第74話 毛生え薬
フィリスティア王国宰相、テルミニ・イメレーゼ侯爵。
その名は、怜悧な頭脳と鉄の意志、そして国への揺るぎない忠誠心の代名詞として、王国の内外に轟いている。 引き締まった体躯、彫りの深い端正な顔立ち、そして長年の激務が刻んだ目元の皺は、彼に威厳と渋みを与えていた。 だが、神は彼に全てを与えはしなかった。
テルミニ・イメレーゼ侯爵の頭頂部には―――髪が、なかった。
つるり、と磨き上げられた大理石のように滑らかなその頭皮は、彼の完璧な経歴における唯一にして最大の汚点であり、心の奥底に巣食うコンプレックスであった。
原因は明白だ。宰相としての、文字通り心身を削るほどの重責。そして何よりも、幼馴染である国王イラーフ・フィリスティアの、常軌を逸した我儘と、神々さえ呆れるほどの無茶振りである。
このフィリスティア王国では、悲しいかな、実力と同じくらい、あるいはそれ以上に見た目が重視される風潮が根強く残っている。「禿げ」というだけで能力を十全に評価されず、不運な者は昇進の道を閉ざされることすらあるのだ。
そんな逆風の中、実力のみで王国最高の地位である宰相にまで上り詰めたテルミニが、どれほどの傑物であるかは言うまでもない。
しかし、そんな鉄の宰相も、毎朝鏡に向かうたびに、自らの不毛の大地を目の当たりにし、深く、深いため息をつくのであった。
「はぁ……また我が領土が後退した気がする……。これも全て、イラーフのせいだ……」
そんなテルミニに、先日、王から直々に特命が下された。
獣人王国チャタルへの全権大使として、ベル・シレイラ男爵を任命する。その勅命を、直にベル本人へ伝え、協力を取り付けよ、と。
かくしてテルミニは、王国の未来を左右する密命を帯び、数人の供だけを連れて、王都の東に位置するシレイラ領へと馬車を走らせていた。彼がこの地を訪れるのは、これが二度目となる。
「……なんだ、これは」
地平線の彼方まで続く、巨大な白亜の城壁。その規模は、前回の訪問時よりもさらに拡大している。城壁の向こうには、まるでおとぎ話の挿絵から抜け出してきたかのような、黄金の尖塔や巨大な観覧車が林立し、空には色鮮やかな気球がいくつも浮かんでいた。
黄金郷シレイラ・ドリームランド。
城門の前には、開園を待つ人々の長蛇の列が、地平線の彼方まで続いている。馬車、乗り合い馬車、中には遠方から徒歩で来たのであろう者たちまでいる。その熱気と喧騒は、王都の建国祭すら霞ませるほどの凄まじさだった。
「(数か月で……ここまで発展したというのか……?)」
テルミニは、馬車の窓からその圧倒的な光景を眺め、しばし言葉を失った。前回訪れた時でさえ驚異的だったが、今のシレイラ領は、もはや一領地などではない。独自の文化と経済圏を持つ、一つの独立国家とさえ言えるほどの活気に満ち溢れていた。
(べアル・ゼブル・フィリスティア王子……いや、ベル・シレイラ男爵。あの少年が、これら全てを……。イラーフよ、お前はとんでもない傑物を、息子に持ったものだな)
衝撃の真実を知った今、この光景はテルミニの目に全く違って映っていた。これは単なる奇跡ではない。王家の、それも歴代最強の王と謳われるイラーフと、剣姫アシエラの血を色濃く受け継いだ王子の、隠された才能の発露なのだ。
どう接するべきか。王子として遇すべきか、それとも男爵として接するべきか。テルミニの胸中は、期待と、そしてわずかな畏怖の念で複雑に揺れていた。
シレイラ領主の館は、ドリームランドの喧騒が嘘のような、静かで洗練された場所に建っていた。
テルミニが馬車を降りると、館の扉が静かに開き、一人の少年が穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「ようこそお越しくださいました、テルミニ宰相閣下。二度目のご訪問、心より歓迎いたします。ベル・シレイラです」
艶やかな黒髪に、全てを見透かすかのような深い光を宿した黒い瞳。7歳という年齢が信じられないほど、その立ち居振る舞いは落ち着き払い、大国の宰相を前にしても、物怖じする様子は微塵もなかった。
(この威風……この覇気……。間違いない、王家の血統だ)
テルミニは、その小さな体に宿る王者の風格に、改めて戦慄を覚えた。
「うむ。宰相のテルミニ・イメレーゼである。ベル・シレイラ男爵、此度は急な訪問、失礼する。息災そうで何よりだ」
「閣下もご壮健そうで何よりです。ささやかではございますが、歓迎の宴の用意をさせていただきました。長旅でお疲れでしょう。どうぞ、こちらへ」
ベルに案内されて通されたのは、巨大なクリスタルのシャンデリアが輝く豪華絢爛な大食堂だった。
しかし、テーブルの上に並べられた料理の数々は、前回のそれを遥かに凌駕していた。
「こ、これは……なんと……」
前菜として出されたのは、冷たく冷やされたガラスの器に盛られた、海の宝石のような『生牡蠣』。
だが、今回はそれに加え、オレンジ色の魚卵が輝く『ウニのジュレ寄せ』や、極薄にスライスされた白身魚を花のように盛り付けた『カルパッチョ』が並んでいる。
メインディッシュは、巨大な伊勢海老の『テルミドール』に加え、見るからに柔らかそうな赤身の肉塊を分厚く切り分けた『シャトーブリアンのステーキ』。滴る肉汁と芳醇なソースの香りが、テルミニの食欲を容赦なく刺激する。
そして、黄金色に輝く泡立つ酒、『シャンパン』。これも前回飲んだものより、明らかに香りが深く、泡立ちが繊細だった。
「(料理も酒も、全てが進化している……! この数か月で、この少年はどれだけのものを生み出したのだ……!)」
テルミニは、改めてベル・シレイラという存在の底知れなさを実感していた。
この少年は、ただの規格外な王子ではない。無から有を生み出し、常にそれを改良し、人を惹きつけ、国を富ませる、真の『創造主』であり『王』の器を持っている。
宴もたけなわ。
最高級のワインとシャンパンを浴びるように飲み、すっかり上機嫌になったテルミニは、いつしか宰相という鉄の仮面を脱ぎ捨て、一人のただの中年男になっていた。
「いやあ、美味い! 実に美味いぞ、ベル殿! これほどのステーキは、王宮の晩餐会でもお目にかかれん! いったいどこの牛なのだ!」
「ドリームランド内の牧場で育てた、シレイラ牛です。ビール粕を飼料に混ぜて、毎日マッサージをしています」
「び、びーる粕で牛を……!? 発想がもはや常軌を逸しておるわ!」
アルコールのせいか、それともこの心地よい雰囲気のせいか。テルミニは、長年心の奥底に封じ込めてきた愚痴を、ついにこぼしてしまった。
「しかし、だ。……これほど美味いものを食べても、儂の悩みは尽きん……。宰相という立場は、実にストレスが多くてな……。特に、我が君、イラーフ陛下は、昔から本当に我儘で無茶振りばかり……。そのせいで、儂のこの頭も、日に日に寂しくなる一方でな……。はっはっは……」
自嘲気味に笑いながら、テルミニは無意識に、光り輝く自分の頭を撫でていた。
言ってしまってから、「しまった」と思った。いくら相手が子供とはいえ、国家の宰相が、みっともない弱音を吐いてしまった。しかも、相手の父親の悪口まで……。
だが、ベルの反応は、テルミニの予想とは全く違うものだった。
少年は、きょとんとした顔で、まるで道端の石ころでも拾うかのように、あっけらかんと言い放ったのだ。
「なんだ、そんなことですか。大丈夫ですよ、テルミニ様」
ベルは、こともなげに続けた。
「僕に、とっておきの『毛生え薬』がありますから」
「………………は?」
テルミニの動きが、完全にフリーズした。
今、この少年は何と言った? け、毛生え薬……?
そんなものが、この世に存在するなど、聞いたこともない。宮廷魔術師や錬金術師たちが、古今東西、血眼になって研究してきたが、成功したという話はついぞ耳にしたことがなかった。禁忌とされる魔術や、神話の時代の秘薬にその名が記されているだけだ。
「ベル殿……そ、それは、まことか? からかっているのではあるまいな?」
震える声で尋ねるテルミニに、ベルはにっこりと微笑んだ。
「ええ、もちろん。少々お待ちください。今、作ってきますから」
「工房魔法・入室」
そこは、部屋ではなかった。
宇宙空間のような、無限に広がる蒼黒の空間。足元にはガラスのような床が広がる。壁という概念はなく、モニター内には、ありとあらゆる鉱物、植物、魔物の素材が収められていた。
ベルは空間の中央に進むと、何もない空間にすっと手をかざした。
「ライブラリー発動」
「ええと……『発毛』、『育毛』、『細胞活性化』……あった。『神々の育毛剤』。古代文明のレシピですね。これなら間違いないでしょう」
ベルが指で一つの項目に触れると、目の前に複雑怪奇な錬金術のレシピと魔法陣が展開され、数種類の希少なハーブと、光り輝く液体の入った小瓶がモニターに映し出された。
「創造開始開始」
ベルが静かに呟くと、素材が眩い光に包まれる。光の中で、ハーブは分解され、液体と混ざり合い、魔法陣がそれらを再構築していく。錬金術と魔法が高度に融合した、神秘の光景。
やがて光が収まると、そこには掌に乗るほどの、エメラルドグリーンに輝く液体が入った、美しいクリスタルの小瓶が一つ、静かに浮かんでいた。
「はい、どうぞ。お風呂上がりに、頭皮によくすり込んでください。すぐに効果が出ますから」
あまりにもあっさりと差し出された小瓶を、テルミニは震える手で受け取った。
(こ、これが……神々の……薬……?)
もはや、疑う気持ちは微塵もなかった。
この少年は、人ではない。神の領域に触れる力を持った、超越者なのだ。
その夜。
歓待された客室の豪華な風呂で身を清めたテルミニは、鏡の前に一人、仁王立ちになっていた。
右手には、神々の叡智の結晶。左手は、固く腰に当てられている。
ゴクリ、と喉が鳴る。これが、我が人生の転機となるか。
「……ええい、ままよ!」
意を決したテルミニは、小瓶の栓を抜き、中の液体を数滴、不毛の大地に垂らした。
ひんやりとした液体が、頭皮に染み込んでいく。森の夜明けのような、清々しく、そして生命力に満ちた香りがした。
そして、指の腹で、優しく、祈るように、マッサージを始めた。
その瞬間だった。
「なっ……!?」
頭皮が、じんわりと温かくなってきた。
いや、違う。熱い! まるで、何万年も眠っていた火山が一斉に噴火するような、あるいは、乾ききった大地に恵みの雨が降り注ぎ、生命が一斉に芽吹くような、凄まじく力強いエネルギーが、死滅したはずの毛根の一つ一つから、マグマのように湧き上がってくるのを感じる!
むずむず……むずむず……! じわじわじわっ!
何かが、生えてくる!
信じられない速度で、何かが、固く閉ざされた頭皮を突き破って、天を目指して伸びてくる感覚!
恐る恐る、テルミニは鏡を見た。
そして、彼は、生涯忘れることのないであろう、天地創造の如き奇跡を目の当たりにした。
「おお……おおおおおおおおおおっ!!」
彼の、長年不毛の大地であった頭頂部に、黒々とした産毛が、まるで雨上がりの草原のように、一斉に、力強く顔を出しているではないか!
しかも、それは産毛では終わらなかった。
見る、見る、うちに!
産毛は漆黒の力強い黒髪へと成長し、ぐんぐん、ぐんぐんと、生命の歓喜を叫ぶかのように伸びていく!
1センチ、5センチ、10センチ!
まるで、神が世界を創造する様を早送りで見ているかのようだ。
ほんの数分後には、テルミニの頭は、若い頃でさえ経験したことのないような、豊かで艶やかな黒髪で、完全に覆い尽くされていた。
ふさふさ、だった。
もっさり、と言ってもいい。
そこには、もはや頭髪に悩む宰相の姿はなかった。
いるのは、威厳と精悍さに加え、若い騎士たちを凌駕するほどの、圧倒的な色気さえ漂わせる、一人の完璧な美丈夫であった。
「は……生えておる……」
テルミニは、夢中で自分の髪をかきむしった。
指に絡みつく、力強く、しなやかな髪の感触。本物だ。幻ではない。我が頭上に、失われたはずの森が、黒々とした大森林が、甦ったのだ。
「我が頭上に……栄光が……! 栄光が、甦ったぞおおおおおおおおっ!!!」
その夜、シレイラ領主の館に、一人の男の魂の雄叫びが、天を衝くように響き渡ったという。
翌朝。
ベルの前に現れたテルミニの姿は、昨日とはまるで別人だった。
ふさふさの黒髪をオールバックにきめ、その表情は絶対的な自信に満ち溢れている。もはや、彼からコンプレックスの影は微塵も感じられなかった。
彼は、ベルの前に進み出ると、表向きは宰相としての威厳を保ちつつも、その瞳の奥には、神に相対するかのような、深い畏敬と心酔の色を宿していた。
(ベル・シレイラ男爵……いや、べアル・ゼブル・フィリスティア王子殿下)
テルミニは、内心で固く誓った。
(この御方こそ、フィリスティアを、いや、この大陸を導く真の王。我が知識、我が力、我が命、その全てを、この御方に捧げよう。イラーフには申し訳ないが、我が忠誠は、今この瞬間より、完全に貴方様のものです)
この瞬間、王国宰相テルミニは、公私ともに、ベル・シレイラの最も強力な後ろ盾となった。彼の心は、もはや国王イラーフではなく、この若き創造主に完全に掌握されていたのだ。
「さて、シレイラ男爵。実は、陛下より、貴殿に極秘の勅命が下っている」
ようやく本題を切り出すテルミニだったが、その態度はもはや王命を伝える使者ではない。心酔する主君に、次なる戦場を恭しく報告する、忠臣そのものであった。
髪一本で、人の心はここまで変わる。
ベルは、自らが作り出した薬の、思わぬ副次効果に少しだけ呆気にとられながらも、王国の未来を左右する、次なるステージへと足を踏み入れることになるのだった。




