気中に満ちていた彼の魔気が、まるで磁石に引かれる砂鉄のように、天高く掲げられた両腕へと収束していく。
コロッセオの上空に、巨大な雷雲が渦を巻き始めた。
「言葉遊びは終わりだ!」
ケルヌンノスの声が、神の宣告のように響き渡る。
彼は荘厳な詠唱を開始した。その声は魔気を帯び、一つの言霊となって世界に響き渡る。
「――天に轟け、我が獅子の咆哮。地に満ちよ、万雷の怒り」
詠唱と共に、上空の雷雲がさらに密度を増し、青白い光が激しく明滅する。
「――摂理の鎖もて罪人を縛め、逃れえぬ裁きの鉄槌をその身に刻め!」
その言葉を合図に、王は必殺の技の名を叫んだ。
「『万雷の檻』ッ!!」
天に渦巻いていた雷雲から、無数の青白い雷が、雨のように、いや、滝のように闘技場全体へと降り注いだ。
一本一本が家屋を消し飛ばすほどの威力を持つ雷撃の嵐。
それは闘技場の床に着弾すると同時に消えることなく、エネルギーの奔流となってその場に留まり、光り輝く壁を形成していく。
四方八方、そして天蓋。
ベルの逃げ場は、瞬く間に光の壁によって塞がれていく。
それは文字通り、回避不能のドーム状の雷の牢獄だった。
「ベル!」
アナの悲鳴が響く。
「やめて、お父様!」
テトの絶叫が、雷鳴にかき消された。
闘技場の中心で、ベルは静かに天を仰いだ。
視界の全てが、青白い光で埋め尽くされている。肌を焼くほどの熱と、空気がイオン化する独特のオゾン臭。
物理的に、逃げ場はどこにもない。
絶体絶命。
それは、誰の目にも明らかだった。
ケルヌンノスは、自らが作り出した雷の牢獄の中心で立ち尽くすベルを見下ろし、勝利を確信していた。
あの小僧がどれほどの達人であろうと、この全方位からの飽和攻撃を凌ぐ術はない。
あとは、この雷光の中に消し飛ぶのを見届けるだけだ。
雷の牢獄の中心で、ベルはゆっくりと目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、仲間たちの顔。
(まだ、終われない)
彼は静かに覚悟を決め、黒い刀を中段に、切っ先を天に向けて構えた。
牢獄を形成する無数の雷撃が、収束を始める。
全てのエネルギーが、中心に立つベルただ一人に向けて、一本の巨大な雷の槍となって天から降り注いだ。
世界から、音が消えた。
ゴオオオオオオオオオオオオッ!!!!
全てを浄化するかの如き、純粋な破壊の光がベルに直撃する――かに見えた、その瞬間。
ベルは、その雷の槍を、黒刀の刀身で静かに受け止めていた。
常識的に考えれば、鋼の刀など一瞬で蒸発し、持ち主ごと塵と化すはずだった。
しかし、起こった現象は、ケルヌンノスを含む、闘技場の全ての者の理解を超えていた。
ゴォォ……。
奇妙な音が響いた。
黒い刀が、青白い雷の魔力を、まるで渇ききった喉が水を飲むかのように、吸収し始めたのだ。
消し飛ぶどころか、刀は歓喜しているかのように、凄まじいエネルギーをその身に吸い込んでいく。
バチ! バチチッ!
黒い刀身に、吸収した魔気によって、青白い雷の文様が稲妻のように奔り、不気味に明滅を始めた。
貴賓席で、ヘレンが息を呑み、そして信じられないものを見たかのように叫んだ。
「まさか……! あの刀、魔気を喰らう性質を持っているの!? しかも、喰らった魔気を自らの力に……!」
ケルヌンノスもまた、そのありえない光景を目の当たりにし、初めて勝利の確信とは異なる、純粋な「驚愕」の表情を浮かべていた。
自身の最強の奥義が、通用しないどころか、相手の力として吸収されている。
そんな馬鹿なことが、あってたまるか。
やがて、雷の牢獄は完全にその姿を消した。
闘技場の中心には、右手に、青い稲妻を纏った漆黒の刀を握るベル・シレイラの姿があった。
その体から放たれる魔気の質は、明らかに先ほどとは異なっている。ケルヌンノス自身の、雷の魔気を孕んでいた。
静まり返った闘技場に、ケルヌンノスの、戦慄を隠せない声が響く。
「小僧…その魔剣、一体何だ…?」




