第77話 船上の乙女戦争
チャタル王国の誇る帆船、その船長室は、歴戦の海の男たちの潮と革の匂いが満ちていた。重厚なマホガニーの円卓を囲むのは、フィリスティア王国からの使節団一行と、船の最高責任者たち。窓の外では穏やかな波が船体を叩いているが、室内の空気は嵐の前の静けさ、いや、既に暴風圏の中心にあった。
「結論から申し上げます、シレイラ大使閣下。アナトリア王女殿下には、最も近い港にて下船いただき、護衛を付けて王都へお戻りいただくのが最善策です」
黄金の鬣を見事に編み込んだライオン獣人の船長が、地図の上に置かれた駒を動かすように、断固たる口調で進言した。その声には、王族への敬意と、船乗りとしての職務への誇りが滲んでいる。あまりにも正論であり、ベルは内心で「ぜひ、そのように」と百回頷きたくなる衝動を、外交官用の穏やかな微笑みで必死に抑え込んでいた。
「却下しますわ」
ぱちん、と小気味よい音を立てて、アナの持つ象牙の扇が閉じられた。彼女は優雅に足を組み直し、海の猛者である船長を、まるで庭師に指示を出すように見据えた。
「船長、あなたの懸念は理解できます。ですが、物事には優先順位というものがあるのですわ。私の身の安全よりも、国家の威信が優先されるべき場面が、今、ここにあるのです」
「しかし、殿下……」
「考えてもごらんなさい。フィリスティアの全権大使が、たった七歳の少年男爵。これをチャタル王国がどう受け取るかしら? 『舐められたものだ』と考えるのが普通でしょう。そこに、フィリスティアの第一王女たる私が寄り添い、彼を支える姿を見せることで、初めて我が国の『本気』が伝わるのです。私は、歩く国書であり、生きた親書。私を送り返すなど、チャタルに『貴国との友好など、この程度のものだ』と宣言するに等しい愚行ですわ」
正論と詭弁が見事なミルフィーユ状に折り重なったアナの弁舌に、百戦錬磨の船長が思わず「うぐ……」と呻く。戦場でこれほど言葉に追い詰められたことはなかっただろう。
「それに」とアナは追い打ちをかける。「ベルの補佐は、彼の『第一夫人』である私の当然の務め。この旅の成功も失敗も、私とベルは一蓮托生。そうでしょう? テト」
「む、むむ……そ、それはそうニャけど……」
話を振られたテトは、不本意ながらも頷かざるを得ない。かつて舞踏会で自分がした提案が、今やアナの最強の武器と化しているのだ。
「旦にゃさまの護衛は、第二夫人であるあたしがしっかりやるから問題ないニャ! アナは王都で大人しく待ってるのが一番ニャ!」
「あら、第二夫人は第一夫人を支えるのが役目よ。私の身辺警護こそ、あなたの最初の任務かしらね?」
「にゃにーっ!?」
火花を散らす二人の王女を前に、従者たちの反応は三者三様だった。
(あー……頭痛がしてきたぜ。なんで俺、こんな船に乗ってるんだっけ……)
ウールはこめかみを指で押し、心底面倒くさそうに天井を仰いだ。
(嗚呼、ベル様……俗世の女たちが、またしても貴方様のお心を煩わせている……このヘレン、祈りの力で彼女たちの邪念を浄化せねば……)
ヘレンは胸の前でそっと指を組み、その瞳には聖母のような慈愛と、異教審問官のような昏い光が同居していた。
(ど、どうしよう……胃が、胃がキリキリする……ベル君が可哀想すぎる……でも僕には何もできない……あわわ……)
フィンは顔面蒼白で、今にもテーブルの下に滑り込みそうな勢いだった。
沈黙を破ったのは、この混沌の中心にいる少年、ベルだった。
「皆様、ご意見ありがとうございます」
その声は、七歳の子供のものとは思えぬほど、冷静で落ち着いていた。
「船長殿のご懸念は、僕も完全に同意します。アナトリア様を危険な航海に同行させることは、本来あってはなりません。ですが」
ベルは一度言葉を切り、アナを真っ直ぐに見据えた。
「アナトリア様を送還した場合の政治的リスク。そして、彼女の性格を鑑みるに、送還中に更なる『予測不能な事態』を引き起こす物理的リスク。この二つを天秤にかける必要があります」
アナが「あら、買い被ってくれて嬉しいわ」と悪戯っぽく微笑む。
「結論として、アナトリア様の同行を認めます。ただし、これは僕が全権大使として下す『命令』です。船内では、僕の指揮に従っていただきます。よろしいですね、アナトリア様?」
ベルの瞳には、有無を言わせぬ強い意志が宿っていた。アナは一瞬だけ目を丸くしたが、やがて楽しそうに口元を綻ばせた。
「ええ、いいわ。あなたの命令、聞いてあげる」
こうして、規格外の同行者の処遇は決まった。だが、嵐はまだ終わらない。次なる議題は、船室の割り当てだった。
「では、ベルの部屋に私の寝台を入れてくだされば結構よ。第一夫人なのだから当然でしょう?」
「当然じゃないニャ! この旅は旦にゃさまとの新婚旅行ニャ! 一緒の部屋に決まってるニャ!」
「そもそもこれは外交任務ですってば!」
ベルは、もはや反論する気力も失せ、すっくと立ち上がった。
「わかりました。解決策があります」
彼はにっこりと、天使のような笑顔を浮かべた。
「僕はフィン君と同室を使います。女性陣の皆様は、どうぞ、この船で最も豪華な貴賓室ブロックを、皆様で仲良くお使いください。それが最も平和的で、僕の安眠にも繋がりますので」
そう言い残し、ベルはフィンを促してさっさと部屋を出て行った。扉が閉まる直前、フィンの「べ、ベルくぅん……!」という悲鳴にも似た声が聞こえた気がした。
残された会議室。アナとテトは顔を見合わせ、その間にパチパチと見えない火花が散る。ウールは深々と溜息をつき、ヘレンは「ベル様……さすがです……」と感涙に咽んでいた。
船上の乙女戦争、第一ラウンドのゴングは、かくして鳴らされたのである。
アナトリア・フィリスティアという名の嵐が加わったことで、船上の日常は、より複雑で、より鮮やかな色彩を帯び始めた。
午前中は、アナが主催する「フィリスティア式・優雅なるお茶会」の時間だ。風除けの魔法障壁が張られた甲板の一角に、純白のテーブルクロスが敷かれ、ウールとヘレンが腕によりをかけて焼き上げたスコーンやマドレーヌが、銀の三段トレイに美しく並べられる。
「いいこと、テト? カップを持つときは、指を輪に通さず、つまむように。そう。背筋を伸ばして。紅茶の香りは、まず目で楽しむものよ」
アナは完璧な作法で、ベルにロイヤルブレンドを注ぎながら、テトに指導する。
「にゃー……窮屈ニャ……。この小さいお菓子、一口でいけないかニャ?」
「だめ。一口は、はしたないレディのすることですわ」
「むー……」
テトは不満げに頬を膨らませるが、ベルが「美味しいですよ」と微笑むと、途端に機嫌を直して小さなフォークと格闘を始める。
そんな光景を眺めながら、ウールは内心で舌を巻いていた。
(面倒な女だが、伊達に王女やってねぇな……。紅茶の淹れ方一つ、茶葉の選び方一つに、相手国への敬意だの政治的メッセージだのが込められてる、か。なるほど、外交ってのはこういう積み重ねなんだな)
アナの語る知識は、ただの作法に留まらず、国家間の駆け引きの歴史そのものだった。それは、ウールの前世の知識にもない、この世界のリアルな情報だった。
そして午後になると、船上の空気は一変する。今度はテトが主催する「チャタル式・豪快BBQパーティー」の開幕だ。屈強な獣人の船員たちに混じって、テトは自ら巨大な肉塊に串を打ち、特製の甘辛いタレを塗りつけていく。
「さあ、みんな! 歌って、踊って、食べるニャ! これが獣人の作法ニャ!」
陽気な船乗りの歌が響き渡り、甲板は熱気と香ばしい匂いに包まれる。
最初は眉をひそめて遠巻きに見ていたアナも、ベルに「一口いかがですか?」と差し出された串焼きを、ためらいがちに口にした。
「……まあ、悪くないわね。少し、味が濃すぎるけれど」
そう言いながらも、二口、三口と頬張る姿は、ただの10歳の少女そのものだった。文化の違いを越えて、ほんの少しだけ、二人の王女の間に和やかな空気が流れる瞬間だった。
そんな光景を、ヘレンは少し離れた場所から、静かに見つめていた。
(嗚呼、ベル様は太陽……その光は、分け隔てなく万物を照らします。しかし、太陽に群がる不埒な蛾は、私がその身を焼いてでも、払い除けなければ……)
彼女の祈りは、日に日に熱を帯びていくようだった。
ベルは、この賑やかな日常の合間を縫って、船長と二人きりで話す時間を設けていた。海図が広げられた船長室で、彼はチャタル王国の内情について、より深い情報を収集していたのだ。
「チャタルは一枚岩ではございません」
船長は、太い指で地図上の一点を指し示した。
「我が王、ケルヌンノス陛下は人間との融和政策を推し進めておられますが、全ての獣人がそれに賛同しているわけではない。特に、古くからの武闘派貴族で構成される『爪牙騎士団』は、人間の力を借りることを良しとしない保守派の筆頭です」
「爪牙騎士団……」
「ええ。彼らは『獅子』『虎』『豹』といった有力部族の長老たちと繋がりが深い。テト王女殿下が、人間の、それも他国の貴族を婚約者とされることに、最も強く反発するであろう勢力です。シレイラ男爵、貴殿はチャタルに着けば、彼らに睨まれることになるやもしれません」
船長の言葉は、これからの旅路が決して平坦ではないことを、ベルに強く予感させた。
その夜、船は穏やかな湾に投錨し、静寂に包まれていた。昼間の喧騒が嘘のように、甲板には月光と星の光だけが降り注いでいる。ベルは一人、手すりに寄りかかり、漆黒の海面を見つめていた。
(陛下は、僕に何を期待しているのだろう。この外交が成功すれば、シレイラ家は安泰だろう。でも、失敗すれば……。前世の知識は、この世界の政治にどこまで通用するのか。この七歳の小さな体で、僕はどこまでやれるのだろうか)
転生者としての自覚と、子供の身体であることのギャップ。背負わされた責任の重さに、時折、心が軋むような感覚を覚えていた。
「眠れないの?」
静かな足音と共に、アナが隣に立った。夜風に金色の髪をなびかせる彼女は、昼間の高慢な表情を脱ぎ捨て、年相応の少女の顔をしていた。
「少し、考え事を。アナこそ」
「私もよ。あなたと同じ」
アナは海を見つめ、ぽつりと言った。
「あなた、父様に厄介払いされたとは思わないの?」
その言葉は、ベルが心の奥底に押し込めていた不安そのものだった。
「……そう考えないように、努めています」
「正直ね」
アナは小さく笑った。
「父上は賭けをしているのよ。あなたという『規格外』の駒に。この外交が成功すれば、フィリスティアは獣人王国という強力な味方を得る。失敗しても、失うのは辺境の新米男爵一人と、少しばかりの国の威信だけ。ローリスク・ハイリターンな賭けのチップ。それが、今のあなたなのよ、ベル」
アナの分析は、驚くほど冷静で、的確だった。彼女はただのワガママな王女ではない。国の行く末を憂う、本物の為政者の目を持っていた。
「だから、私が必要なの」
アナはベルの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「あなたはチップかもしれないけれど、私はプレイヤーの一人よ。この国の血を引く私があなたの隣に立つことで、父上はこの賭けを簡単には降りられなくなる。あなたを、ただの捨て駒にはさせないわ」
それが、彼女が危険を冒してまでこの船に乗り込んだ、本当の理由だった。
「……ありがとうございます、アナ」
ベルは、初めて心からの感謝を込めて頭を下げた。
「あなたの覚悟、しかと受け取りました」
その時、マストの影から、小さな獣の耳がぴょこんと現れた。二人の真剣な会話を、テトが息を殺して聞いていたのだ。
「……旦にゃさまが、難しい話してる……」
しょんぼりと呟きながら出てきたテトの瞳は、不安に揺れていた。
「あたし、ちゃんと旦にゃさまの役に、立ててるかニャ……?」
アナのような難しい話はできない。ただ、ベルが好きだという気持ちだけで、ここまで来てしまった。その無力さが、彼女を不安にさせていた。
ベルは、そんなテトの頭を優しく撫でた。
「テト。あなたがいなければ、そもそもチャタル王国への道は開かれませんでした。あなたは僕にとって、そしてフィリスティアにとって、何よりも大切な希望の光ですよ」
「旦にゃさま……!」
テトの瞳に、ぱあっと明るさが戻った。
そこへ、ウールが呆れたように腕を組んで現れ、ヘレンが静かに寄り添い、フィンが毛布を数枚抱えて小走りにやってきた。
「お前ら、夜更かししてると明日に響くぞ」
「ベル様のお側に、夜の闇が近づかぬよう、お祈りを」
「み、皆さん、風邪をひいたら大変ですから、これを……!」
小さな転生者たちが、それぞれのやり方で、リーダーであるベルを支えようと集まってきた。それは、この異世界で彼らが築き上げた、かけがえのない絆の形だった。
和やかな空気が、彼らを包み込んだ、まさにその瞬間だった。
夜の静寂を切り裂いて、船の見張り台から絶叫が響き渡った。
「敵襲ーッ! 船影三隻、こちらに高速で接近中! 方位、南南東より! 距離、三千!」
その声は、平和な夜を粉々にするハンマーの一撃だった。即座に船内に銅鑼の音が鳴り響き、眠っていた獣人の船員たちが雄叫びを上げながら持ち場へと駆けていく。
ベルたちの顔から、子供の表情が消えた。
「来たか……!」
ウールが銃を抜き放つ。
闇の向こう、水平線上に、三つの不気味な光点が揺れていた。
「船長殿! 敵の識別旗は!?」
ベルの叫びに、望遠鏡を覗いていた船長が苦々しく答えた。
「旗は無し! だが、船首に紋章が描かれている……鎖と、鍵……!? まさか、『枷』の……!?」
次の瞬間、ヒュッ、と空気を切り裂く音がした。先頭の敵船から放たれた弩の矢が、帆柱のすぐ横を掠め、甲板に突き刺さる。明確な敵意。警告ではなく、攻撃の始まりだった。
「全員、戦闘態勢!」
ベルの声が、夜の甲板に凛と響いた。それはもう、七歳の少年の声ではなかった。幾多の知識と経験を持つ、指揮官の声だった。
「テトは従魔召喚の準備! アナは船員たちの士気高揚を! ウールは遊撃、ヘレンは後方支援! フィン君は僕の隣で情報の伝達役をお願いします!」
全員が、一糸乱れぬ動きで頷く。
「行くわよ!」アナは剣を掲げ、王女としての威厳に満ちた声で船員たちを鼓舞する。「フィリスティアの王女、アナトリアが命じます! 怯むでない!」
「マオリス、あたしの影から出でよ! 旦にゃさまは、あたしが守るニャ!」
テトの足元から、黒豹の影が実体化する。
敵船は扇状に広がり、包囲網を狭めてくる。絶望的な状況。しかし、ベルたちの瞳に恐怖の色はなかった。
「来ましたね」
ベルは静かに呟き、眼前に迫る三つの影を真っ直ぐに見据えた。彼の隣には、銃を構えるウールと、震えながらも懸命に立つフィン。背後には、祈りを捧げるヘレンと、王女として立つアナ、そして獣の力を解放したテトがいる。
船上の乙女戦争は、恋の火花から、本物の戦火へと姿を変えた。
夜の海に、今、戦いの幕が上がる。




