第76話 旅路
フィリスティア王国の玄関口、王都エクロンの港。その活気は、大陸でも随一と謳われる。数多の船が行き交う中でも、ひときわ人々の目を引く一隻が、静かに出航の時を待っていた。
流麗な船体に、黒檀のごとき光沢を放つ木材。船首には、天に向かって咆哮する黄金の獅子像が鎮座している。掲げられた帆には、獣人王国チャタルの国章「咆哮する百獣」が、誇らしげに風をはらんでいた。王国の至宝たる帆船である。
この船がこれから成すは、二つの国の未来を繋ぐ重要な航海。フィリスティア王国からの全権大使とその一行を乗せ、遥か南の大陸に位置する獣人王国を目指すのだ。
「はぁ……すごい船ですね……。僕なんかが乗ってしまって、本当にいいんでしょうか……」
船のあまりの威容に気圧され、自信なさげに呟いたのは、ゲティングス辺境伯家の三男、フィン・ゲティングスである。彼の隣では、今回の旅の主役たる少年――ベル・シレイラ男爵が、腕を組んで静かに船を見上げていた。
(全権大使、ですか。まさか、この歳でこんな大役を任されることになるなんて、前世の僕が聞いたら腰を抜かすでしょうね……)
ベルは内心で、前世の、ごく普通の日本人だった自分を思い浮かべ、苦笑した。この世界に転生して七年。様々な出来事があったが、これは間違いなく最大級の想定外案件である。これも全て、国王イラーフの気まぐれのせいだった。
「旦にゃさま! 見てくださいニャ! すごく大きくて立派な船ですニャ! これから始まる旦にゃさまとの新婚旅行に、これ以上ないくらいぴったりの船ですニャーッ!」
ベルの憂いを吹き飛ばすかのように、元気いっぱいの声が響く。ライオン獣人の愛らしい王女、バステト・チャタル――テトである。彼女は大きな瞳をキラキラと輝かせ、ふさふさの尻尾を喜びのままにぶんぶんと振りながら、この旅を「新婚旅行」であると一点の曇りもなく信じ切っていた。同じく転生者である彼女の、その鋼のメンタルとポジティブシンキングには、ベルも時々感心を通り越して畏怖を覚える。
「テトさん、何度も言いますが、これは外交任務です。決して新婚旅行などではありませんよ」
「むー! 固いことは言いっこなしニャ! 旦にゃさまと二人きりの船旅……きっと日本のアニメみたいな素敵なイベントが盛りだくさんニャ!」
二人きり、というわけではないのだが、テトの脳内では都合よく変換されているらしい。今回の旅には、ベルの従者として、さらに三人の転生者仲間が同行していた。
まず、シレイラ家の従者にしてベルの護衛を務める、ウールとヘレン。
「ちっ、相変わらず騒がしい猫だな。ベル、あんまり構ってやるなよ。調子に乗るだけだぜ」
ぶっきらぼうにそう言い放ったのは、ウール。孤児の少年だった彼は、ベルに拾われた。口は悪いが、ベルへの忠誠心と友情は誰よりも強い。
「ウール、いけません。テトはベル様の第二夫人となられるお方。そして、ベル様がこの旅をお決めになったのですから、私達はその御心のままに従うまでです」
うっとりとした表情でベルを見つめながら言ったのは、ヘレン。光を失っていた彼女は、その瞳をベルの奇跡的な力によって癒された。以来、彼女の中でベル・シレイラは信仰の対象、すなわち「神」となっている。
そしてもう一人、友人であるフィンも、なぜか従者という扱いでついてきていた。
「す、すみません、テトさん……。僕なんかがいて、新婚旅行の邪魔になっていませんでしょうか……?」
「フィンは気にしなくていいニャ! 旦にゃさまの友は、あたしの友でもあるんだからニャ!」
「あ、ありがとうございます……!」
心優しいフィンの気遣いに、テトはにぱっと笑って答えた。
そんな転生者一行の前に、一人の男が威風堂々と歩み寄ってくる。
「おお、ベル男爵。ご準備は万端のようですな」
フィリスティア王国宰相、テルミニ・イメレーゼ侯爵。その頭部は、数週間前の見る影もなかった不毛地帯から、漆黒の髪が豊かに生い茂る大森林へと、劇的な復活を遂げていた。港の潮風に、その見事な黒髪がダンディに靡いている。
「はい、テルミニ宰相閣下。お見送り、恐縮です」
「何の、これしきのこと。……ベル男爵、この国の未来、獣人王国との友好は、貴殿のその小さな双肩にかかっております。このテルミニ、王都より貴殿の成功を、我が髪に誓って祈っておりますぞ!」
感極まった様子で、自らの髪をファサッとかき上げるテルミニ。その瞳には、もはやコンプレックスの影はなく、絶対的な自信と、ベルに対する神にも似た崇拝の色が宿っている。
(本当に、この人の変わりようはすごいですね……)
ベルは若干引きつつも、礼儀正しく一礼した。
やがて、出航の時を告げる大きな銅鑼の音が、港に朗々と響き渡った。
「さあ、旦にゃさま、行きましょうニャ!」
テトに手を引かれ、ベルはタラップを上がる。ウール、ヘレン、フィンもそれに続いた。
「ベル男爵、ご武運を!」
岸壁から、テルミニ宰相が大きく手を振っている。その姿は、忠臣というより、我が子の初めてのお使いを見送る父親のようであった。
チャタル王国の魔導帆船は、魔法の力で風を捉え、滑るように港を離れていった。
王女であるテトと、全権大使であるベルに与えられた船室は、王都の高級ホテルと見紛うほど豪華絢爛な内装が施されている。
「うわー! すごいニャ! このベッド、あたしと旦にゃさま2人寝ても大丈夫そうですニャ!」
テトは、天蓋付きの巨大なベッドにダイブすると、猫のようにごろごろと転がり始めた。
一方、ベルは窓から遠ざかっていくフィリスティアの街並みを静かに眺めていた。
(それにしても、本当に異世界に来たんだな、と改めて思いますね)
前世の記憶があるからこそ、目の前に広がる光景――獣人の船員、そしてこれから向かう未知の国――の全てが、新鮮な驚きとなって胸に迫る。
そんなベルたちの元へ、甲板からフィンの少し怯えたような声が届いた。
「べ、ベル君! テトさん! よかったら、甲板に出てみませんか? す、すごい景色ですよ……!」
フィンに促され、一行が甲板へ出ると、そこには壮大な光景が広がっていた。
どこまでも続く、紺碧の海と、抜けるような青い空。潮風が心地よく頬を撫で、カモメたちが船の周りを追いかけるように飛んでいる。獣人の船乗りたちは、屈強な体でテキパキと帆を操りながら、時折陽気な船乗りの歌を口ずさんでいた。
「うわぁ……すごいです……。海って、こんなに広かったんですね……」
シレイラ領という内陸で育ったフィンは、初めて見る大海原に、目を丸くして感動していた。
「だな。前世で見たのとはスケールが違うぜ。魔物とか出なきゃいいけどな」
ウールが手すりに寄りかかりながら、ぶっきらぼうに言う。
「ベル様がおいでです。どのような魔物が現れようと、神の御前では塵芥に同じことでしょう」
ヘレンは、祈るように胸の前で手を組み、うっとりと呟いた。
「大丈夫ニャ! 旦にゃさまはあたしが守るから、何も心配いりませんニャ!」
テトは、なぜか得意げに胸を張り、ベルの腕にぎゅっと抱きついた。
航海は、驚くほど順調だった。
この世界の海、特に大陸から離れた外洋は、「海の主」と呼ばれる超巨大海獣が巣食う魔の領域だ。そのため、今回の航路も、大陸の沿岸をなぞるように進む、比較的安全なルートが選ばれていた。それでも、チャタル王国までは数日を要する長旅である。
穏やかな時間が、ゆっくりと流れていく。
このまま、何事もなく平穏な旅が続く。転生者一行の誰もが、そう思い始めていた。
出航から半日が過ぎ、太陽が西の空に鮮やかなオレンジ色を描き始めた、その時だった。
「何事だ!?」
「静かにしろ! 今、物音がしなかったか?」
「積み荷の影だ! 誰かいるぞ! 囲め!」
船内が、にわかに騒がしくなった。
下層の船倉の方から、獣人たちの鋭い怒声と、何かが倒れるような物音が響いてくる。のどかだった船の空気が、一瞬にして鋼のような緊張に包まれた。
「な、何でしょう……? 海賊でしょうか……?」
フィンがおろおろとベルの後ろに隠れる。
「ったく、面倒なことになりそうだな」
ウールは舌打ちし、いつでも動けるように腰を低くした。
「密航者ですニャ!? 旦にゃさまとの神聖な新婚旅行を邪魔する不届き者は、このあたしが肉球パーンチで海の藻屑にしてやりますニャ!」
テトは、ぷんすかと頬を膨らませ、戦闘態勢に入る。
やがて、屈強な獣人の船員たちが、一人の「密航者」を甲板へと引きずり出してきた。
「ベル大使閣下、テト王女殿下! 密航者を捕らえました! いかがいたしましょうか!」
船の責任者である、歴戦の勇士といった風貌のライオン獣人の船長が、ベルとテトに指示を仰ぐ。
「まずは話を聞きましょう。こちらへお連れください」
ベルが冷静に告げると、船員たちは密航者を彼らの前に突き出した。
引きずられてきたその人物は、高価そうなドレスをところどころ汚し、手入れの行き届いた美しい金髪も少し乱れていた。しかし、その凛とした佇まいと、逆境に屈しない強い光を宿した瞳は、何者にも隠しようがなかった。
その顔を見て、ベルたち転生者一行は、同時に動きを止めた。
時が、凍り付いたかのように。
「……アナ?」
「アナ王女殿下!?」
「なんであんたがここにいるんだよ……」
「あわわわ……」
「にゃっ!?」
そう。そこにいたのは、フィリスティア王国の第一王女、アナトリア・フィリスティア、その人であった。
アナは、船員たちに掴まれていた腕を振り払うと、ふん、と優雅に髪をかき上げた。そして、少しも悪びれる様子なく、天使のように愛らしく、しかし悪魔のように大胆不敵に微笑んだ。
「あら、みんな揃ってお出迎え? 着いてきちゃった、じゃダメかしら?」
「「「「「ダメに決まってます(るだろ)(ニャ)!!」」」」」
五人の声が、奇跡のようなハーモニーを奏でた。
ベルは、ずきずきと痛み始めたこめかみを押さえながら、目の前の規格外な王女に問い詰める。
「アナ……一体、どういうつもりですか。これは国と国との正式な外交です。王女である貴女が、密航など……あってはならないことですよ」
「わかっているわよ、それくらい」
アナは、呆れたように肩をすくめると、まるで世界の真理を説くかのように、堂々と胸を張った。
「考えてもみなさい、ベル。叙爵されたばかりの新米男爵が、一国の全権大使だなんて、チャタル王国にどう見られると思う? 『フィリスティアは人材がいないのか』『本気で友好を結ぶ気があるのか』と、足元を見られるに決まっているわ! 王女である私が見過ごせるはずがないじゃない!」
ぐうの音も出ないほどの正論だった。ベルもフィンも、返す言葉がない。
アナは、勝ち誇ったように笑みを深めると、矛先をテトに向けた。
「それに、そもそも原因を作ったのはあなたよ、テト」
「あたしですニャ!?」
突然名指しされ、テトは目をぱちくりさせる。
アナは、くいっとベルの腕に自分の腕を絡ませると、テトに言い放った。
「忘れたとは言わせないわ。前の舞踏会で、あなたはベルにこう提案した。『あたしが第二夫人でいいから、第一夫人はアナにお願いするニャ』って。覚えてるでしょう?」
「うっ……そ、それは……旦にゃさまが困ってるみたいだったから、助け舟を出しただけで……」
テトはしどろもどろになる。確かに、アナとどちらをパートナーに選ぶかという場面で、テトはそんな提案をしていた。まさかそれが、こんな形でブーメランとなって返ってくるとは。
「その提案、謹んで受けさせてもらうわ!」
アナは高らかに宣言した。
「このアナトリア・フィリスティアが、『ベル・シレイラの第一夫人』として、この旅に同行してさしあげます! これで、チャタル王国もあなたのことを無下に扱えないでしょう? あなたの提案に乗ってあげたのだから、感謝こそされ、文句を言われる筋合いはないはずよ、テト?」
「そ、そんな無茶苦茶な理屈が通るもんですかニャーッ! あれは社交辞令っていうか、その場のノリっていうか!」
「あら、王族の言葉に二言はない、と教わらなかったかしら?」
アナの完璧な論破に、テトは「うぐぐぐ……」と唸ることしかできない。
(夏休み、ベルもテトもフィンも、みんなでチャタルに行くなんてずるいわ! 私だけ王都でお勉強なんて、絶対に嫌だもの!)
そんなアナの本音が、そのキラキラした瞳の奥からだだ漏れになっていることに、本人は全く気づいていない。
ベルは、絡みついてくるアナの腕をそっと外し、ぎゃいぎゃいと言い争う二人を交互に見た。
そして、天を仰ぎ、心の底からの、静かで、しかし切実な呟きを、一つ、吐き出した。
「……誰が、いつ、結婚すると言ったんでしょうかねぇ……」
ベルの魂のツッコミが、穏やかな海原に虚しく溶けていった。
こうして、フィリスティア王国全権大使一行に、予定外の「第一夫人(自称)」が加わってしまった。
ベル・シレイラの、胃痛と波乱に満ちた獣人王国への旅路は、まだ始まったばかりである。




