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第82話 獣王の咆哮

 

 王都ライオニアの中央に位置する巨大な円形闘技場『ビーストコロッセオ』は、建国以来最大の熱気に包まれていた。

 磨かれた石で造られた観客席は、数万の獣人で埋め尽くされている。狼、熊、虎、鳥、爬虫類――ありとあらゆる種族が、今日この日、歴史の証人となるべく集結していた。彼らの咆哮にも似た歓声と期待が渦を巻き、闘技場そのものを揺るがしている。

 しかし、その熱狂が一人の少年――挑戦者に向けられる時、それは純粋な敵意と嘲笑へと変わった。


「人間は巣に帰れ!」


「姫様を誑かした罪を思い知れ!」


「獅子王陛下の爪の垢にすらならんわ!」


 選手入場口の薄暗い通路で、ベル・シレイラはその地鳴りのようなブーイングを浴びながら、静かに目を閉じていた。まるで嵐の中の凪のように、彼の心は静まり返っている。腰には一本の刀。鞘も柄も漆黒で、異彩を放つその刀身は闇そのものを凝縮したかのような黒色をしていた。


 観客席の貴賓席では、仲間たちが固唾を飲んでその時を待っていた。


「……当たり前でしょ、わたしのベルが負けるわけないわ!」


 アナは扇子で顔を隠しながらも、その指先が微かに震えている。強気な言葉とは裏腹に、その顔は青ざめていた。

 隣では、テトが胸の前で固く手を組み、ただひたすらに祈りを捧げている。父であるケルヌンノスと、心に決めた少年、ベル。二人の無事を願うその姿は、痛々しいほどに健気だった。

 ヘレン、フィン、ウールの三人もまた、緊張した面持ちで闘技場を見つめている。しかし、その瞳の奥には、幾多の死線を共に潜り抜けてきた仲間への、揺るぎない信頼の光が宿っていた。


 やがて、闘技場に設置された拡声の魔道具を通して、宰相である老獪な狐獣人の声が響き渡った。


「これより、獣王陛下の御前試合を執り行う! まずは挑戦者! 偉大なるフィリスティア王国よりの使者にして、我が国のテト王女殿下の婚約者! ベル・シレイラ卿の入場である!」


 その声と共に、ベルはゆっくりと光の中へと足を踏み出した。

 瞬間、ブーイングの嵐がさらに勢いを増す。石つぶてこそ投げられないものの、突き刺さるような殺意と侮蔑の視線が、彼の小さな体に容赦なく降り注いだ。しかしベルは、その全てを意に介することなく、ただ静かに闘技場の中央へと歩を進める。


「そして――!! 我らがチャタル王国の誇り! 百獣の王にして地上最強の戦士! 獣王、ケルヌンノス陛下の御入場である!!」


 紹介の声が、割れんばかりの万雷の歓声にかき消された。

 闘技場の反対側から、太陽の如き威容を誇る獅子王が姿を現す。上半身は屈強な肉体を惜しげもなく晒し、両腕には豪華な装飾を施した巨大な鋼のガントレットのみを装着している。武器は持たない。その肉体そのものが、地上最強の兵器であると、その佇まいが雄弁に語っていた。


 闘技場の中央で、両者が対峙する。

 2.5メートルに迫る巨躯と、まだ幼さの残る七歳の少年。

 それは、そびえ立つ巨岩と、足元の小石ほどの絶望的な体格差だった。観客の誰もが、この試合が一瞬で――それも、無慈悲な結末で終わることを確信していた。


 静寂の中、ベルが動いた。

 ゆっくりと腰の刀に手をかけ、鞘から抜き放つ。キィン、と金属が擦れる涼やかな音が、巨大なコロッセオに響き渡った。漆黒の刀身が陽光を吸い込み、不気味な輝きを放つ。

 中段に構える。その小さな背中は、しかし、対峙する獅子王の威圧感に一歩も引けを取っていなかった。




 宰相が掲げた手が振り下ろされ、試合開始を告げる銅鑼の音が轟いた。

 その瞬間だった。


「オオオオオオオオオオッッ!!」


 ケルヌンノスの肉体から、凄まじい咆哮と共に青白い光のオーラが爆発的に迸った。それは魔力とは質の違う、魔力と生命力を同時に燃焼させて戦闘力に転化する純粋な闘争エネルギー――魔気まき

 バチチッ!と空気が弾ける音を立て、青白い雷が王の全身を鎧のように覆い尽くす。


「出たァ! 陛下の『獅子雷ししらい』だァッ!!」


 観客席から熱狂的な声が上がる。それは、ケルヌンノスが最強たる所以。彼の代気詞とも言える戦闘法だった。


 貴賓席で、ヘレンが冷静に、しかし驚愕を隠せない声で解説する。


「あれは限られた強者のみが使える戦闘法、魔気法まきほう…。自身の生命エネルギーを特定の属性に変換し、肉体を強化する技術。ケルヌンノス王は……雷属性の魔気で、神経伝達速度そのものを超加速させているのね……!」


 ヘレンの言葉が終わる前に、ケルヌンノスの姿が闘技場から掻き消えた。

 否、消えたのではない。

 人間の動体視力では到底捉えきれない速度で、青白い雷光となってベルに突進したのだ。


 ゴオオオオオオオォォォンッ!!!!


 天を揺るがすような轟音が鳴り響き、闘技場の中心で大爆発が起こった。

 雷を纏った王の鉄拳が、ベルが先ほどまで立っていた地点の地面に叩き込まれたのだ。石畳はクッキーのように粉砕され、巨大なクレーターが穿たれる。爆風と砂塵が嵐のように吹き荒れ、観客席の前列までその余波が届いた。


「「「おおおおおおっ!!」」」


 観客は、その圧倒的な破壊力に熱狂する。

 誰もが、哀れな人間の少年が跡形もなく消し飛んだと思った。


 しかし。

 砂塵が晴れた先に立っていたのは、無傷のベルだった。

 彼は、王の拳が振り抜かれるほんのコンマ数秒前に、最小限の動きでその場から移動していた。その表情には、驚きも焦りも浮かんでいない。


「……ほう」


 ケルヌンノスの口から、感心したような声が漏れた。

 だが、次の瞬間には、再びその姿が雷光と化す。

 右ストレート、左フック、回し蹴り、膝蹴り。

 一撃一撃がソニックブームを発生させ、大気を震わせる必殺の打撃。その全てが、雷鳴を伴ってベルに襲いかかった。




 闘技場は、もはや戦場と化していた。

 ケルヌンノスが動くたびに、青い雷光が走り、轟音と共に地面が砕け散る。闘技場の床は、ものの数分で無数のクレーターに覆われ、見るも無惨な姿へと変貌していく。

 それは、天災そのものだった。

 雷の化身と化した獣王の、一方的な蹂躙。


 ――のはずだった。


「な……んだ、あれは……」


 観客の一人が、呆然と呟いた。

 ケルヌンノスの猛攻は、一撃たりともベルに当たっていない。

 否、掠りすらしていないのだ。


 ベルは、雷速で繰り出される無数の攻撃の雨の中を、まるで水面を滑るように、あるいは優雅な舞を舞うかのように、ひらりひらりと動き続けていた。踏み込みは最小限。体の捻りも最小限。全ての攻撃を、文字通り紙一重で見切り、回避し続けている。


「嘘だろ……」


 ウールが、信じられないものを見る目で呟いた。


「目で追ってるんじゃねえ…。目で見てから反応してたんじゃ、とっくにミンチだ。ありゃあ……攻撃の予備動作、筋肉の収縮、呼吸のリズム、魔気の流れ……その全てを読んで、『攻撃が来る場所』からコンマ数秒早く移動してやがるんだ!」


 その言葉通り、ベルの瞳はケルヌンノスの拳や足先を見てはいなかった。

 彼の全身――その動きの起点となる重心、力の流れ、魔気の集中、その全てを捉え、次に来る攻撃を完璧に『予測』していたのだ。


 最初は


「当たれ!」


「逃げるな卑怯者!」


 と野次を飛ばしていた観客たちも、次第に口を閉ざしていった。

 自分たちの王が放つ、音速を超えるはずの神速の連撃。

 それを、まるで戯れのように回避し続ける、あまりにも人間離れした少年の姿。

 熱狂は、いつしか不気味なほどの「驚愕」へ、そして「畏怖」を孕んだ沈黙へと変わっていった。

 闘技場を支配していたのは、ケルヌンノスの破壊音と、数万の獣人が息を呑む音だけだった。


 ベルは、防戦一方に見えた。

 だが、その心は極めて冷静だった。


(速い。そして、重い。一撃でも受ければ、今の僕の肉体では骨まで砕かれる。だが……見えない速さではない)


 彼の瞳は、最強の獣王が繰り出す全ての動きを、その神髄を、一瞬たりとも見逃すことなく、その脳裏に、魂に、焼き付けていた。




 どれほどの時間が経っただろうか。

 不意に、嵐が止んだ。

 ケルヌンノスが攻撃を止め、ベルから十メートルほど距離を取って仁王立ちになったのだ。

 破壊され尽くした闘技場の中心で、再び二人の戦士は静かに対峙する。


 静まり返った闘技場で、ケルヌンノスの低く、それでいてよく通る声が響いた。

 その表情に苛立ちはなく、むしろ、心の底から楽しんでいるかのような獰猛な笑みが浮かんでいた。それは、真の好敵手と出会えた戦士だけが浮かべる、歓喜の表情だった。


「……ほう。噂以上の速さよ。いや、これは単なる速さではないな。……小僧、貴様、見切っているのか。この俺の雷速を」


 ベルは刀を構えたまま、静かに答える。


「……ええ。あなたの動きは、あまりにも真っ直ぐで、力強い。故に、読みやすい」


 挑発とも取れる言葉。

 しかし、ケルヌンノスは怒るどころか、腹の底から笑い声を上げた。


「クハハハハハ! 面白い! 実に面白いぞ、ベル・シレイラ! 久しく忘れていたぞ、この血が滾るという感覚はッ!」


 王は、両腕に装着したガントレットをゴッと力強く打ち合わせた。

 すると、彼の全身を覆っていた青白い雷のオーラが、先ほどとは比較にならないほど激しく、巨大に膨れ上がった。


「だが、逃げ回るだけでは勝てぬぞ。俺も、我が民も、それでは納得せん」


 ケルヌンノスの黄金の瞳が、真の輝きを放つ。


「小手調べは、これまでだ!」


 ビリビリと大気が震え、闘技場に凄まじい威圧感が満ちる。観客たちは、本能的な恐怖に身を縮こまらせた。

 その、嵐の前触れのような圧倒的なプレッシャーを前にして、ベルは静かに漆黒の刀を構え直した。

 彼の口元に、初めて笑みが浮かんだ。

 それは、これから始まる本当の死闘を歓迎する、剣士の笑みだった。



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