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第79話 夜明けの残響

 

 夜が明け、水平線から昇る太陽の光が、凄惨な戦いの跡が残る甲板を容赦なく照らし出した。

 砕けた木片、飛び散った血痕、そして未だに鼻をつく鉄と硝煙の匂い。静寂を取り戻した船上では、負傷者の手当てや、破壊された箇所の応急修理が黙々と進められていた。だが、その空気は、襲撃前とは決定的に異なっていた。


 獣人の船員たちは、ベルたち『ジパング』のメンバー、特にベルとテトを遠巻きに見ている。以前の、気さくで親しげな視線ではない。まるで神話の登場人物や、畏怖すべき自然現象を見るかのような、畏敬と恐怖が複雑に混じり合った眼差しだった。


「おお……王女殿下……! なんというお力……! 我らがチャタルは、神々に見放されてはいなかったのだ!」


 突如、屈強な熊獣人の船員の一人が、その場に崩れるようにしてテトの前にひざまずいた。その目は涙に濡れ、声は感動に打ち震えている。


「伝説の従魔魔法をその身に宿されるとは……! 我々は、歴史の生き証人となったのですね!」


 彼の行動に呼応するように、他の船員たちも次々と甲板に膝をつき、祈りを捧げるように頭を垂れた。彼らが向けたのは、もはやただの王女への敬意ではない。伝説を現実のものとした者へ向けられる、崇拝そのものだった。


「え、あ、えっと……」


 テトは、そのあまりの熱量に戸惑いを隠せない。だが、向けられる無条件の尊敬の眼差しは、彼女がずっと心の底で渇望していたものだった。『無属性』という呪いから解放された今、彼女は戸惑いながらも、その視線を一身に受け止め、誇らしげに胸を張った。もう、誰にも無力だとは言わせない。


 一方で、ベルは一人、壊れた甲板の縁に立ち、静かに水平線を見つめていた。

 夜明けの光が、彼の小さな横顔を神々しく照らし出す。その姿は、まるで戦場に舞い降りた少年神のようにも見えた。昨夜、あの虎獣人を圧倒した静かなる剣技。仲間たちですら、その光景を目の当たりにした後では、以前のように気軽に声をかけることができない、ある種の神聖な雰囲気が彼を包んでいた。彼は今、仲間たちの輪から、少しだけ遠い場所に立っているように見えた。




 重苦しい沈黙が支配する船室に、『ジパング』のメンバーが集まっていた。

 戦いの興奮が冷め、代わりに訪れたのは、仲間が見せた未知の力に対する、静かな動揺だった。

 口火を切ったのは、いつも通りフィンだった。彼はまだ少し震える声で、おずおずとベルに問いかけた。


「ベル君……あんなに強いなんて、知らなかったよ……。あの、虎の人と戦ってるとき、正直……ちょっと怖かったんだ。君が、僕の知らない人みたいで……」


 その言葉は、全員の気持ちを代弁していた。ウールが、ふう、と大きなため息をつきながら腕を組む。


「ったく、隠し玉がでかすぎるんだよ、ベルは。心臓に悪いぜ。こっちが必死こいてお膳立てしてる間に、一人で全部平らげちまうんだからな。もう少し俺たちを頼れってんだ」


 ぶっきらぼうな口調だが、その言葉には深い安堵と信頼が滲んでいた。


 アナは、顔をそっぽに向け、紅茶のカップを弄びながら、聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。


「……まあ、わたしの騎士として、あのくらいは当然のことよね。そうでなくては、わたしの隣に立つ資格はないんだから」


 それは、プライドの高い彼女が放つことのできる、最大級の賛辞だった。その耳が微かに赤らんでいることに気づいた者はいなかった。


 ヘレンだけは、いつもと変わらぬ穏やかな微笑みを浮かべていた。


「ベル様の御力、改めて確信いたしました。貴方様こそが、この混沌の世を照らす導きの光。このヘレン、どこまでもお供いたします」


 その瞳は、もはや信仰に近い輝きを宿していた。


 仲間たちの、それぞれの言葉。それは、ベルを隔絶するものではなく、彼の強さを理解し、受け入れようとする温かいものだった。

 ベルは、張り詰めていた空気をふっと緩め、いつもの穏やかな少年の表情に戻った。そして、仲間たち一人一人の顔を見ながら、静かに頭を下げた。


「皆さんのおかげです。僕一人では、あのリーダーには勝てませんでした。フィンの結界が時間を稼いでくれ、ヘレンの魔眼が弱点を暴き、ウールの狙撃が隙を作り、アナとテトが敵の戦力を削いでくれた。あの勝利は、ジパング全員のものです。完璧な連携でしたよ」


 その言葉に、船室の空気がふわりと和らいだ。

 その瞬間、今まで黙っていたテトが勢いよく立ち上がり、ベルの前に進み出ると、改めて深々と、これ以上ないほど丁寧に頭を下げた。


「旦にゃさま、本当に、本当にありがとうニャ! あたし、やっと……やっと自分の力で、みんなを守るために戦えた! 無力なあたしは、もういないニャ!」


 顔を上げた彼女の瞳には、大粒の涙が光っていた。それは、悔し涙ではない。長い呪縛から解き放たれた、歓喜の涙だった。


 ベルは、そんな彼女の頭を、優しく、慈しむように撫でた。


「よく頑張りましたね、テト」


 その光景を見たアナが、カチン、とティーカップをソーサーに置いた。


「なっ、ちょっと! ベルはわたしの騎士なんだからね! 気安く触れないでくれる!?」


「にゃにーっ! 旦にゃさまはあたしの旦那さまニャ! アナにゃんこそ離れるニャ!」


「第一夫人はわたしよ!」


「新婚旅行中なのはあたしニャ!」


 いつもの口喧嘩が始まった。だが、そのやり取りには、どこか以前のような刺々しさが消えていた。共に死線を乗り越えた者同士の間に生まれた、奇妙で、そして確かな連帯感が、二人の王女の間に芽生え始めていた。その光景を、フィンとウールは呆れ顔で、ヘレンは微笑ましげに眺めていた。

 ジパングは、初陣を経て、また一つ、その絆を強くしたのだった。




 重厚なマホガニーの机を挟み、ベルは船長と二人きりで向かい合っていた。

 船長室の窓から差し込む光が、海図の上に広げられた襲撃地点の座標を照らし出している。


「やはり、奴らか……」


 船長は、ベルが描いた『枷』の紋章――鎖と鍵を組み合わせた意匠――を見て、苦々しく呟いた。


「『枷』は、数年前に突如現れた獣人至上主義の過激派組織です。構成員は、かつて人間に奴隷として虐げられた者や、その家族、故郷を追われた者たちが中心。彼らは、人間との融和政策を進める現国王陛下を『人間の犬』と罵り、全ての人間を大陸から駆逐すべきだと主張しております」


 その声には、深い憂いが滲んでいた。


「問題は、彼らの思想に、国内の不満分子……特に、古くからの武闘派貴族たちが密かに同調しているという噂があることです。テト王女殿下とベル男爵、貴殿との婚約は、彼らにとって格好の攻撃材料となったことでしょう」


 話は、必然的に「裏切り者」の存在へと及んだ。この航路は、両国の最高機密。漏洩源は、内部にいるとしか考えられない。


「この船の乗組員は、全員が私の故郷の者であり、私が命を預けられると信じる者たちです。信じたくはないが……」


 船長の顔に、深い苦悩が刻まれる。仲間を疑うことほど、船乗りにとって辛いことはない。


 ベルは、そんな船長の葛藤を察しつつも、冷静に地図上の一点を指し示した。


「漏洩の可能性は、大きく分けて三つ。出発元のフィリスティア王宮、目的地のチャタル王宮、そして、この航路上のどこかです。現時点で内部の犯人探しを始めれば、疑心暗鬼を生み、組織の結束を弱めるだけでしょう。それは敵の思う壺です」


 ベルは顔を上げ、船長の目を真っ直ぐに見据えた。


「チャタルに到着後、まずテトさんのお父上……国王ケルヌンノス陛下に直接この件を報告し、内密に調査を進めていただくのが最善策かと存じます。我々は、あくまで『何も気づいていない』ふりをし続けるべきです」


 その、七歳の少年とは思えぬほど老成した判断力。そして、既にチャタル国内の政治闘争まで見据えているかのような、恐ろしく広い視野。船長は、目の前の小さな指揮官に、改めて背筋が凍るような戦慄を覚えていた。

 この少年は、一体、どこまで見えているのだろうか、と。




 襲撃から数日後。船員たちの懸命な修理によって航行能力を取り戻した魔導帆船は、ついに目的地である獣人王国チャタルの首都港、『ライオニア』へとその姿を現した。


「わぁ……!」


「すごい……!」


 アナとフィンの感嘆の声が漏れる。

 港は、生命力に満ち溢れていた。ライオン、虎、狼といった猛々しい獣人たちが荷を運び、猫や犬の獣人たちが露店で威勢のいい声を上げ、空には鳥の獣人たちが軽やかに舞っている。毛皮の色も、耳や尻尾の形も多種多様な獣人たちが行き交う光景は、人間中心のフィリスティアでは決して見ることのできない、壮大で魅力的なものだった。


 船がゆっくりと埠頭に接岸すると、そこにはテトの帰還とフィリスティアからの使節団を歓迎するための一団が、楽隊と共に待ち構えていた。


「テト王女殿下、ご無事のご帰還、心よりお祝い申し上げます!」


「ようこそ、フィリスティアの使節団の皆様!」


 華やかな歓迎ムードに包まれ、一行は緊張を解き、長旅の終わりを実感していた。


 しかし、その喧騒の中。

 歓迎の群衆の中から、複数の冷たい視線が、一行――特に、その中心で子供らしい笑顔を浮かべるベル――を、値踏みするように、そして監視するように、じっと見つめていた。


 その微かな殺気に、ヘレンだけが気づいていた。彼女は誰にも聞こえないよう、ベルの耳元で小声で囁いた。


「ベル様、見られています。複数……市場の果物売りの男、荷運びの狼獣人、港の警備兵……彼らの懐に、先の襲撃者と同じ、『枷』の紋章が隠されています」


 報告を聞いても、ベルの表情は一つも変わらなかった。彼はにこやかに歓迎の挨拶を述べるチャタルの役人に手を振りながら、内心で静かに呟いた。


(――なるほど。敵はもう、この国の中にいる、か。しかも、思ったよりずっと深く根を張っているようだ)


 獣人王国の壮大で美しい光景と、その裏で蠢く根深い闇。

 新たな舞台での戦いは、誰にも気づかれぬまま、静かに、そして確実に幕を開けようとしていた。


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